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39歳の若さで星野仙一氏が監督就任「私でも怖かった」【宇野勝連載#6】

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莫大借金トラブルも自己最高の41本塁打

 1985年、宮崎県串間でのキャンプを終えていよいよ開幕が迫った時だった。前年に本塁打王のタイトルを獲得し、日米野球で存在感を示した私は自信満々でシーズンに入ろうとしていた。名古屋市内の中日新聞社では毎年恒例の開幕直前の激励会があった。その席でいきなりマネジャーに呼ばれ、ある明細書を見せられた。さすがの私も驚いた。

 それは私のクレジットカードのもの。そこにはちょっと信じられないような金額の数字が並んでいた。私は83年に結婚したが、ファミリーカードを持っていた当時の妻が毛皮やら何やら高級品を私の知らない間に買いまくり、すでに返済できない額にまで膨れ上がっていた。正直「よくこれだけ使ったな」と感心するぐらいだった。彼女とは1度会って問い詰めて、あとの詳しい話は聞きもしなかった。それで離婚。残ったのは莫大な借金だ。

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借金トラブルの中で自己最多の41本塁打を放った

 前年に本塁打王に輝いた私はオフの契約更改で年俸が1600万円から3900万円に大幅にアップした。しかし、そんなものでは到底返せない額。までは行っていなかったが、それに近いものだった。そんな時に借金の相談にのってくれたのが、球団経理の大河内さんと大越総務の2人だった。当初は額があまりにも膨大なために「破産宣告するか」という話まで出た。しかし「若いのがこれから野球をやるっていうのに、そんなのは良くない」と自己破産は取りやめ。代わりに借金返済の計画を立ててくれた。

「いいか。月に30万渡す。それで生活してくれ。給料はすべて管理するから」

 2人の提案は月30万円で年360万円が生活費、残った約3000万円を返済に回すというものだった。私は二つ返事で了承した。当時はすでに寮から出てマンション暮らし。その30万円から家賃や生活費を工面する。そんな生活が3年ほど続いた。当初は月30万円で生活できるのか、わからなかった。ただ不思議なことにその間、お金に苦しいと感じたことは一度もない。決してつましい生活をしていたわけではなかった。普通にご飯だって食べに行ったし、飲みにだって行った。それでも「足りない」と追加を申し入れたことはなかった。逆にたまっていった。

 ちょうど時代がバブル景気にさしかかったころ。スポンサーからは1打点でいくら、ホームラン1本で3万~4万円といった賞金が出ていた。そうしたことで助けられたのだろう。膨大な借金を背負った私だが、つらいなって感じはなかった。若かったので「当然、返せる」と思っていた。球団の方も「お前がやれば、給料で何とかしてやる」って親切に言ってくれてたので全く心配していなかった。「考えたってしょうがない」という私の性格もあったのだろう。

 この年、私は自己最高となる41本塁打を放った。

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