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チョップ200発!3年連続ベストバウトに選ばれた佐々木健介戦【小橋建太連載#8】

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プロレスの神様はどこまでも厳しかった

 ノア旗揚げを機に「健太」から「建太」に改名した。福知山の柔道部時代の友人が、姓名判断を勧めてくれて、こちらのほうが画数がいいという。

「ケンタ」は変えるつもりはなかった。他の人はファンから「三沢!」「川田!」と名字で呼ばれることが多かったけど、俺はなぜか「小橋健太!」って呼ばれることが多かったからだ。それにノアを「建てる」という意味もあった。

395日ぶりの復帰戦で左ヒザを負傷。プロレスの神様はどこまでも非情だった…(2002年2月17日、日本武道館)

 ケガとの闘いが始まったのもこの時期だ。旗揚げ初のビッグマッチ(2000年12月23日、有明コロシアム=対秋山準戦)翌日、足が全然動かなくなってしまった。6月には簡単な手術を受けていたが、いよいよ右ヒザが限界になり、翌01年1月シリーズ終了後から長期欠場に入り、本格的な手術を施すことになった。1月22日に4時間半に及ぶ手術を受け、3月までの間、両ヒザとヒジを合わせると手術は合計6回にも及んだ。

 骨盤の骨をヒザに移植して、靱帯を浮かせる手術は、現役スポーツ選手で前例がないという。それでも主治医の佐々木良介先生は「絶対復帰させる」と約束してくれたし、俺も「絶対復帰して第1号になってやる」という気持ちだった。

 とはいえ、ただひたすらプロレスのために全力疾走を続けてきた俺にとって生まれて初めて「立ち止まる」経験だ。サメが泳ぎをやめるようなもので、約3か月も練習できないなんて信じられなかった。「プロレスの神様は俺を見放したのか…」とも思ったよ。病室からは横浜の海がよく見えてね。行く船を見ながら「俺、もう復帰できないのか?」なんて思ったりもした。


 歩けない日々が続いたが、ヒジが伸びきって可動範囲が狭くならないよう、右腕で軽いダンベルを持ち上げたりしていた。やがて左腕の筋肉も落ちないように、両腕でダンベルを上げるようになっていた。

 5月にはようやくリハビリ施設のある病院に転院。7月には準(秋山)が三沢さんからGHC王座を奪取。「絶対勝つから会場に来て見届けてほしい」という準の言葉もあって、俺はテレビ解説で武道館を訪れた。やはり気持ちが震えた。試合後に準とガッチリ握手を交わした時は「必ずこの場所に戻ってくる!」と心に誓った。

第1試合で復帰戦を行った小橋。井上雅央を〝拷問〟コブラで締め上げる(02年7月、後楽園ホール)

 しかし「プロレスの神様」はどこまでも厳しかった。395日ぶりの復帰戦(02年2月17日、日本武道館=三沢光晴&小橋建太VS秋山準&永田裕志)で、今度は左ヒザの靱帯を断裂してしまう。試合を見に来てくれた佐々木先生の「また手術して入院しろとは言えない」という言葉が胸に響いた。家に帰っても何もする気がしない。復帰戦でケガするなんて、あまりにひどい仕打ちじゃないか…。

 それでもプロレスを辞めようとは、思わなかった。だってここで諦めたら俺の試合で「勇気をもらった」と言ってくれるファンの人に失礼じゃないか。結局、手術をすることはなく、同年7月5日の後楽園大会第1試合で復帰する。俺は十数年ぶりにトップロープを跳び越えてリングイン。「俺は大丈夫だ」という気持ちを込めてのものだった。そして03年3月1日、三沢さんからGHC王座を奪取して「絶対王者」と呼ばれる時代が幕を開けることになる。

三沢さんとは最後まで命を削り合う戦いだった

 2003年3月1日、俺はノア旗揚げ後、初めて三沢さんのGHCヘビー級王座に挑戦した。結果的にはこの一戦が三沢さんとの最後のシングルになるんだが、今でもこの試合が2人のベストバウトと言ってくれる人も多く、まあ内容は過酷を極めた。俺たちにしかできないプロレスをしようと思って臨んだ結果がそうだった。

 花道から場外にタイガースープレックスで投げ捨てられた時は宙に浮いた瞬間、一瞬頭の中が真っ白になり、ドーンとものすごい衝撃でマットに叩きつけられた。今思い出しても息が止まる。俺は俺で場外に飛んできた三沢さんをチョップで叩き落とした。三沢さんは場外柵に顔から落ち、アゴが抜けて歯がかけ落ちたほど。最後の垂直落下式ブレーンバスターでは、三沢さんの右足が俺の左目に当たり、眼窩底骨折を負ったほどだった。最後まで命を削り合う戦いだった。

 だけど今ビデオで見ても「ひどいなあ」と思うことは全くない。「ああ、こんなことをやったのか」とあらためて確認するぐらいだ。この時、三沢さんは、バックドロップなどの投げ技でも、丁寧に一つひとつクラッチをかけていることに気付いた。三沢さんも復活してきた俺に対し、相当な決意で試合に臨んでくれたんだろうな。

2003年3月1日、武道館のGHC戦では三沢さんに花道から投げ捨てられた

 チャンピオンになった俺にはひとつの目標というか意識があった。「対ほかのスポーツ」ということだ。プロレスを一般世間に広くアピールすること。その意識が13度もベルトを守る原動力になった。東京ドームのメーンを準との試合で任されて結果的には6万人が来てくれたんだけど、その思いが結実した結果でもあった。

 昔の米国の団体は、客の呼べるチャンピオンがいることで団体の経営も上向きになるということを聞いた。その意識を持って俺は地方のどの試合もベルトを巻いて上がるようになった。今ではKENTA(現王者)もベルトを巻いて日本全国の会場に出ているけど、ノアでは俺が最初だったと思う。

 だから王者でいた2年間はプレッシャーもキツかった。誰が相手でもお客さんの期待以上の試合をやろうと思っていたからだ。終わってもまたすぐ次のことを考えてしまう。観客の入りも気にしなければならない。あの緊張感はたまらなかったね。

 でも人間ドーンと構えて余裕でやっているよりも、緊張感を持って臨んだほうが、物事はいい方向に動くのも事実だ。05年3月、力皇(猛)に敗れて王座から転落した時も「悔しい、もう一度」と思った。そういう前を向く姿勢が新たな戦いを呼び込んだのかもしれない。それが佐々木健介選手との一戦だ。

 佐々木選手は同い年だがほとんど接点がなく、一度横浜駅で偶然に会ったきり。もうその時期になると「初対決」なんてものは限られてくる。しかも舞台は7月18日の東京ドーム。俺は会社から試合内定を聞かされた時「これはみんなが見たいカードになる」と確信した。どんな試合になるのか、相手の出方もわからないうちからだ。

健介(左)と合計200発のチョップ合戦を行った小橋(05年7月、東京ドーム)

 その予想は当たった。内容は皆さんも覚えていただいてるだろうけれど合計200発のチョップの打ち合い。勝負を超えて肉体と精神の限界を超えて「ここで下がっていられるか!」という思いだけで、チョップを繰り出した。後でビデオを見たら、当の俺が笑いだすほどの打ち合いだったな…。結局この試合は、前々年の三沢戦、前年の秋山戦に続き3年連続でベストバウトに選ばれることになる。

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こばし・けんた 1967年3月27日、京都府福知山市生まれ。本名・小橋健太。87年に全日本プロレスに入団し、翌年2月デビュー。四天王の一人として3冠ヘビー級、世界タッグ王座に君臨。2000年のノア旗揚げ後はGHCヘビー級王者として13度の防衛に成功し、鉄人王者と呼ばれる。06年に腎臓がんを患うも翌年奇跡の復活。その後は度重なるケガに悩まされ、13年5月11日に引退試合を行った。Fortune KK所属。

※この連載は2013年6月から7月まで全20回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全11回でお届けする予定です。また、最終回には追加取材を行った最新書きおろし記事を公開する予定ですので、どうぞお楽しみに!

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