退任がかかっている私の事情を知ってか知らずか、教え子たちが見せた快進撃【若生正廣監督 連載#3】
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退任がかかっている私の事情を知ってか知らずか、教え子たちが見せた快進撃【若生正廣監督 連載#3】

有が鬼気迫る表情で登板直訴も腰痛に加え両ひざ悪化で…

 私は2003年限りで監督業を退こうと思っていた。ちょうど、2年生エースの有が第75回選抜高校野球大会・3回戦で花咲徳栄(埼玉)に6回ノックアウトを食らい、リベンジに燃えていた頃だ。

笑顔のダルビッシュ(03年8月8日)

とびきりの笑顔を見せるダルビッシュ(03年8月)

 03年6月、東北高校の五十嵐迪雄理事長に呼ばれた私は、いきなりこう告げられた。「夏の甲子園に行けなかったら、退任していただきたいと思っています」と…。「一生懸命やっているのに勝ったら続けろ、負けたらクビって…」。心底悔しかった。よりショックを受けたのは妻・正子。心労で倒れてしまった。私は「クビがかかっているなんて、あの子たちには言えない。意地でも甲子園行きは決めて、そして勝っても負けても辞めよう」と誓った。

 甲子園出場を争う宮城県大会では、退任がかかっている私の事情を知ってか知らずか、教え子たちは快進撃を見せた。無事に突破し、春夏連続出場を決めた。

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2003年夏の甲子園、ダルビッシュは満身創痍のマウンドが続いた

 8月11日。第85回全国高校野球選手権大会、1回戦・対筑陽学園(福岡)。初回に打線が爆発し、7点のビッグイニングを作って早くも試合を決めにかかった。だが、有は直後の2回に2点を失い、降板。持病の腰痛が悪化した。下半身が使えず、上体投げになっていた。試合は真壁賢守の好救援もあり、11―6と逃げ切った。ただ、有の状態は気がかりだった。

 試合終了後、宿舎に戻るとすぐに有が一人で私の部屋を訪ねてきた。

「次の試合、先発させてください」

 鬼気迫る表情で直訴してきた。腰痛も懸念材料だったが「分かった。投げろ」。次の試合も託した。

ダルビッシュ(03年8月、対近江、甲子園)

近江戦で気迫を見せるダルビッシュ(03年8月)

 18日。2回戦・対近江(滋賀)での有は10安打されながら気持ちで完投し、3―1で勝利。そして20日の3回戦・対平安(京都)では、すさまじい投球を披露した。腰痛を抱えながら、延長11回に及ぶ死闘で被安打2、奪三振15の力投。サヨナラ勝ちで手に汗握る試合を制したのだ。

 もう技術うんぬんではなかった。体はどうなってもいいというような気迫を感じた。相手打者を圧倒し、気持ちがボールに乗っていた。いつもひょうひょうとしていたのに、初めて見せた執念の投球だった。

ガッツポーズのダルビッシュ(03年8月、対近江、甲子園)

近江戦で勝利を収め、ガッツポーズのダルビッシュ(03年8月)

 試合後、私が宿舎の有の部屋を回るとウイニングボールを差し出してきた。「僕はいらないので、よかったらもらってください」と言ってきた。そのボールは今でも仙台の私の自宅に飾ってある。それほど印象的な試合だった。

 だが、今度は有の両膝が悪化した。高野連関係者と父・ファルサに連れられ、病院で診断を受けると右下腿内骨膜炎。見た目でも分かるほど腫れていた。高野連側からは「無理をしないように」と通達された。

 21日。準々決勝・対光星学院(青森)は先発を回避。真壁→有のリレーで2―1と辛勝した。“白河の関越え”までもう少し。しかし、有の体は悲鳴を上げ、満身創痍だった。

ダルビッシュ(03年8月、対光星学院、甲子園)

光星学院(現八戸学院光星)戦では救援に回って勝利した(03年8月)

〝心中〟覚悟で決勝の舞台に送り出すも、待っていた落とし穴

 さすがに投げられなかった。2003年8月22日。第85回全国高校野球選手権大会準決勝・対江の川(島根)。有は腰痛と両膝を負傷。右下腿内骨膜炎を発症しボロボロで、私は登板回避を決断した。決勝戦を見据えての温存策ではなく、NGだった。高野連側から「この状態では無理。将来ある投手ですし」と指摘されてもいた。

 幸い、試合は6―1で快勝した。有の同級生コンビでプールトレーニングを共にした采尾浩二、真壁賢守のリレー。2人が意地を見せての決勝進出だった。

 さあ、深紅の大優勝旗を東北へ――。そして有がまたも直訴してきた。「投げたいです」。膝も腰もすべてが痛いに決まっていた。それでも志願してきた。「大丈夫か」「平気です」。私は“心中”を覚悟し、先発マウンドに送り出した。

木内監督と常総ナイン(03年8月、甲子園)

名将・木内監督と常総ナイン(03年8月)

 23日。今大会限りでの勇退を表明していた木内幸男監督率いる常総学院(茨城)との決勝戦。甲子園入りすると選手・関係者入り口付近に飾ってあった優勝旗が目に入った。「これが優勝旗か…。絶対に勝って、持って帰る」。私はそっと触れ、心の中でつぶやいた。「常総なんてどうってことない。ウチには勢いがある」。東北地方にとって悲願の“白河の関越え”を誓った。

 幸先よく2回に2点を先制した。「いける。理想的な試合展開だ」と思った。満身創痍の有も気持ちのこもった投球を見せた。194センチの体を目一杯使って投げ込み、3回までゼロを並べた。だが、落とし穴が待っていた。

 2―0とリードして迎えた4回。1点差に詰め寄られ、なおも二死三塁の大ピンチで常総の打者は5番・吉原皓史。1ボール1ストライク、振りかぶった有はあろうことかひじを下げ、サイドから投じた。なぜ横手からだったのか…。125キロの力のないボールが中に入った。左翼線二塁打。同点。続けて6番・大崎大二朗にも右中間へ三塁打。この回4安打を集められひっくり返されてしまった。有は口をすぼめ、渋い表情で肩を落とした。

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4回表に痛打を浴びたダルビッシュ(中央)のもとに集まる東北ナイン

 一転、2―3と追う立場になった。反撃のチャンスは7回二死満塁。4番・横田崇幸(2年)が遊撃へ痛烈なライナーを放った。「中堅へ抜けた!」。誰もがそう思った。ところが、二塁ベース寄りに守っていた遊撃・坂克彦(のちにプロ入り)が好捕。逆転のチャンスがついえた。「なぜ、そこにいるんだ…」。二死であれば、内野は定位置がセオリーなのに…。

 ベンチ前でキャッチボールをして、次の回のマウンドに備えていた有も膝に手をついて悔しがった。すぐに「まだ終わっていない! 夏最後の試合だから楽しもう!」とナインにゲキを飛ばした。

 だが、追撃するどころか、8回に1点を加えられ2―4。とうとう追い詰められてしまい…。試合後、私は有にカミナリを落とした。

ダルビッシュからヒットを放つ坂克彦(090211、練習試合、阪神×日本ハム)

プロ入り後、練習試合でダルからヒットを放った坂克彦(09年2月、宜野座村)

高校3年間で唯一泣いた悔い残るあの1球

 反撃は及ばなかった。2003年8月23日。第85回全国高校野球選手権大会決勝戦・対常総学院(茨城)。有は最終回の攻撃で目を真っ赤にしてベンチで声援を送っていたが2―4で敗れた。まさかの逆転負けだ。

 私にはどうしても理解できない1球があった。4回二死三塁のピンチで有が5番・吉原皓史に対し、横手から投げたボールだ。なぜ、ひじを下げサイドハンドにしたのか…。結局、その球を痛打され、同点とされた。

 思わず問い詰めていた。「何でサイドから投げたんだ!」「目先を変えたかったんですが…」。有が言い終わらないうちにまくし立てていた。「千手観音じゃあるまいし! 球威落ちるじゃろ。力でいかんか!」。もう何と発したかほとんど覚えていない。烈火のごとく怒号を飛ばし、カミナリを落とした

 確かに目先は変えられる。だが、球威が落ちるに決まっている。練習の時からたまに横手投げし「どうや!」とチームメート相手にふざけていた有。悪い判断ではないが大一番だ。打たれても真っ向勝負してほしかった。有は私の叱責に唇をかみ、黙り込んだ。

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2003年夏の甲子園決勝で敗れたダルビッシュは悔し涙を流した

 腰痛、膝痛を押して、悲壮な決意で臨んだはずではなかったのか…。12安打されながらも1人で投げ切った。それだけにあの1イニングが悔やまれた。そして、泣いた。クールなエースが人目をはばからず泣いた。涙を流したのは、高校3年間でこれが唯一だった。

 引退する3年生部員からは「春夏全国制覇しろよ。お前らならできる」と夢を託されていた。有はおえつを漏らしながら「すみません…」としゃがみ込んでいた。同時に私は確信した。「有はまだ2年。今回の経験が必ず最終学年で生きる。来年こそ優勝できる」

 ただし「その頃の私はもう監督業から退任しているけどな…」とも思った。既に書いたように、この年の6月、私は東北高校の五十嵐迪雄理事長から「夏の甲子園に行けなかったら退任していただきたいと思っています」と通告された。その時に「甲子園に行って、そして勝っても負けても辞めよう」と決めていたからだ。

 県予選を突破し、甲子園では準優勝。退任は回避されていたが、私は学校に辞表を提出した。だが、ここで多くの先生から「辞めないでください!」と説得された。心を大きく揺さぶられた。結局、もう1年続投することになった。先生たちの熱意に胸を打たれたのが理由だった。

宮里藍の卒業式、ダルビッシュと(04年3月、東北高校)

卒業式で1学年先輩の宮里藍と握手するダルビッシュ(04年3月、東北高)

 翌年は有たちのラストイヤー。東北高校野球部は創部100周年を迎える年でもあった。私は気合を入れ直した。「さあ、もう1年勝負だ!」。新チームに向けて、まずは主将を決めなければならない。それから…。やることはいっぱいあった。

 だが、そんななか、思わぬ事態が…。甲子園で準優勝したため“ダルビッシュフィーバー”が起きていた。

わこう・まさひろ 1950年9月17日生まれ、61歳。宮城県仙台市出身。血液型=B。68年、東北高3年時に夏の甲子園に主将でエース、4番として出場。法大卒。埼玉栄監督を経て93年秋から母校の東北高監督に就任。95年に一時退任したが97年に復帰した。チームを春5回、夏は2回、甲子園に導き、2003年夏は準優勝。04年に退任後、06年から14年まで九州国際大付監督を務めて、11年センバツでは準優勝。15年から再び埼玉栄監督をつとめ19年勇退。家族は妻と2女。実兄は元阪神の智男氏。

※この連載は2012年3月6日から30日まで全15回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全5回でお届けする予定です。

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ありがとうございます
東京スポーツ新聞社の紙面で過去に掲載された連載がまとめて読めたり、ココだけしか読めないコンテンツがあったりします。できる範囲で頑張ります。