1トンの猛牛と〝対決〟 緊張感はハンパじゃなかった【小橋建太連載#9】
デビュー以来の夢…海外遠征が実現した2005年
佐々木健介選手との東京ドームでの戦いでベストバウトを獲得した2005年は、忘れられない一年になった。初の海外遠征が実現したのもこの年だったからだ。
俺は若い時期に海外で武者修行したかったんだけど「今、米国で学ぶべきものはない」という馬場さんの意向で、日本で修行を続けた。だから海外遠征は、長い間の夢でもあった。
初めての米国はミズーリ州エルドン。人口わずか5000人程度の小さな田舎町で、ハーリー・レイス(元NWA世界ヘビー級王者)の主宰するWLWの本拠地だ。農地ばかりでやたら広い。9月25日、18年目にして初の海外試合は、WLW王者のチェド・チズム。現地のヒーローらしかった。ラリアートで勝ったんだけど、海外で「コバシコール」を聞くのは感無量だった。そういえば行きの飛行機では、白人の男性に股間をタッチされるハプニングもあったな…。
10月1日にはROHニューヨーク大会でサモア・ジョーとシングル戦で戦った。ジョーはいわゆるベビーフェース。それでも「コバシコール」が起き、最後は「ARIGATO(ありがとう)」コール一色だ。1500人ほどの会場だったが場内総立ち。海外サッカーの試合にもよく行くカメラマンに聞いても「ありがとうなんてコールは聞いたことがない」という。ああ、これがプロレスの醍醐味だなって痛感した。
翌日はペンシルベニア州フィラデルフィアで試合後、東スポの要請で農場特訓だ。約1トンの猛牛(ブル)を相手に投げ縄をすることになった。牧場の人も協力的で「ラリアート」と呼ばれるブルロープ=投げ縄を用意してくれた。
失敗すれば突進されて踏み殺される。必死になるしかない。俺はラリアートを回しながら、彼(牛)に近づいた。目をそらしたら負けだ。一歩また一歩。ジリジリ歩み寄ると、最後に彼(牛)は背を向けた。俺の勝ちだ。この時の緊張感はハンパじゃなかった。これに限らず東スポの特訓シリーズは、単なる絵作りじゃなかった。毎回毎回本気で取り組んだ。だからあれだけ続いたんだろう。
11月には初の欧州遠征だ。英国からドイツ。正直言って移動がハードすぎて、空港と飛行機とホテルと会場しか印象にない。初めてのドイツなのに「空港のタクシーが皆ベンツか…」ぐらいしか感想が浮かばなかった。
その後、英国とドイツは08年6月にも行くことになる。熱心なファンに神様扱いされたことが忘れがたい。プライベートではハワイ、グアム、台湾ぐらいしか行ったことがないけど、プロレスの遠征で行くと独特の解放感がたまらなかった。もう一度、今度は嫁(真由子夫人)を連れて、ゆっくりと米国の田舎町や欧州を訪れるのもいいかな。
次回はその嫁について語ろうと思う。
がんだと告げると「結婚して」と彼女は言った
初めて嫁(真由子夫人=演歌歌手・みずき舞)と会ったのは1996年5月、巡業中の札幌だった。この時、(秋山)準が三沢さんのパートナーに抜てきされ、世界タッグ王座を奪取。俺はパートナー不在の状態になっていた。馬場さんと札幌のホテルで話し合ったが「ちょっと待て」と言うばかりだ。俺は晴れない気持ちを抱いたまま、その夜、知人に誘われて食事会に出た。
共通の知人を介してその場に彼女も呼ばれていた。当時、北海道の観光ポスターに出たりしていたので、仕事で札幌に来ていたそうだ。俺はムシャクシャした気持ちのまま食事会に出たもんだから、つい飲み過ぎてしまった。連れていった後輩と一気(飲み)したり…。
もう誰がいたのか、何を話したのかも覚えていない。泥酔状態だ。彼女に何か迷惑をかけてしまったかもしれない。翌日「しまった!」と思った俺は、知人に彼女の自宅の電話番号を聞いて、謝罪の電話を入れた。
ところがだ。「本当にすみませんでした」と謝ってるのに「何でしょうか? 何か用事ですか?」とあまりにつれない返事だった。時間にして約30秒。「あんまりじゃないか…」と思った俺はそのまま電話を切った。もう二度と電話をすることはないだろう。
しかし1か月後、バッグの中から彼女の電話番号のメモが出てきて、何となく電話した。どこかで気になっていたのかもしれない。そうしたら会話が弾んで、また食事をすることになった。そうして夏ぐらいから付き合い始めることになった。
以来、17年の付き合いになるが、波瀾万丈だった俺のプロレス人生同様、順調に交際が進んだわけじゃない。「結婚したいな」と考え続けていたが、俺は結婚よりプロレス優先だった。何より「いつ何が起きるか分からない」という覚悟もあった。それに彼女には歌手という職業がある。
2003年には、所属した事務所から「男を取るか歌を取るか」という二者択一を迫られたらしい。俺はその時「歌に集中したほうがいい」と言った。それからは食事をしても、お互いの家には泊まらないようケジメをつけた。3年間、そんな交際を続けた後、彼女は俺との交際と歌を両立させる道を選んで、以前の付き合いに戻った。
皮肉な話だが「結婚」という言葉が初めて出たのは、腎臓がんが発見された時だ。それも彼女の口から。俺が「がんだった」と告げると、彼女は声を上げて泣いた後「結婚してください」と言ったんだ。俺はうなずけなかった。自分の人生がどうなるか分からないのに、彼女の人生を背負うことはできないじゃないか。それでも翌日から一緒に病院を回る日々が始まった。
そうしてがんを克服して、三沢さんの一周忌が明けるのを待って2010年10月2日に入籍。翌年4月9日にようやく披露宴を行った。当時2人合わせて80歳。歌手の松山千春さんにスピーチで「長年、結婚式に出ているが、こんなに年取っているカップルは初めて」と笑われたよ(笑い)。
俺は完全に自分のペースで動く人間。一緒に過ごしていて、さあ食事しようかという時に突然「俺、練習しに行ってくるわ」と言っても驚かない。言うこと全てを受け止めてくれる(注・それは誰にもできることではない)。
彼女がいたからこそ充実したレスラー生活を送れたし、がんも克服できたと思う。新婚旅行はしていないから、初めて会った札幌に、ゆっくり温泉旅行でも行きたいと思う。
※この連載は2013年6月から7月まで全20回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全11回でお届けする予定です。また、最終回には追加取材を行った最新書きおろし記事を公開する予定ですので、どうぞお楽しみに!