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ダメもとのお願い実った!見学に来た中学生のダルビッシュ有【若生正廣監督 連載#1】

追悼

 2021年7月27日、東北高や九州国際大付などの野球部監督として甲子園に春夏通算11回出場した名将、若生正廣さんが死去しました。70歳でした。
 若生監督は12年に本紙野球面で「飛翔 有と歩んだ1276日」という回顧録を執筆。ダルビッシュ有投手との出会い、衝撃デビュー、ホームシック、成長痛、最後の涙、最後の笑顔など恩師しか知ることがない素顔を初めて綴ってくれました。
 これを貴重な資料と考え、東スポnoteでは写真を追加した上で完全無料公開します。甲子園を目指して野球に打ち込んでいる高校球児に読まれますように――。(※タイトルの題字は若生監督の直筆です)

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高校時代のダルビッシュの記事を感慨深げに見つめる若生監督

中3で既に甲子園で通用する高3レベルだったダル

 彼を見るために私は〝ボイコット〟した。夏真っ盛りの2001年7月1日、練習試合を予定していた盛岡大付(岩手)の沢田真一監督に電話で伝えた。「悪い。出張に行ってくるけど試合はやっててくれ」。お互い知った仲。わがままを聞いてもらった。

 息を弾ませ、JR仙台駅から新幹線に一人で飛び乗った。向かったのは大阪。「ものすごい投手がいる」「身長は190センチもあるんだって」。もう10人以上の関係者から彼の噂を聞かされていた。ダルビッシュ有、14歳。ボーイズリーグ・全羽曳野(大阪)に所属する、全国でも話題の中学生右腕だ。

「ぜひ間近で見てみたい。スカウトするとか、そんなの抜きで…」。練習試合の指揮を回避してまで自分の目で確かめたかった。宮城県の中学軟式大会を見に行くことはあっても、特定の中学生を目的に足を運ぶのは、これが初めてだった。

ボーイズリーグ、全羽曳野時代のダルビッシュ有

ボーイズリーグ・全羽曳野時代のダルビッシュ(上下ともに)

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 出発して4時間後、大阪・大和川の河川敷グラウンドに着いた。全羽曳野の練習場。すでに全国各地の15~16校の関係者が来ていた。熱視線を浴び、ひときわ目立つ190センチの体。有を初めて見た瞬間だった。

「かわいい顔してるな」

 目尻が下がったのもつかの間だった。投球練習を見た途端、度肝を抜かれた。ズドン、ズドン。快速球がミットに響く。「これは高校でもすぐに使える投手だ。中学生は普通、遠心力で投げる。でも、彼は腕の力で、自分の力でスイングしている。背が高いから角度もある。加えてコントロールもいい。例えるなら現時点でも甲子園で通用する高3投手レベルだ」。球速は138キロを計測していた。「あとは下半身をいかにつくるか。それにまだ上体投げで…」。そう分析したが、すぐ冷静になった。「ウチには来てくれないだろうな」

 面識があった全羽曳野・山田朝生監督に「どうです?」と聞かれ「噂通り。見てよかったです」と答えた。そして、笑われた。「若生さんは41番目に見に来られた方です」。そんなに関係者が視察に訪れていたとは…。米大リーグ・エンゼルス、ブレーブスの関係者の姿もあったそうだ。

 名門・PL学園(大阪)の井元俊秀先生も来ていた。
「若生君、どうしたの?」
「ダルビッシュ君を見に来まして。でも、どうせPLに行くんでしょ」
「いやいや。育てきれないかも。若生君は?」
「来てくれたら、僕は育てます。絶対に」

 PLは全国の中学生球児の憧れ。スカウト回避の意向を聞いて、内心「しめた」と思った。

 山田監督にダメもとでお願いした。「本人に伝えてください。できれば一度、ウチに来て、グラウンドとか環境を見てほしいと」。山田監督はにこやかに「伝えます」と言ってくれた。有とは話をせず、仙台に戻った。

 見学に来るとは思わなかった。だが、山田監督に伝言をお願いしてから2か月後の9月、有は父・ファルサに連れられて、東北にやって来た。

東北高校時代の若生監督

東北高時代の若生監督

ダル父が見学でつぶやいた「故郷イランに似ている…」

 まさか、だった。

 ボーイズリーグ・全羽曳野(大阪)に所属していた中学3年生の有を初めて見てから2か月後の2001年9月、父・ファルサに連れられ、有が東北高校の見学にやって来た。

 びっくりしつつも対応した。全羽曳野でトレーニングコーチをしていたファルサが流ちょうな日本語で「どう育て、どうトレーニングするんですか」と尋ねてきた。「技術うんぬんより、まず体づくりをさせます。股関節を柔らかくして柔軟な体にする。そして、右投手なら右の軸足から踏み出した左足にスムーズに体重移動できるように。体重移動を重視するのが私の指導理論です」と答えた。

九州共立大・新垣渚

九州共立大時代の新垣渚投手

 当時、私は野球本を読みあさっていた。その中で九州共立大の新垣渚が沖縄水産高時代、ランニングをしすぎて疲労骨折を2回したという記事を覚えていた。「体の成長期に無理をさせたら壊してしまう。高校生は骨がまだ固まっていないですからね」とファルサに話した。

 心の中では「もし、入学してくれたら3年生になった時に甲子園に間に合えばいいや。大器晩成型で将来的にいい投手になってくれれば」と思っていた。私はどんな超高校級の素材でも「この子で全国に勝負する!」とは考えない。高校生活は人間の基本と野球の基礎を作るところ。野球がすべてではない。

 有親子には「グラウンド、室内練習場、寮、校舎は隣接して便利ですよ」と環境面の良さをアピールした。完成して年月はさほどたっておらず、きれいだ。森に囲まれ、自然豊かでもあった。加えて学校から車で20分の距離に約25メートル×20メートルの温水プール施設がある。先述した柔軟性を高めるため「プールの中を歩行させたり走らせたい。温水だから体が温まってストレッチにいい」と考えていた。

ダルビッシュ有の父・ファルサ

ダルビッシュの父・ファルサ氏

 一通り説明すると、ファルサが物思いにふけるようにつぶやいた。「きれいなところですね。緑に囲まれて。故郷のイランに似てる」。「へぇ~」と思った。「イランは砂漠のイメージがありますが…」「いや、違うんですよ。地下水が流れ、水資源が豊富。だから緑がきれいなんです。イランに似ています」「そうですか。東北高は森に囲まれ、空気もきれい。米がうまいし、野球部寮(勿忘荘=わすれなそう)は白飯が食べ放題です。田舎で自然あふれる環境はどうでしょう」。私とファルサのやり取りを、有はニコニコして聞いていた。

 でも、アピールポイントは正直、それくらい。「やっぱり来ないだろう」と思っていた。ファルサからも「これからあと3校くらい見に行きます」と言われ「返事、待ってます」と答えるしかなかった。

 9月も半ばを過ぎた頃、電話が鳴った。声の主は全羽曳野・山田朝生監督。再びまさか、だった。「若生さんのところに行きたいって」――。

プールトレーニングでいきなりダル不機嫌に…そのワケは?

「ウソだろ…」

 2001年9月、全国40校以上から勧誘されていたボーイズリーグ・全羽曳野(大阪)の有が、はるか遠い東北高校への入学を希望していることを知らされた。東北には岸和田シニア(大阪)から加藤将斗(元横浜)が入学したことはあったが、関西圏出身の学生は皆無といえた。

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東北高時代のダルビッシュ(右)は特別扱いを嫌った

 たまらなくうれしかった。びっくりもした。と同時に気を引き締めた。彼はイラン人と日本人のハーフ。友達、食事、言葉の問題に直面する。「差別だけは受けさせないようにしなければ」

 有が幼少期にハーフを理由にいじめられた話、中学時に米大リーグ・エンゼルスのテストに参加した話などが収められたドキュメント映像を入手した。東北の先生たちにもその映像を見せ「この子が入学を希望している」と伝えた。「いい投手にする。人間的にも教育して、しっかりした形で卒業させる」と心に誓った。

 初めて会話したのは翌02年1月、東北の入試時。同じく全羽曳野の家弓和真とともに有は受験した。「受験してくれてありがとう。合格したら、一緒に頑張ろうな。無理はしないように、まず体をつくって。自由にのびのびしてほしいけ」。有は淡々と「ハイ」と返事した。緊張もせず、ケロッとしていた。だが私が笑うと人懐っこく笑った。大物の雰囲気もない普通の中学生に見えた。

若生監督と高井雄平(02年11月、東北高校)

若生監督と高井雄平(02年11月、東北高校)

 4月。有が無事、入学した。いよいよ私との3年間が始まった。野球部寮・勿忘荘(わすれなそう)では3年生エース・高井雄平(現ヤクルト)と同部屋にした。学校から車で20分の距離にある温水プールでのトレーニングもほどなく開始した。だが、いきなり有は不機嫌そうだった。「先生、プールは僕だけなんですか」「どうした」。特別扱いされるのがイヤだったらしい。「できれば他のヤツも連れていきたいんです」「そうやな。お前だけ別はいかんな」。有の同級生投手・真壁賢守、采尾浩二のプール帯同を許可した。

「その代わり、まじめにやれよ。道草食って遊ぶなよ。プールは毎日500円かかるけん」「ハイ!」。有はニコニコして部関係者に連れられ、プールへ向かった。世間的には孤高のイメージがあると思うが、チームメートを大事にしていた。

ダルビッシュの同級生投手・真壁賢守(15年12月、本田技研野球部寮)

ダルの同級生投手・真壁賢守。メガネッシュとも呼ばれた(15年12月、本多技研野球部寮)

 息抜きも与えた。「たまにはプール帰りにラーメンでも食べてこい」とお金を渡した。有がプールトレーニングを終え「何食べてきた?」と聞くとお釣りを見せてきた。「えらい使ったな~」と笑うと「エヘヘ」。この屈託ない笑顔が好きだった。

 東北監督に就任後、1年生にプールトレーニングを命じたのは初めて。週3日、1日につき2時間させた。特別扱いではない。当時、成長痛で「膝、腰が痛い」と訴えていた彼を思いやってのことだった。そんな有の公式戦デビューは衝撃的だった。自己最速の147キロを計測したのだ。

次の話へ(来週公開!)

連載担当記者が書いた記事はこちら

わこう・まさひろ 1950年9月17日生まれ、61歳。宮城県仙台市出身。血液型=B。68年、東北高3年時に夏の甲子園に主将でエース、4番として出場。法大卒。埼玉栄監督を経て93年秋から母校の東北高監督に就任。95年に一時退任したが97年に復帰した。チームを春5回、夏は2回、甲子園に導き、2003年夏は準優勝。04年に退任後、06年から14年まで九州国際大付監督を務めて、11年センバツでは準優勝。15年から再び埼玉栄監督をつとめ19年勇退。家族は妻と2女。実兄は元阪神の智男氏。

※この連載は2012年3月6日から30日まで全15回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全5回でお届けする予定です。

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