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元祖・甲子園アイドルが明かす栄光と苦悩【太田幸司連載#1】

はじめに

 いよいよ今週19日から阪神甲子園球場で第93回選抜高校野球大会が始まる。昨年は新型コロナウイルスの感染拡大で春のセンバツが史上初の中止、夏の甲子園も79年ぶりの中止となった。そしてポストシーズンには甲子園でもまばゆい輝きを放ったマー君こと田中将大投手が日本球界に復帰するというニュースもあった。夢の舞台でどんな名勝負が繰り広げられるのか開幕を心待ちにしている人も多いだろう。そこで東スポnoteでは元祖・甲子園アイドルと呼ばれ、コーちゃんフィーバーを巻き起こした太田幸司氏の連載を復刻させます。(この連載は2008年7月8日から9月12日まで全40回で掲載されました。)

歴史に残る決勝引き分け再試合

 2005年夏の甲子園大会決勝戦は、日本中の野球ファンの目をクギ付けにした。夏3連覇の偉業を目指す駒大苫小牧のエースは、マー君こと田中将大。それを阻止しようとする早実の背番号1は、ハンカチ王子こと斎藤佑樹。両校の白熱の攻防は、興奮と感動の連続だった。

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2006年8月21日、最後のバッター田中を三振に打ち取った斎藤。決勝戦と引き分け再試合を1人で投げ抜いたのは太田氏以来の快挙だった

 1―1。延長15回を戦い終えても決着がつかない。そして37年ぶり史上2度目となった決勝引き分け再試合は、4―3で勝利した早実が悲願の夏初優勝を成し遂げた。2日間に及ぶ息詰まる投手戦は今も記憶に新しく、高校野球史にさん然と輝く名勝負として刻まれている。2試合24イニングを1人で投げ抜いた斎藤の球数は296。この驚異的なパフォーマンスは、遠い昔の「三沢高校・太田幸司」の名前を甲子園の倉庫から引っ張り出してくれた。

 それまで過去に1度だけ行われた決勝引き分け再試合は、昭和44年8月19日のことだった。愛媛・松山商青森・三沢高の激突。名門チームのエースは精密機械・井上明、そして田舎チームの背番号1がボクだった。当時の大会規定は延長18回まで。ボクは2試合で27イニング、383球を1人で投げ抜き、そして散った。マスコミの過熱と女子中高生ファンの狂騒ぶりは、ハンカチ王子フィーバーに勝るとも劣らなかった。そんなボクのルーツは、青森・三沢の米軍基地にある――。

米軍基地リトルリーグがルーツ

 ヘイ・ヘイ・ヘイ!オーケー・オーケー、グッド・ジョブ。ナイスバッティング!…。ざらざらな硬い土ではなく、緑の芝生がびっしりと敷き詰められたグラウンドには英語が飛び交っていた。基地内には軍人の子供たちで構成されるリトルリーグのチームが8つほどある。そこに三沢市の小学生選抜のチームが参加することになった。

 メンバーには、後に甲子園に出場した時の三沢高の主力メンバーが名を連ねていた。主将の河村、核弾頭・八重沢、4番・桃井、5番・菊池、そしてボク。普段の野球部活動は軟式だが、基地内のリーグ戦では硬球を使った。いま思えば、東北の無名チームが甲子園の大舞台で旋風を巻き起こせたのは、早くから硬球を握り、本場のベースボールを体験したことが大きかったのかもしれない

 ボクたちは硬球にもすぐに慣れ、米国チームを相手に互角以上の戦いを続けた。そしてこのリーグで優勝し、東京大会出場の切符をつかんだ。しかし、この時のボクはまだ内外野兼用の補欠。東京行きのメンバーから外れ、三沢駅のホームでチームメートを見送るしかなかった。

 ボクが本格的にピッチャーをやり始めたのは中学校に進んでからだ。体格、筋力、スタミナ。他の選手とはひと味違うズバ抜けた身体能力が買われた。

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高校入学間もないころの太田氏。イケメンだった

制球力のないボクに「ど真ん中めがけて投げろ」

 昭和39(1964)年春。三沢市内の岡三沢小学校を卒業したボクは、胸を膨らませて三沢第一中学校に進んだ。「野球部に入って精一杯、頑張るぞ」。一中野球部は市内屈指の強豪で、ボクのあこがれのチームでもあった。県大会を制覇した時には、優勝旗を手にした部員たちが市内を誇らしげにパレードする。その光景を見て「いつかボクも…」と思っていた。

 ポジションは外野を守ったりセカンドを守ったり、小学生の時と同じように内外野兼用だった。小学生の高学年の時には米軍基地内のリトルリーグに参加して硬球を握っていたが、再び軟球に戻っても違和感はなかった。でもプレーそのものは目立たず、ボクより上手な選手はたくさんいた。

 ボクが自慢できたのは身体能力だった。足は速く、肩もめっぽう強い。センターの定位置から本塁へ、ノーバウンド送球することができた。「ほう。おまえ、すごいボールを放るな」と先輩たちの目を丸くさせる一方で、コントロールは最悪だった。遠投力はあっても方向がバラバラ。ボク自身も「行き先はボールに聞いてくれ」といった感じだった。

 そんなある日、野球部の顧問をしていた立崎武雄先生から声がかかった。「おまえ、ピッチャーをやってみろ」。耳を疑った。今までマウンドから振りかぶってボールを投げた経験なんて、お遊び以外にはない。そんなことを口をモゴモゴさせて言っていると「知らん。とにかくやってみろ」と畳み掛けられた。

 とてもピッチャーとは呼べないほど、制球力は相変わらずお粗末だった。それでも立崎先生はウンウンとうなずきながら、ボクの投球練習を食い入るように見守っている。

「いいか、コウジ。コントロールなんか気にするな。とにかく思い切り、ど真ん中めがけて投げろ」

 アドバイスはいつもこれだけだった。地肩が強かったので、この頃から100球、200球…。来る日も来る日も直球ばかりを投げ込む日々が続いた。

 そうこうするうちに、自分でも投手としてぐんぐん成長していくのが分かった。1年たち、2年たち…。中学3年生になると、ボクの速球を打ち返す打者はほとんどいなかった。たまに大人の軟式野球チームと練習試合をする。そこでも簡単には打たれず、十分通用した。「三沢一中に、ものすごく速い球を投げるやつがいるぞ」。勝ち運に恵まれず、3年間で市内パレードをすることはできなかったが、県下にそう噂されるピッチャーになっていた。

 さあ、いよいよ高校進学だ。「本格的に野球をやるぞ。もっといいピッチャーになるぞ」。そう思ってはいたものの、一方で気持ちは大きく揺れ動いていた。地元の三沢高より、ほかに行きたい学校があったからだ。

進学先に揺れていたボクを決意させた仲間たちの声

 三沢高の野球部のグラウンドは、三沢一中のグラウンドから道路を隔ててすぐ隣にあった。キンッ、キンッ。軟式ボールを打つ音とは違って、硬球の金属音は聞いているだけで胸が躍る。中学時代の3年間で三沢高野球部の練習ぶりは目に焼きついていたから、どんなチームかはボクなりに理解していた。

 練習量は決して多いとは言えなかった。青森県内でも強豪として知られていた三沢一中は練習時間も長く、ミスをすれば当時の名物、ケツバットが飛ぶなどとても厳しかった。汗と泥にまみれてボールに食らいついている時間に、ふと気がつくと三沢高のグラウンドは空っぽ。「あんな練習で強いチームになれるんだろうか。甲子園に行けるんだろうか」。ボクはずっとそう思っていた。

 だから進路を決める時期を迎えた時、地元の三沢高はほとんど眼中になかった。それより、ボクにはどうしても進学したい学校があった。八戸高だ。ここは県内有数の進学校で、野球部も旧制中学時代を含めて甲子園に春1度、夏4度も出場。文武両道を地で行く伝統校だった。

「おまえなら受かる。三沢高と違って甲子園が夢という学校じゃないし、将来のためにも絶対に八高へ行け」。進路担当の先生がそう言えば、別の先生からは「地元の三沢高へ行けよ。野球部は今は弱いけど、今年はいい選手がたくさん入ってくるから、いずれ別のチームのように強くなるぞ」と勧められた。どちらのアドバイスも真剣そのものだったので大いに迷った。

 この頃のボクは、将来はプロ野球の世界で飯を食う…なんて考えたこともなかった。もちろん野球は大好きだったが、そんな夢は、世の中の事情が何も分からない小学校低学年の時にしか持てなかった。野球を続けたいというより、大学に進学したい。だから八戸高に行きたかった。

 一方で、ボクの家庭は決して恵まれていたわけではなかった。この頃、米軍基地で働くおやじは体を壊して仕事を休みがちになり、家計を支えるためにおふくろが食品店でパートのような仕事をしていた。太田家は経済的に楽とは言えなかった。三沢高には自転車で通学できるが、八戸高は国鉄で30~40分かかる。通学定期代もバカにはならないと思っていた。

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通学用の自転車にまたがる高校時代の太田氏。母タマラさん思いの青年だった

 悩みに悩んだ。迷いに迷った。考えれば考えるほど、決断が下せない。踏ん切りをつけさせてくれたのは小さい頃から一緒に野球をやり、先に三沢高への進学を決めていた仲間たちの声だった。

「なあ、コウジ。オレたち、高校でも一緒に野球をやろうぜ」

 甲子園に大旋風を巻き起こすまであと2年余り。本場の野球少年を相手に米軍基地内のリトルリーグで腕を磨いた選抜チームの主力メンバーが、ついに三沢高の門をくぐった。

高校初登板できいきなり完封

 春1度、夏4度の甲子園出場を誇る強豪校で、青森県内屈指の進学校でもある八戸高への進学をあきらめたボクは、三沢一中の野球部メンバーとともに三沢高野球部に入部した。「うわ、あいつがいる。あっ、あの選手もいるぞ」。昭和42(1967)年4月。ほかの中学校の評判の選手も加わっていた。

 体調不良でベンチのムードメーカー役に徹した主将・河村。1番ショート・八重沢。2番キャッチャー・小比類巻。4番サード・桃井。5番ファースト・菊池。6番センター・高田。7番ライト・谷川。9番レフト・立花。そして3番ピッチャー・ボク――。2年4か月後に甲子園で歴史的名勝負を繰り広げるメンバーが、胸文字がモスグリーンに彩られた「MISAWA」のユニホームにそでを通した。

 ボクたち1年生は夏の県大会後に3年生が退部するまで、試合ではほとんど出番がない。いくら弱小チームとはいっても、この時点では先輩たちとの力の差は歴然だ。しばらくはタマ拾いとボール磨き。大会が近づくと、打撃投手として先輩たち相手に投げた。体力には自信があったし、投げさせてもらえるだけでもうれしかったから喜んで投げた。

 そして夏の県予選。三沢高は1回戦であっけなく敗れ、すぐに翌年を目指す新チームが結成された。2年生は4人、ボクたち1年生が9人。この時点では、このメンバーで甲子園に行けるとは誰も思っていない。もし甲子園を口にすれば、周りから大笑いされるのがオチだった

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まだ弱小だったころの三沢高野球部。右から2人目が太田氏

 1か月ほどして、秋季大会に向けた新チーム初の練習試合が組まれた。その前日、田辺正夫監督に呼ばれてこう言われた。「あした投げろ。エッじゃない。おまえが、投げろ」。新チーム最初の試合は、プロ野球でいえば開幕戦にあたる。エースには2年生の先輩が君臨していて、ボクは背番号11の控え投手だった。

 にもかかわらず、意味のある大事な試合の先発を任された。田辺監督は先生監督ではなく、三沢市役所に勤めながら三沢高野球部を指導していた。仕事が忙しい時には、ボクたち選手が練習メニューを作成することもあった。堅い公務員なのに、ここぞという時にはバクチ的な決断を下す監督でもあった。

 ボクは無我夢中で投げた。相手のスコアボードにゼロを9つ並べた。完封だ。初先発でこれ以上ない結果を残した。勢いに乗って臨んだ秋の公式戦は、上出来ともいえる地区大会ベスト4。県大会、その先のセンバツ切符がかかる東北大会には駒を進められなかったが、自分の投球に自信をつかんだ秋だった。

「いける。十分やれるぞ」。先輩投手を押しのけ、ボクは三沢高の主戦投手の座をつかんでいた。

 おおた・こうじ 1952年1月23日生まれ。青森県三沢市出身。三沢高のエースとして69年夏の甲子園大会決勝で愛媛・松山商と延長18回0―0の死闘を演じた。史上初となった決勝引き分け再試合には敗れたものの、1人で投げ抜いた姿と端正な顔立ちから空前の“コーちゃんブーム”を巻き起こす。同年のドラフトで近鉄に1位入団し、爆発的な人気で1年目から球宴出場。その後、巨人、阪神に移籍し、84年に引退。通算成績は58勝85敗4セーブ。2018年夏の第100回全国高等学校野球選手権記念大会でも、100年の歴史を彩った元高校球児を代表して、三沢高3年時の選手権大会決勝で相対した松山商OBの井上明と共にレジェンド始球式を務めた。

次の話へ

※この連載は2008年7月8日から9月12日まで全40回で紙面に掲載されました。noteでは10回に分けてお届けする予定です。

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