「これがお迎えってやつか」。冗談抜きにそう思った【下柳剛連載#7】
三菱GTOを駆って家路に就いた途中、痛恨のハンドル操作ミス
1993年、根本陸夫監督のもとで主にリリーフとして一軍に定着したオレは、50試合に登板して4勝8敗5セーブ、防御率4・13という成績を残した。翌94年はリーグトップの62試合で11勝5敗4セーブ、防御率4・05。イニング数は93年が98回で、94年が105回2/3。なんとかプロ野球の世界で生きていける手応えのようなものを感じていた。
そんな矢先だ。夏ごろから噂になっていた監督人事が現実のものとなった。王貞治さんの監督就任だ。当時は巨人の監督を長嶋茂雄さんが務めていたことから、気の早いファンは「来年は日本シリーズでON対決や」と騒ぎ立てていたし、選手たちも「王さんって、どんな人なんやろ」と高い関心を持っていた。何といっても「世界の王」だからね。
95年のキャンプ地は日本とは季節が真逆の南半球、オーストラリアはゴールドコースト。とにかく暑かったことを記憶している。大げさじゃなしに、靴底を通して足の裏がやけどするんじゃないかってぐらいだった。そのうえビーチもカジノも禁止。いろんな意味で、しんどいキャンプだった。
それでも調整は順調。特に不安もないままオープン戦に突入すると、落とし穴が待っていた。ぎっくり腰だ。オリックスとのオープン戦の前に、グリーンスタジアム神戸(現ほっともっと)の外野でダッシュをしていたらグキッと。そのまま球場で着替えて、試合が終わるまでバスで待たされるという寂しい思いまでさせられたっけ。しかもオレだけ福岡帰りで…。
何とかオープン戦終盤の広島戦で投げて、開幕一軍メンバーには滑り込んだけど、調子は万全じゃない。もともとオレは投げ込んでつくっていくタイプで、調子が上がってきたのは4月も半ばになってから。「この感じなら大丈夫やな」と手応えをつかんだのは、4月19日に本拠地・福岡ドーム(現ヤフオク)で行われた西武戦で、8回から先発・斉藤貢の後を受けて2番手で登板し、打者2人をピシャリと抑えたときだった。
チームは前日の同カードに勝った時点で10勝一番乗り。王さんにとっては巨人監督時代の88年7月28日以来となる2455日ぶりの単独首位に立っていた。オレが手応えをつかんだ19日の西武戦で、チームは5連勝を飾って単独首位をキープ。すべての歯車がうまく回り始めていた。
その晩のことだ。ナイター終わりに福岡市内で遅い食事を済ませたオレは、愛車の三菱GTOを駆って家路に就いた。通り慣れた道。安全運転も心がけていたつもりだったけど、細い県道のカーブで痛恨のハンドル操作ミスをした。ガードレールにぶつかって焦ったのか、今度は民家の塀に激突。ハンドルに顔面を強打したオレは、車内で意識を失っていた。
自分を戒めるため麻酔無しで手術
まさかの事態だった。開幕から7試合目の登板となった1995年4月19日の西武戦で「今季もやっていけそうだ」と手応えをつかんだ矢先の20日未明に福岡市内の県道で起こした自動車事故。愛車の三菱GTOを民家の塀に激突させ、車内で意識を失ったオレは、コンコンと運転席側の窓ガラスを小突かれて、ようやく我に返った。
もうろうとした意識のまま窓の外を見ると、そこには見知らぬ老人が。「これがお迎えってやつか」。冗談抜きにそう思った。でも、痛みは感じている。ハンドルに強打したと思われる顔面、特に鼻と口からは鮮血がとめどなく流れていた。それでも投手としての本能なのか、オレは狭い車内で左肩を回した。「これなら何とか投げられそうだな」。商売道具に致命傷を負っていないことだけ確認して、近隣住民が呼んでくれた救急車に乗り込んだ。
搬送された救急病院の当直医には「大丈夫」と言われたけど、大丈夫なワケがない。案の定、翌日になって知人に紹介してもらった形成外科医に診察してもらうと、結果は「上顎骨骨折」。理由が理由だけに一日でも早く復帰したかったけど、医者から「手術ばせんやったら、メシも食えんばい」って言われてあきらめた。
起こしてしまったのは自損事故。誰のせいでもない。こんなことはあってはならないし、二度と起こしてはいけない。そう心に誓ったオレは自分への戒めとして、手術のときも上顎骨付近にたまった血や膿を吸い出すときも、麻酔や座薬などの痛み止めの類いのものを一切拒否した。もちろん痛さはハンパない。1982年公開の映画「ランボー」で、主演のシルベスター・スタローンが実際に傷ついた腕を麻酔なしに自分で縫合するシーンがあるでしょ? まさにあれ。痛くても口をふさがれているから声も出ない。先生が縫合するのを片目で見ながら、オレは声にならない声で「あわわ、うわわ」とうなるばかり。カッコ悪いけど仕方ない。自分で決めたルールなんだから。
上顎骨をプレートで固定すると、約1か月の流動食生活が待っていた。先生から「痛みに耐えられるなら、少しくらい体を動かしても大丈夫」と言われていたので、痛みを我慢しながら最低限のトレーニングも続けた。でも、体重は減る一方。1か月で12キロもヤセた。
そんなつらい期間を乗り越えることができたのには理由があった。一日も早く一軍に復帰したいという思いだけでなく、そばでサポートしてくれる人がいたからだ。あれは手術が終わった直後だったかな。病室のテーブルに手紙があって、読んでみると「何でも遠慮なく言ってね」って感じのメッセージとともに、小学校時代の同級生の名前が書いてあったんだ。まさに地獄に仏。ビタミン剤など必要そうな錠剤をすり潰して摂取しやすいようにしてくれたり、何かと献身的に看護してくれてね。彼女のような人を「白衣の天使」って言うんだろうな。
※この連載は2014年4月1日から7月4日まで全53回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全26回でお届けする予定です。