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田舎のチームが甲子園に行ける!初めて泣いた高2の夏【太田幸司連載#2】

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雪上ランニングと階段上りで、球がうなって走るように

 三沢高の冬の練習は実に単調だった。あたり一面が雪に覆われ、ボールを使う練習ができないからランニング中心となる。晴れている日は雪の上、ふぶいている日は体育館の中をひたすら走り、校舎の階段を上り下りすることもあった。ピッチャーのボクには簡単なキャッチボールのメニューが加えられ、野手は黙々とバットを振った。

 同じ雪国でも強豪校は違った。グラウンドの雪を部員全員で固め、ノックを受けられるように整備する。選手たちは水をはじくレインボールを必死に追い、守備練習不足のハンディを少しでも克服しようとした。ピッチャーはプレハブやビニールハウスに作ったブルペンで、凍える指にハ~ッと息を吹きかけながら投球練習に取り組む。八戸高青森高東奥義塾などの甲子園出場校は冬の練習も活気があったが、三沢高のそれはいかにも弱小チームのものだった。

 昭和43(1968)年の春を迎えた。2年生になったボクはひと冬越えて体がひと回り大きく、そして強くなっていることを実感した。雪上ランニングと単調な階段上りのおかげか、ピッチング練習では下半身がどっしりと落ち着き、自分でもびっくりするほど球が走った。腕を振り切って捕手のミットを見る。「パア~ン!」とほぼ同時に小気味いい音がした。1年生の時は、顔を上げてもまだミットに届いていない。捕球音も「パン」という程度だったが、うなりを上げて走るようになった。

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松林に囲まれた三沢高グラウンドで練習する太田氏。2年生の春には不動のエースだった

 三沢高に太田あり。この頃、ボクの存在は県下で噂されるようになっていた。

「三沢高の太田って、ひょっとしてオレがピッチャーをさせた、あの太田幸司か」

 そう絶句したのは、三沢一中時代の恩師・立崎武雄先生だ。立崎先生は後に三沢高の野球部長としてボクたちと一緒に甲子園へ行くのだが、この頃は一中から転勤して三沢地区から離れた場所の学校に勤めていた。ボクの名前を耳にした立崎先生は、うれしそうに自慢していたらしい。

 迎えた春の大会。ボクたちは地区予選を勝ち進み、県大会に進んだ。絶好調のボクはノーヒットノーランの記録を引っ提げて、優勝候補の筆頭・八戸工との決勝戦に臨んだ。結果は2―3の惜敗。本当に悔しかったけど、八戸工はこの年の青森県で最も強いと言われたチーム。そんな強豪を相手に善戦したのだから、ボクたちにとっては大きな自信になった。

「オラオラ、声を出せ。気合を入れていけよ、オラオラァ!」。青森県でNO.2になり、のんびりムードだった三沢高の練習は緊張感が漂うようになった。そんなボクたちに、あくまでも夢の世界だった甲子園を本気で意識させる朗報が届いた。

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