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今でも体が覚えている…三沢さんに場外パワーボムを狙ったあの日の歓声を【小橋建太連載#4】

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三沢光晴vs川田利明 まさかのカラオケ大乱闘

 今年も三沢さんの命日(6月13日)がやってきた。ちょっと話を休めて、三沢さんについて語ろうと思う。

 もう4年もたってしまったのか。まだ信じられない。気が付けば俺は三沢さんの年(享年46)に並んだんだ…。今でも「スパルタンX」がかかったら三沢さんが花道の奥から入場してくるんじゃないか、突然にどこかから顔を出してニコッと笑ってくれるんじゃないか――そんな錯覚にとらわれることもある。

夏季強化合宿を行った超世代軍。左から菊地、三沢、川田、小橋、田上明(90年8月、千葉・上総一宮海岸)

 兄貴分のような人だった。年も4歳しか離れていない。入門した時、マスク越しにほほ笑んでくれたあの笑顔は今でも忘れない。だから合宿所に入った後、俺は自然と三沢さんを慕うようになったし、かわいがってもくれた。当時はまだよちよち歩きだった娘さんを道場に連れてきてね。三沢さんが練習する間は、俺が一緒に遊ぶ役。ハタチで子守りは得意になっていた(笑い)。

 三沢さんがタイガードライバーを考案したのもこの時期だ。取材に来たカメラマンに「何か新しい技を」と頼まれたんだが、だいたいそういう時の相手役は俺だ。三沢さんがあれこれ思索してたんで「こんなカンジでダブルアームの体勢から落とすのはどうですか」と提案した。俺はこの技の「共同考案者」ということになるのかな(笑い)。

 三沢さんは当時もう合宿所を出ていたけど、後楽園に行く時は、よくタクシーに一緒に乗せてくれた。まだタイガーマスクの時代だ。それまではたわいもない話をしていても、水道橋の交差点にさしかかると、三沢さんはファンの目を気にして車内でマスクをかぶるんだ。毎回、運転手がギョッと驚いてね。「ご、強盗ですか?」なんておびえて急停止する人もいた。乗った時点でレスラーと気付くだろうと思ったけど(笑い)。

 練習もよくやったけど酒もよく飲んだ。三沢さんはじっくり朝まで飲むタイプ。俺は盛り上がると「一気しましょう!」となるタイプ。飲み方は違うけど、まあよく飲んだ。三沢さんがマスクを脱いで超世代軍を結成すると、地方の試合後はメンバーでよく飲みに出かけた。今ではもう信じられないけど、三沢さん、俺、川田(利明)さん、菊地(毅)さんというメンバーだ。

いつも目の前には三沢さんの背中があった。タイガーマスクと一緒に汗を流す

 もう時効だと思うから話しても大丈夫かな。20年以上前のことだ。このメンバーでカラオケ屋に行った時、酔っ払った三沢さんと川田さんが、大ゲンカになったことがある。

 理由はささいなことだ。歌を歌えとか歌わないとか…。両方が立ち上がったから俺と菊地さんは真っ青になったよ。

 俺は羽交い締めの体勢に入って「三沢さん、落ち着いてください!」と絶叫した。すると菊地さんの制止をふりほどいた川田さんが、ポカーンと三沢さんの顔面に一発入れちゃったんだ。羽交い締めにされた三沢さんは当然、ノーガードだ。酔っていたとはいえ、本当に悪いことをした…。

 結局、三沢さんは目の上に大きなクマを作って翌日の試合(※三沢は2試合、川田は1試合欠場)に出る。「どうしたの?」と聞かれるたび、不機嫌そうな顔をしていた三沢さんの表情が忘れられない。

 そして超世代軍が解散しベルトをかけて争うようになるころから、一緒に飲みに行くことはなくなっていった。命をかけて戦う相手と酒は飲めないからだ。


三沢さんは戦っていて最高の相手だった

 1996年7月、俺は夢だった3冠ヘビー級チャンピオンとなり、超世代軍は解散する。スタン・ハンセンとの初防衛戦を経て翌年1月20日、三沢さんを迎えて大阪で3度目の防衛戦を行うことになった。

 この時期、俺はひとつの壁にブチ当たっていた。「チャンピオンは小橋、エースは三沢」という声が圧倒的だったからだ。エースって何なんだ。チャンピオンって何なんだ。毎日、試合をしては自問自答を繰り返していた。そんな矢先に決まった三沢さんとの3冠戦。負けるわけにはいかない。俺はひとつの覚悟を決めていた。

 もう有名になった話だけど、俺はこの試合の前夜、おふくろに「俺が死んでも三沢さんを恨まないでくれ」と電話したんだ。そんなことは後にも先にもこれっきり。それぐらいの気持ちだった。

もはや伝説となったエプロン際の攻防。三沢との試合は命がけだった

 この試合で俺は命がけの勝負に出た。エプロンから場外へパワーボムを狙ったんだ。当時の全日本プロレスのマットは、エプロンの幅が狭いため、両脚を開いて立つことができなかった。つまり俺は足が揃った状態で110キロ(当時)の三沢さんを投げ捨てようとしたわけだ。ところが、一瞬の機転を利かせた三沢さんに、ウラカンラナで切り返されてしまった。そして43分の激闘の末に敗北。俺はエースでもなければチャンピオンでもなくなってしまった…。


 でも体が覚えてる。あの試合、何度も大阪府立体育会館の超満員の歓声が、ウワーッという波になってリング上の俺に押し寄せてきたんだ。まるで熱風が吹き付けるみたいに。ファンの心を動かすことができた。その手応えが確かに残る試合だったんだ。悩んでいた俺は、ひとつの解答を見いだしたような気持ちになった。結果的には同年の10月の再戦が年間ベストバウトに選ばれることになった。

 三沢さんとの試合はいつもお互いに「さらに上へ行こう」というしのぎ合いだった。三沢さんにこう攻められれば、俺はこう返す。すると三沢さんは「そう来るなら」とさらにすごい一撃を返してくる。その繰り返しだった。お互いに頂点を目指せる相手だった。

三沢(奥)に切り札バーニングハンマーを繰り出す小橋(03年3月、日本武道館) 

 ノアを旗揚げした後の2003年3月1日のGHCヘビー級戦が最後になるんだけど、やっぱり戦っていて最高の相手だった。ベストバウトも3度獲得した。リングの内外で偉大な先輩だった。感謝はいくら言葉があっても足りないほどだ。縁あって「三沢光晴メモリアルナイト」(13日、後楽園)ではテレビ解説をするんだけど、命日に三沢さんの遺影と向き合えるのも、幸運だったと思いたい。

 三沢さん。俺、引退しました。見ていてくれましたよね。今こそ、もう一度、ゆっくり向かい合って酒を酌み交わしたかったです。

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こばし・けんた 1967年3月27日、京都府福知山市生まれ。本名・小橋健太。87年に全日本プロレスに入団し、翌年2月デビュー。四天王の一人として3冠ヘビー級、世界タッグ王座に君臨。2000年のノア旗揚げ後はGHCヘビー級王者として13度の防衛に成功し、鉄人王者と呼ばれる。06年に腎臓がんを患うも翌年奇跡の復活。その後は度重なるケガに悩まされ、13年5月11日に引退試合を行った。Fortune KK所属。

※この連載は2013年6月から7月まで全20回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全11回でお届けする予定です。また、最終回には追加取材を行った最新書きおろし記事を公開する予定ですので、どうぞお楽しみに!

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