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待っていたのは年俸調停をした者への〝定め〟【下柳剛連載#14】

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8度の下交渉も実らずついに年俸調停へ

 2000年12月、プロ野球界の先陣を切って行った代理人同席での日本ハム球団との契約更改交渉は、初回から希望額と提示額に大きな隔たりがあった。シーズン途中での先発転向ながら、それなりの結果を残したという自負もあったオレの希望額は2000万円増の1億5300万円。それに対して球団側は、一貫して現状維持の1億3300万円のラインを譲らなかった。

 何しろ球団どころか球界にとっても初めてのことだから、ある程度は難航することも予想していた。ただ、球団側は最初からケンカ腰っていうか「調停でも何でもすればいい」って調子だし、年末の2度目の交渉の後なんか「次はない」って言ってきたぐらいだった。

年俸調停にはヒゲを剃って臨んだ下柳剛

 実際に、契約更改交渉は年明けまでもつれ込んだ。前年までのように球団側が何度も対応してくれるようなこともなかったからね。1月に体を動かす時間が削られるのはキャンプを控えた現役選手にとって致命傷となりかねないから、さすがに3度目以降の交渉はすべて代理人の上杉昌隆弁護士にお願いした。

 8度に及んだ下交渉でも合意に達することはできなかった。球団側も歩み寄りをみせて最終的には600万円増の1億3900万円を提示してきたけど、オレの希望額とは1000万円以上の開きがある。お互いにこれ以上やっても…ってことで1月17日に年俸調停の申請をした。

 ここから先は、両者が丸裸になっての闘いだ。もちろん服を脱ぐってことじゃないよ。メディアで報じられている選手の年俸は基本的に「推定」で、個々の事情なんかで実際に契約した金額と違っていたりするケースがままある。それが年俸調停では、つまびらかにされるんだ。希望額も提示額も調停額もすべて。

下柳剛の年俸調停問題で会見する(左から)パ・リーグ小池唯夫会長、川島廣守コミッショナー、セ・リーグ豊蔵一会長(2001年2月、東京・内幸町のコミッショナー事務局)

 オレの希望額は1億5000万円で、球団側はなぜか下交渉のときより150万円低い1億3750万円を提示。キャンプイン前日の1月31日に行われた日本球界6例目となる年俸調停は、途中から代理人の上杉弁護士の同席も認められて粛々と進んだ。正確に言えば「粛々と」じゃないか。熱くなった上杉さんをオレがなだめるというシーンもあったから。

 09年に野球協約が改定されて以降は調停委員会が中立機関となったけど、当時の調停委は各球団に任命権限のあるコミッショナーや連盟会長で構成されていたこともあって、選手側に有利な裁定が下されるケースは珍しかった。ただ、オレのときは調停委から球団側に「もっと話し合うことはできなかったんですか?」と“物言い”がつくなど、決して風向きは悪くなかった。そして年俸調停から2日後の2月2日、運命の裁定が下された。

代理人交渉に関してはめでたしめでたしだったが…

 日本球界初となる代理人交渉を経て年俸調停へと突入したオレの契約問題は、2001年2月2日に下された裁定で決着となった。調停額は1億4000万円。希望額とは1000万円の開きがあったけど、球団が提示した1億3750万円を250万円上回っていたことを考えれば「勝利」と言っていい。そもそも選手側に軍配が上がったこと自体、1993年の高木豊さん(当時大洋)以来2人目だった。

 金額的に納得できる結果になったことはもちろん、初めての代理人交渉をやり遂げたことに意義は感じていた。何にしても最初ってのは大変だからね。それに、あの苦労があったからこそ、球界に代理人交渉が定着したんだという自負もある。

 これまで書いてきたように最初は球団側にも代理人アレルギーのようなものがあったけど、よくよく考えれば選手だけじゃなくて、球団側にもメリットのある制度だと思うんだよね。なんだかんだ言っても普段から顔を突き合わせている球団職員と選手は身内のようなもんで、オフだけシビアにカネの話をするっていうのは難しい面がある。それに、選手を煩わしい契約の話から解放してやった結果として、オフにしっかりトレーニングを積んでもらって、シーズンでいい成績を残してもらえば双方にとって喜ばしいことだしね。

阪神時代の契約更改は楽だったという下柳剛

 その点で言うと、阪神時代は本当に楽だった。契約のことはすべて代理人の上杉昌隆弁護士に任せて、オレは毎年のようにキャンプイン前日の1月31日に、ジャージー姿で「サインしました。今年も頑張ります」って会見で話すだけで良かったんだから。

 いつだったか自主トレ期間中の甲子園球場で、今から球団事務所に向かおうっていう上杉さんに会ってね。「これから交渉? オレも同席しましょうか?」って言ったら「シモさんが来たらややこしくなりそうだから、来なくていいです」って却下されちゃってさ。ちょっと複雑な心境にもなったけど、それだけ球団と代理人がスムーズな交渉をしてくれていたってことなんだよね。

 そんな感じで代理人交渉に関しては、めでたしめでたしとなった。あえて「関しては」って書いたのは、年俸調停をした者の“定め”が待っていたからだ。これまで年俸調停にまでもつれ込んだ選手は、1973年の阪神のマックファーデンに始まって、2010年の涌井秀章(当時西武)まで計7人。そのすべての選手が3年以内にトレードで放出されたり、FA権を行使して自ら出て行ったり、クビになったりしている。オレも例外じゃなかった。

3度目の契約交渉も判を押さなかった涌井(2011年1月、西武ドーム)

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しもやなぎ・つよし 1968年5月16日生まれ。長崎市出身。左投げ左打ち。長崎の瓊浦高から八幡大(中退、現九州国際大)、新日鉄君津を経て90年ドラフト4位でダイエー(現ソフトバンク)入団。95年オフにトレードで日本ハムに移籍。2003年から阪神でプレーし、2度のリーグ優勝に貢献。05年は史上最年長で最多勝を獲得した。12年の楽天を最後に現役引退。現在は野球評論家。

※この連載は2014年4月1日から7月4日まで全53回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全26回でお届けする予定です。


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