超重量1300グラムのマスコットバットを使って良かったこと、悪かったこと【岩村明憲連載#5】
ビジョンをしっかり持っていた稲葉さん
今回はヤクルト時代の同僚だった稲葉篤紀さんの話をしようと思います。稲葉さんとは当時のレギュラーでは一番年が近かったこともあり、親しくさせてもらいました。
特に日本一に輝いた2001年のシーズンは左打者として、稲葉さん、ペタジーニ、僕が3、4、6番を務めたこともあり、同じ左打者として、よく相談させてもらったのを覚えています。
ヒットを放つ稲葉(01年10月、甲子園)
例えば、中日の山本昌さん対策。2人とも苦手としていたので「どうやって打とうか」と知恵を絞りました。
2人で散々考えた末に僕は「分かりました。山本昌さんみたいな投手はまともにいっちゃダメです!」と言いました。
当時の昌さんはスライダーはキレキレだし、インサイドにはシュート、スクリュー、ツーシームと多種多様な球種がありました。左打者泣かせとあって、まともに勝負しようとしたら、まあ相手にしてもらえませんでした。
そこで僕は「ペッパーですよ! 本塁打を狙おうとか考えるからおかしくなる。遊びの延長で考えましょう」と提案しました。
トスバッティングの要領で、ボールを上から叩きつけるような感覚で、野手がいないところを狙う――。真剣にぶんぶんバットを振り回してもしょうがないし、それこそ相手の術中にハマってしまう。それぐらいの気持ちで対戦したほうが気持ちも楽になるのではないかと考えました。
このように稲葉さんとは、試合中もベンチ裏でああでもない、こうでもないと打撃論議をよくしました。というのも、当時チームの左打者は、ペタジーニ、稲葉さん、僕だったわけですが、ペタジーニへの配球と僕への配球はまったく違っていました。
明らかな長距離砲でパワーヒッターである彼と、中距離砲の僕へのアプローチが違うのは当然のことで、逆に稲葉さんへの配球が僕にはすごく参考になりました。
だから稲葉さんの打席が終わると「どうでした?」と対戦投手の印象をよく聞いてましたね。稲葉さんも真剣に答えてくれました。年次は先輩だけど、面倒見も良く本当に助けられましたね。
稲葉さんとは僕がメジャーから帰って、11年に楽天に移籍してから再び接する機会がありました。当時は日本ハムの主力選手ですが、若手選手に対して、自分の考え、技術を惜しみなく教えている姿を見て“変わらないな”と感じたものです。
楽天の岩村(右)と日本ハムの稲葉(11年5月)
現在は侍ジャパンの監督を務めるなど、指導者としても活躍されていますが、当時から「僕はこう思う」と指導者としてのビジョンをしっかり固めていたことも印象に残っています。
メジャー行きを後押ししたある出来事
ヤクルトの主力打者として少しずつ頭角を現し始めたころ、僕はメジャーへの憧れを抱くようになりました。きっかけは2002年に行われた日米野球です。
当時の僕はプロ6年目。そこまで特に強いメジャー願望はなかったのですが、その年の日米野球に出場して、変わりました。
米国選抜はバリー・ボンズ、ロベルト・アロマー、ジェイソン・ジアンビ、バーニー・ウィリアムズ、トリー・ハンターなど、そうそうたるメンバーが揃っていました。
日米野球で本塁打を放つバリー・ボンズ(02年11月、大阪ドーム)
ここから先は
¥ 100