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岩本勉は几帳面で、リモコンにラップを巻く【下柳剛連載#8】

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二日酔いで頭がガンガンする中、トレードを告げられた

 約1か月に及んだ入院生活の後に待っていたのは厳しい現実だ。シーズン中に自らの不注意で仕事をできなかったことに対するペナルティーとして球団に科されたのは罰金800万円。いや、900万円だったかな。どっちにしろ、痛すぎる出費だったのは確かだ。

 しばらく二軍で調整してから一軍復帰は果たしたけど、そのころからトレードに関する噂をよく耳にするようになっていた。ただ、その時点ではあくまで噂。なんとか罰金分を取り返したいっていう気持ちもあったし、まだまだチームにとっては不可欠な戦力だという自負もあった。

 オフになると、オレは自分のことどころではなかった。秋季キャンプ中に同い年、同じ投手で仲の良かった田畑一也と佐藤真一さんが、柳田聖人と河野亮との交換トレードでヤクルトに移籍することが決まり、選手会副会長として送別ゴルフのセッティングやら景品集めで奔走しなければならなかったからだ。

 それこそ田畑の送別ゴルフも無事に終わり、福岡最大の歓楽街・中洲で送別会をしていたときのことだった。次の店へと移動する際に、二軍監督就任が決まっていた古賀英彦さんにたまたま遭遇したので、送別会でも話題になったオレのトレードについて「ホンマっすか?」とストレートに尋ねてみた。

 ハイディ(古賀さんの愛称)から返ってきた答えは「ないない。オマエは必要な戦力や」。王貞治監督の就任に伴ってフロント業務に専念していた球団専務の根本陸夫さんの信頼も厚く、トレードなどの編成面についても知りうる立場にある人の言葉には説得力があった。ホッとして、田畑ととことん飲んだ。

 そして翌日。二日酔いで頭がガンガンする中、球団から呼び出しの連絡が入った。「何や、こんな日に」。ぶつくさ言いながら身支度を整えて球団事務所へ行くと、思いもよらないことを通告された。「日本ハムとのトレードが決まったから」って。

左から持田球団社長、下柳、安田秀之、上田利治監督(1995年11月)

 前夜は確かに、ハイディが「オマエのトレードはない」と言っていた。それから数時間で話が変わったのか。それともハイディや根本のオヤジすら知らないところで成立した話なのか…。経緯は分からないけど、決まった以上は従うしかない。オレは野手の安田秀之さんとともに、武田一浩さん、松田慎司さんの2投手との交換トレードで日本ハムへ移籍することになった。

 思い出しついでに、笑える話を一つ。トレードの直接的な原因と言ってもいい愛車の三菱GTOと、意外な場所で再会したんだ。福岡ドームからバスで博多駅か福岡空港に移動したときだと思う。都市高速を走るバスの車窓から外をながめていたら、シルバーのGTOがスクラップ工場の一番上に積み上げられていたんだ。プロに入ってから初めて買った愛着のある車だし、見間違えるなんてありえない。「あれ、オレの愛車や!」って叫んで、みんなで爆笑したっけなあ。

噂は現実となり、交換トレードで日本ハムに移籍することに

当時のイースタン・リーグは移動がしんどかった

 一度は「分かりました」と了承した。それでも納得できなかったのが、1995年オフに通告された日本ハムへのトレードだ。「この恨み、晴らさずにおくべきか」というやりきれない思いが沸点に達したのは、日本ハムが秋季キャンプを行う千葉・鴨川へ向かう飛行機の中だった。オレは2週間前に上顎骨に埋め込んだプレートを外す手術を受けたばかりで、気圧の変化から患部に激痛が走ったんだ。

 シーズン中には飛行機移動の際に、プレートが金属探知機に引っかかって「犯人はこの人」とナインにおちょくられたこともあった。その程度なら笑って済ませられるけど、あの飛行機の中で襲われた痛みは、オレの復讐心をあおって余りあるものだった。まあ、済んだ話をいつまで言っていても仕方ないから先に進もう。

 新天地の日本ハムでは何かと驚かされた。その一つが背番号だ。オレに与えられたのは「11」。のちにチームのエースとなり、いまやメジャーで活躍するダルビッシュ有も背負った番号なんだから、その期待の大きさも分かるでしょ?

背番号11を背負うダルビッシュ有(2005年1月、鎌ヶ谷市役所)

 キャンプ中に開催された投手陣の食事会でもびっくりさせられた。何がって、誰一人としてコーチ陣の悪口を言わないんだから。その場にコーチがいるわけではないし、誰かがチクるというわけでもない。遊ぶときぐらい仕事の話は抜きにしようってスタンスなんだ。その辺は当時から宴会部長だったガンちゃん(岩本勉)の功績だろうな。

 余談になるけど、ああ見えてガンちゃんは几帳面でね。マンションではテレビのリモコンを置く位置も決まっていて、当然のようにリモコンの表面にはラップが巻いてある。球場のロッカーもそう。タオルからアンダーシャツまでピシッと角がそろえてある。先発のガンちゃんが上がりの日にロッカーをぐちゃぐちゃにして、翌日に「犯人はシモさんでしょ」ってよく怒られたもんだ。

「ガンちゃん」こと岩本の明るさは、当時の日本ハムのチームカラーを象徴していた

 それはそうと、キャンプでの出遅れから移籍1年目の開幕を二軍で迎えたオレは、ダイエー時代いかに恵まれていたかを痛感させられた。当時のイースタン・リーグは移動がしんどかったんだ。利用するホテルの違いはあっても、ウエスタンなら広島戦も阪神戦も中日戦も一軍と同様の遠征になる。しかしイースタンは巨人戦もヤクルト戦も西武戦も、すべて自宅からマイカー通勤。行き先が横須賀だろうと所沢や戸田だろうと渋滞を計算に入れる必要があって、ビジターでもホーム並みかそれ以上に早起きしなきゃいけない。

 リベンジに燃えていたはずが、96年は23試合で43イニングを投げるにとどまり、1勝2敗2セーブで終わった。ただ、翌97年からの3年連続60試合登板が「二度と二軍暮らしは嫌だ」という気持ちがモチベーションの一つになっていたことは間違いないね。

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しもやなぎ・つよし 1968年5月16日生まれ。長崎市出身。左投げ左打ち。長崎の瓊浦高から八幡大(中退、現九州国際大)、新日鉄君津を経て90年ドラフト4位でダイエー(現ソフトバンク)入団。95年オフにトレードで日本ハムに移籍。2003年から阪神でプレーし、2度のリーグ優勝に貢献。05年は史上最年長で最多勝を獲得した。12年の楽天を最後に現役引退。現在は野球評論家。

※この連載は2014年4月1日から7月4日まで全53回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全26回でお届けする予定です。

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