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甲子園を経験して田舎の弱小チームが変わった【太田幸司連載#3】

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北国チームにとって関西は地獄の暑さ

 新大阪駅は地獄の暑さだった。昭和43年(1968年)8月。ボクたちは青森・三沢から東京・上野行きの夜行列車と新幹線を乗り継ぎ、初めて関西の地に足を踏み入れた。下車した瞬間、ムオッという熱気が全身を覆う。ボクは思わず「あ、暑い!」と悲鳴を上げた。青森でも30度を超える日は珍しくない。しかし、湿度や独特の熱気など暑さの質が違った。

 宝塚市内の宿舎で旅装を解き、一息入れると近くのグラウンドで軽い練習が始まった。キャッチボールから投球練習に移る。体力には人一倍自信のあるボクが、たった10球を投げただけで「ゼー、ゼー」と息が上がってしまった。北国チームの宿命とはいえ、対戦相手よりまずはこの暑さが最大の敵となった。

センバツ・看板

いつの時代も甲子園は球児たちのあこがれの舞台だった

♪く~も~は~わ~き~ ひ・かり・あふ・れ~て~ て~んた~か~く~ じゅ・んぱ・くの・たま きょ・うぞ・と~ぶ~

 8月9日。全国高等学校野球大会の歌「栄冠は君に輝く」(作詞・加賀大介、作曲・古関裕而)が流れる中、ボクたちは開会式の入場行進に臨んだ。黒土のグラウンドにスパイクの歯が刺さる。ジャリ、ジャリではなく、サク、サクと、初めて聞く上品な音がした。

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夏の甲子園大会で入場行進する三沢高ナイン。緊張でガチガチだったという

 銀傘がある。アルプススタンドがそそり立つ。外野席にいすがある。真っ青な芝生がびっしりと生え揃う。たくさんのお客さんと報道陣がいる。そして何よりデカい。生まれて初めて目にする光景に、胸が熱くなった。夢にまで見たあこがれの甲子園は、言葉では言い表せないほど素晴らしい球場だった

 初陣は翌10日の大会第2日第4試合。熊本代表の鎮西が相手だった。ウオームアップで規定の球数を投げる。バックネットがはるか先にあるので、女房役の河村が遠くにいるように感じる。マウンドの傾斜がなだらかなので、高さを感じない。いつもと勝手が違うこともあって、甲子園初登板のボクは猛烈なプレッシャーに襲われた。唇はパサパサに乾き、足はガクガクと小刻みに震える。「こんなことで、まともなピッチングができるんだろうか」と不安いっぱいにプレーボールのサイレンを聞いた。

 だが、いざ試合が始まると自分でも驚くほど球が走った。「とにかく腕を振ろう」と思って指先をピュッと切ると、ボールは河村のミットに勢いよく吸い込まれた。1人、2人…と相手打者を料理するうちに、徐々に重圧から解放された。

 ラッキーなこともあった。第1試合の浜田(島根)VS甲府一(山梨)の一戦が延長10回の長時間試合となったため、第2試合以降の開始がずれ込んだ。第4試合は5回を迎える頃にはナイターになった。暑さが敵だったボクたちにとって、夜の浜風はクーラーの冷風にも感じられた。

勢ぞろいする出場校・50回大会

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