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チームメート思いの有、「尊敬する人は?」のアンケートに〝高井先輩〟【若生正廣監督 連載#2】

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入学したての公式戦で147キロをマーク

 華々しい公式戦デビューだった。2002年4月20日、仙塩地区高校野球春季リーグ戦・対富谷。試合は7回を終えて7―0。大勢が決していた。そんな時、1年生にしてベンチ入りしていた有が急に私の元へ歩み寄ってきた。

「先生、投げたいです」

 いきなり言ってきたので「大丈夫なのか。入部以来、そんなに投球練習してないだろ」と尋ねた。この日も試合中にちょこちょこっとキャッチボールをしていただけだ。それでも「ハイ、大丈夫です」と言う。私は8回からマウンドに送り出した。

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公式戦初登板で147キロを出してもダルビッシュは涼しい顔だった

 圧巻の投球だった。三者凡退。速すぎて相手打者は打てなかった。試合は8回コールド勝ちとなったが、話題は1イニングだけ登板した有が独占した。スピードガンを持っていた部員の一人が興奮気味に叫んだ。「スゲェ! 147キロ出てますよ!」「ホントかよ!」と私も目を丸くした。それでも有は「そりゃあ出るよ」と言わんばかりに涼しい顔。「147キロ出たぞ」と伝えても「あっ、そっすか」と素っ気なかった。

「まあ、夜間に練習はしてたんだろうけど、こいつはモノが違う。将来、プロになって日本を代表する投手になるな」と思った。入学したてで147キロをマークした投手を後にも先にも私は見たことがない。有はあの時から、きれいなフォームで体重移動がスムーズにできていた。

 球速を出すには体重移動が大事だと考える。有をはじめ投手陣には、室内練習場の傾斜のない場所で4か所に分かれさせ、捕手と20メートル間隔を開けて投球練習させた。マウンドだと傾斜を利用してスムーズに体重移動できる。だが、平らな場所では正しいフォームでないと体重移動がうまくいかない。練習の時から有には口酸っぱく言ってきた。

 分かりやすくいえば、右投手なら振りかぶった時はまだ右の軸足がピンと伸びたまま。左膝を上げた時、右の軸足をグッと折る。たとえるならスキーのジャンプ選手が踏み切る際に曲げるくらいの体勢だ。そのまま左足を踏み出す。つまり、右足でためた力を左足に移して解き放つ。これが理想の体重移動で、力がうまく伝わる。当時、191センチの有も1メートルくらいグッと重心を下げて体重移動していた。

ダルビッシュ有と斎藤佑樹(11年2月、名護)

右からダルビッシュ有と斎藤佑樹(11年2月、名護)

 話はそれるが、有は2011年、ドラフト1位で日本ハムに入団したばかりの斎藤佑樹投手に体重移動をアドバイスしていた。「右足が折れすぎ」と指摘していたそうだ。

 有が1年生の時、夏の甲子園をかけた宮城県大会は準々決勝で仙台に0―2で敗れた。緊迫したその試合で3年生エースの高井雄平(現ヤクルト)がバテてくると、有はベンチ前でキャッチボールを始めた。自分で投げて勝とうと思ったのだろう。

東北高校・高井雄平(02年11月)

東北高時代の高井雄平(02年11月)

「この子はたいしたもんだ」と思った。ところが“ホームシック”にかかった。

「先生、大阪に帰りたいです」「いいよ、すぐ帰れ」

 さすがに精神的ストレス、ショックが大きかったのだろう。1年生の有が“ホームシック”にかかった。

 3年生エース・高井雄平(現ヤクルト)の代が夏の宮城県大会で敗れて甲子園出場を逃した翌日の2002年7月24日。有が野球部寮・勿忘荘(わすれなそう)の私の部屋を突然訪ねてきた。「先生…」。明らかに表情が暗かった。次いで出てきた言葉が「大阪に帰りたいです」だった。

「いいよ、すぐ帰れ」と私は答えた。有はちょっと驚いたような反応を見せた。「いつまで休んでいいですか」「好きなだけいいけ」

 その日のうちに有は部関係者に連れられ、仙台空港から空路、故郷・大阪へ帰った。3年生の引退が相当、寂しかったらしい。特に、寮の同部屋でかわいがってくれていた高井がチームから急にいなくなり、ショックを受けていたようだ。

ヤクルト一巡目指名の高井雄平(02年11月、東北高校・泉キャンパス)

ヤクルト1巡目指名でプロ入りした高井雄平(02年11月、東北高校・泉キャンパス)

 世間の人たちが思っている以上に有はチームメート思いだ。当時、報道機関の方が作成した選手アンケートでも、それが如実に現れた。「尊敬する人は」との質問に、ベンチ入り18人のうち16人は「若生監督」と回答した。残り一人は「両親」と書き、有が記したのは「高井先輩」だった。

 有は1週間で学校に戻ってきた。「どうした? 帰ってくるのが早かったな」と言うと、恥ずかしそうに「いやあ…。秋、頑張ります!」。表情が明るくなっていた。私は「(翌春のセンバツ出場がかかる)秋の東北大会に間に合わしてくれたらいいけ。予選は他の投手に任せるから」と伝えた。実際、宮城県予選は控え投手の高梨慎、斎藤学(ともに2年)に頑張ってもらった。

 有が“ホームシック”にかかったのは、これが最初で最後だった。あとで聞いたのだが、有はこの時、帰郷を許してもらえるとは思っていなかったそうだ。恐る恐る私に申し出たら、あっさりOKをもらえたため「えっ、いいの?」と拍子抜けしたという。私としては「野球漬けの精神的ストレスを取り除いてやろう。秋に大黒柱として万全の状態に仕上げてもらえばいい」と考えてのことだった。

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東北高2年時の集合写真。前列左から4番目がダルビッシュ

 高校球児は結局、本人のやる気が大事。やらされていては駄目。多感な時期でもあり難しい子もいるが、有は手がかからなかった。なぜなら野球が大好きだったから。精神的に落ちても、戻るのに時間がかからないタイプだった。

 かくして“復活”した有は高井から背番号「1」を継承。1年生エースとして東北大会でチームを優勝に導いた。翌03年のセンバツにも順当に選出された。当時は優勝候補というより「2年生エース・ダルビッシュが注目の東北」という感じで見られていた。ダークホース的存在だった。

 そして有の甲子園デビューの日がやってきた。入部間もない1年生で147キロをマークした時と同じように、鮮烈な聖地初登板となった。

2年の春センバツ後に練習態度がガラリ一変

 2年生での甲子園デビューは衝撃的だった。2003年3月26日、第75回選抜高校野球大会2回戦・対浜名(静岡)。有は危なげないピッチングで被安打4、奪三振7、無四球と完投。2―1で快勝発進となった。

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甲子園デビューとなった03年3月の浜名戦で気合満点のダルビッシュ

 ストレートとスライダーのコンビネーションが抜群で、それにカーブを交え、内野ゴロの山を築いた。2年生エースとしての快挙にも、有は「これくらいは当然」といった顔で淡々としていた。当時からチェンジアップ、シンカー、そしてツーシームにナックルも練習で試していた。だが、スライダーとカーブがすでに一級品。それ以外の球種は封印しての完投劇だった。

 ちなみに、ナックルも高校生離れした変化をしていた。当時「どんな球種を持っているんだ? フォークは?」と尋ねたことがあった。「投げられます」と答える有に「スゲェな、お前」と感心しているとキッパリこう返してきた。「いや、ナックルはもっと得意です」。「投げてみろ」と促すと、ストレートの軌道からキャッチャーミット手前でググッと落ちた。あんな速いナックルは見たことがない。ナックルボーラーで318勝右腕フィル・ニークロ(米大リーグ・ブレーブスなど)みたいなニョロニョロした変化ではなく“高速ナックル”だった。もっとも、肩や指先への負担を考慮してナックルは封印させた。

フィル・ニークロ(79年、日米野球、横浜)

ナックルの名手、フィル・ニークロ(79年、日米野球)

 話を甲子園に戻そう。鮮烈デビューを飾った陰で、有は成長痛と戦っていた。194センチながらまだ線が細かった。骨が細いので筋肉が耐え切れず、腰、両膝への負担が大きく、右下腿内骨膜炎を起こした。無理したら疲労骨折してしまう。だが、スタミナはつけさせないといけない。だからプールトレーニングをやらせていた。負荷をランニングの3分の1で抑えられるからで格好の“練習場”だった。

ダルビッシュの投球をスピードガンで測るアトランタブレーブスの大屋スカウト(03年3月、甲子園)

ダルの投球をスピードガンで測るアトランタ・ブレーブスの大屋スカウト(03年3月、甲子園)

 3月30日。3回戦・対花咲徳栄(埼玉)での有は、2回戦で蓄積した疲労が抜けきっていなかった。2回に打線が一挙5点で先制したものの、直後に3点、3回に3点、4~6回で1点ずつ加えられた。

 6回を終わって7―9。私はこの回で有を降板させた。悔しそうに「右肩がおかしいです」と言ってきたからだ。「分かった。代われ」。迷いなく、高梨慎(3年)にスイッチした。本人はそれ以上、口にしなかったが、私は「大事にしないといけない。夏に向けて奮起してくれればいい。成長過程でこの降板は無駄じゃない」と思った。試合は9―10でサヨナラ負けした。

旭川実・山下祐二とダルビッシュ(03年3月21日、甲子園球場)

旭川実の山下祐二とダルビッシュ(03年3月、甲子園球場)

 センバツ後、有の練習態度がガラリと変わった。目の色を変えてトレーニングを始めたのだ。この頃からグラウンドを走るようになった。全体練習後、同級生投手の真壁賢守と学校周りをロードワークするようにもなった。センバツの悔しさを胸に秘めたこの猛練習が、夏準優勝の原動力になった。

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わこう・まさひろ 1950年9月17日生まれ、61歳。宮城県仙台市出身。血液型=B。68年、東北高3年時に夏の甲子園に主将でエース、4番として出場。法大卒。埼玉栄監督を経て93年秋から母校の東北高監督に就任。95年に一時退任したが97年に復帰した。チームを春5回、夏は2回、甲子園に導き、2003年夏は準優勝。04年に退任後、06年から14年まで九州国際大付監督を務めて、11年センバツでは準優勝。15年から再び埼玉栄監督をつとめ19年勇退。家族は妻と2女。実兄は元阪神の智男氏。

※この連載は2012年3月6日から30日まで全15回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全5回でお届けする予定です。

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