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プロたるものポーカーフェイスにしているべきだと思っていた【下柳剛連載#6】

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〝オヤジ〟に教えられたプロの心構え

 1993年のシーズンからダイエーの代表取締役専務兼監督となった根本陸夫さんには、ほんとお世話になった。すでに66歳という高齢だったこともあって、当時から親しみをこめて「オヤジ」と呼ばせてもらっていた。

 オヤジは世間的に「怖い人」というイメージで見られがちだけど、実際に接しているとおちゃめな面も多々あった。93年の開幕直後には投手交代でマウンドに駆け寄った際に右太ももを痛めて、アイシングしながら試合後の会見に臨んだことがあってね。いつだったかは忘れたけど、珍しく審判のジャッジに抗議しようとベンチを飛び出したときに、1歩目で左ふくらはぎがピキッといって、いかんと思って踏みとどまろうとしたら、今度は右ふくらはぎがピキッ。両ふくらはぎをアイシングしながら采配を振るなんてこともあった。

根本監督(左)からは多くのことを学んだ

 あれは藤井寺球場の近鉄戦だったかな。当時はパ・リーグの予告先発も日曜日限定で、誰もその日の先発を告げられていなかったんだ。投手コーチの権藤博さんは「オマエじゃないのか?」って言ってたけど、オレは前の日にも投げている。まさかと思っていたことが現実だと分かったのは、試合前にウグイス嬢が先発投手の名前をアナウンスしたときだった。若い投手に余計な緊張をさせないための配慮だったのか。はたまたガチで伝え忘れていただけなのか。後者の可能性も十分に考えられるけど、真相は分からない。

 オヤジにはプロの投手として大事なことも教わった。その一つが気の持ち方だ。プロたるもの動揺や緊張が顔に表れては相手に付け込まれてしまうし、なるべくポーカーフェースにしているべきだと思っていた。でも、オヤジの言い分は違う。「緊張しているのを隠そうとしてどうするんだ。オマエの仕事はアウトを取ること。緊張してようがアウトを取ればいいんだ」って。

 ストライクゾーンの解釈についても大事なことを教わった。誰だったか外国人選手に痛打を浴びたときだ。ベンチに戻ると、オヤジがすごいけんまくで「なんであの場面でストライクを投げるんだ」って怒ってるんだよ。確かに打たれはしたけど、オレが投げたのはボール球。臭いところをついて引っ掛けてくれれば…っていう明確な意思を持って投じた一球だった。だからオレも「ボール球でした」ってプチ反抗してね。いま考えれば「打者の打てるところはストライクゾーン」っていうオヤジの言い分が正解なんだよね。実際に西武やオリックスで活躍したアレックス・カブレラなんて、ボール1個分までホームランコースだったし。

ボール1個分までホームランコースだったカブレラ(2006年8月、西武ドーム)

 序盤の大量リードを守りきれず、バタバタの継投で最後に投げたオレがサヨナラの走者に送球を当てて負けたオリックス戦も忘れられない。試合後に集合がかかって、絶対に怒られると覚悟して最前列で構えていたら、オヤジはひと言「今日の負けはオレの采配ミスや。ありがとう。以上!」って。カッコ良すぎでしょ。

引退まで忠実に守った権藤さんの教え

 我ながらオレの野球人生は波瀾万丈だと思う。最初から読んでくれている方はお気づきだろうけど、これまでにも何度か「終わったと思った」というフレーズを使っている。瓊浦けいほ高入学後に過度なダイエットで死にそうになったとき。高校も野球もやめようと思ったとき…。

 八幡大を中退したときもそうだし「プロには行きません」と伝えた西武の根本陸夫管理部長が、何の因果かダイエーの監督になったときもそう。でもオレは、何度となくあった崖っ縁で踏みとどまることができた。その時々に手を差し伸べてくれた人がいたからだ。ダイエーで投手コーチをされていた権藤博さんもその一人。特に投球フォームや技術を教わったわけではないんだけど、権藤さんの教えは引退するまで忠実に守った。

権藤投手コーチは根本さんとともに大切な恩人だ。左は田淵監督

 その一つが、降板後の行動だ。誰だって打たれれば面白くない。先発でKOでもされればなおさらだ。やり場のない怒りや反省で頭の中が真っ白になったりもする。そんなときでも権藤さんは「ベンチの最前列で応援しろ」と言った。自分の投げた試合には最後まで責任を持て――というのが権藤さんの考えで、確かにその通りなんだ。

 いくら投手が頑張って投げても、バックの野手が守ったり援護してくれなければ白星やセーブもつかない。自分が打たれたからって、ふてくされてロッカールームに引きこもっていたりしたら、野手だって「なんやアイツは」ってなる。でも、最後までベンチの最前列で大声を出して応援してれば「次はシモに白星をつけてやりたい」って気持ちにもなってもらえるでしょ。

 ノーコンだったオレには「とにかくホームベースの枠を外すな。縦で四球なら使ってやるから」って言葉もありがたかった。ベースの左右で外すのはダメだけど、高低で外すのはいい。プロの打者は高低に外れても振るケースはあるけど、左右に外れたボールは振らない傾向がある。そう言ってもらったおかげで、ずいぶんと気持ちも楽になった。あとは「困ったときは、ど真ん中にチェンジアップを投げろ」ってのもあった。困っていないときに投げて怒られたこともあったなあ。

 権藤さんから教わったのは精神論がほとんどだった。リリーフで二死から点を取られたときには「相手が弱っているときに、もてあそぶようなことをするな」って、こっぴどく怒られた。「窮鼠きゅうそ猫をかむ」ってことが野球でもあるわけで、最後まで気を抜かず、きっちりトドメを刺すことの重要性も権藤さんから教わったことだ。

 面白いところでは「いつでも帽子をかぶっておけ」ってのもあったな。「帽子があればツバを叩くだけで済むけど、なければ頭を叩かないかん」って。とにかくブレない人で、オレにとっては根本のオヤジとともに大切な恩人だ。

帽子のツバを触る下柳剛

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しもやなぎ・つよし 1968年5月16日生まれ。長崎市出身。左投げ左打ち。長崎の瓊浦高から八幡大(中退、現九州国際大)、新日鉄君津を経て90年ドラフト4位でダイエー(現ソフトバンク)入団。95年オフにトレードで日本ハムに移籍。2003年から阪神でプレーし、2度のリーグ優勝に貢献。05年は史上最年長で最多勝を獲得した。12年の楽天を最後に現役引退。現在は野球評論家。

※この連載は2014年4月1日から7月4日まで全53回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全26回でお届けする予定です。

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