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本塁打でホームインした際に空に向けて指さしするのは「おかん、見てるか」の思いから【岩村明憲連載#7】

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世界へ目を向ける原点だった母の存在

 2004年は僕にとってはキャリアハイの成績を残すなど充実したシーズンとなりましたが、プライベートでは苦しみを抱えていました。

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最愛の母にメジャーで戦う姿を見せたかった(母・美千代さん、父・芳明さんと)

 最愛の母、美千代が初夏のころ、肺がんと診断されたのです。たばこも一切吸わず、美容室を長年切り盛りするなど、それまで病気とはほとんど縁がなかった人なので、家族全員が驚き、悲しむと同時にすぐに対策を練りました。

 東京に呼び寄せ、最先端治療を受けさせるなど必死に策を尽くしましたが、なかなか病気の進行は止まってくれない。悩みましたね。

 プロ入り後から開幕戦の時には東京の自宅まで地元・宇和島産のタイを持参し、「先の見通しが良くなるように」とレンコン料理を作ってくれるような母でした。小さいころは厳しかったですが、プロ入り後は誰より応援してくれました。

 世界へ目を向ける原点も実は母にありました。母はフランスで行われていた美容師の国際大会にたびたび出場し、入賞するなど腕を磨いており、乳飲み子だった僕を成田空港で親戚に預けて、渡仏したこともあったようです。

 小さいころから家にはトロフィーが飾られており物心ついた時にその意味が分かり、「おかんはすごい」となりました。

 世界を舞台に戦った母だからこそ、メジャーで戦う僕を見せたい。そんな気持ちが強かったように思います。

 また、闘病生活を送っている時は僕にできることは何でもやろうと必死でした。04年夏に行われた球宴では第1戦が行われた名古屋から、第2戦の長野まで自分の車に乗せて、移動したりもしました。

 少しでも体を休めてもらいたいと畳のある旅館を用意して。とにかく元気なうちに僕の雄姿を少しでも目に留めてもらいたかった。

 そして、あの日を迎えました。05年、8月26日。58歳の若さで母は天国へ旅立ちました。一報を受けた僕はチームに報告を入れるとともに、その日の試合出場を直訴しました。

 若松監督には何度も「お母さんの元へ帰ってやれ」と言っていただいたのですが、母の生前の口癖が「元気だったら、試合に出なさい」でした。だから何としても、この試合は出たかった、逆に帰ったらいけないような使命感にかり立てられました。

本塁打を放ち天を指さす岩村(06年8月、神宮)

本塁打で生還し、天を指さす岩村(06年8月、神宮)

 そして喪章をつけ臨んだ試合では、4打数3安打、2打席連続となる本塁打と打ちまくりました。本塁へ帰塁した際に空へ向けて指さしたのは、少しでも母に見てもらいたかったから。それ以来、ホームランでホームインした際には、「おかん、見てるか」と空に向けての指さしが習慣となりました。

 亡くなったことは本当に悲しかったですが、今ではより近くで見守ってくれているように感じています。

ありがたかったです!多菊球団社長の気配り

 僕のメジャー挑戦の恩人といえば、当時の球団社長、多菊さんには非常にお世話になりました。

 ポスティング挑戦を表明した2002年のオフには「安定した成績を3年残してから」と言われ同時に「3割、30本、30盗塁」の条件も出されました。

 僕としては、条件を出されて「行きたいから打つ」わけではなく、「打って結果が出たら(メジャーに)行ける」と自分の実力がついた上で、自然の流れの末にメジャーに行けたらいいと考えていました。ただ明確な数字を出されたことで、背中を押された気もしました。

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ポスティング移籍では多菊球団社長に気を配ってもらった

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