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バットとグラブは体の一部、プロ野球選手は道具にどう神経を注ぐのか【仁志敏久連載#7】

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仁志敏久のバット論、「弘法大師だって筆は選んでいたと思う」

「弘法筆を選ばず」と言いますが、恐らく弘法大師だって筆は選んでいたと思います。道を究めようと思うほどこだわりができ、道具に対しても神経質になります。

 多くの野手が一番こだわるのはバット。

 打つことがすべてといっても過言ではありませんから、細かいところまで神経を注ぎます。

 太さ、長さ、重さ、材質。これがわずかに違うだけでも選手たちは違和感を持ちます。

 例えば、グリップが1ミリ太くなっただけでも違いは分かる。それによって、わずかにでも重心のバランスは変わってしまいかねません。バットというのは、どの部分でもミリ単位で感じが変わってしまうのです。

バット職人の久保田五十一氏

バット職人の久保田五十一さん。落合博満、松井秀喜、イチローと天才打者のバットを手がけていた

 長さなど1センチ違ったら大違い。重さでも10グラム違えば分かるものなのです。木の材質にしても、それぞれ振った感じ、当たった感触は異なります。

 そして一番重要なのは形状によるバランス

 プロに入ったころはまだ、アマチュア時代の感覚が残っていたため、パワーヒッタータイプを使っていました。

 当時使っていたのは早稲田大の先輩でもある石井浩郎さんの形を元にしたもの。ヘッドに重みがあり、いかにも力が必要なバットでした。しかも950~960グラムという重いものでした。

 さすがにプロに慣れて、変化球に対応することや、1番を打つということを考えるようになると、「これじゃいかん」と、試行錯誤するようになり、バットを清原和博さんにもらったこともあるし、ヤクルトの宮本慎也さんにもらったこともありました。

横浜の石井琢朗のバッティング

プロ通算2432安打を放ったヒットメーカーの石井琢朗

 そして出合ったのが、横浜の石井琢朗さんのバット。

 プロ2年目のシーズン後の東西対抗の時だったか、試しにもらって握ってみると「おっ!」という感じ。振ってみて「おおっ!」。打ってみると「おおおっ!」となったのです。

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石井琢朗モデルのバットでヒットを積み重ねた

 結局、引退するまでわずかに手を加えただけで、ずっとその形を使い続けました。その中でもしっくりくるものは握った瞬間、感じるものがあったりもします。

 とは言っても、時には迷って違う形も試したことがあります。でも不思議なことに「今年はちょっと変えてみようか」なんて欲を出すと、決まって良い結果にはなりません。

 恐らく長いこと、その形、バランス、振った感じが体に染み付いていて、スイング自体がそのバットから作り出されているのだと思うのです。

 だから「もっとこんなふうに打ってみよう」とか「違う感じを出してみよう」と思って違うものを試しても、体が受け付けない。スイングは体とバットがマッチしてのものなのかもしれません。

 1999年。打率3割にはヒット1本足りませんでしたが、1番打者として自信を持って打席に入っていました。

 その陰には抜群な感触のバットとの出合いがあったのです。

仁志敏久のグラブ論、いい具合のシワが吸収力を生む

 バット同様、グラブもこだわり続けました。バット以上に体の一部となる道具ですから、形だけではなく、革の質感からも選びます。

 実はプロ入り当初、サードだったということもあって、アマチュア時代のものを使っていました。従って親指部分のチームと名前の刺しゅうは「JAPAN 仁志」と入っていたのです。

 セカンド用のグラブを正式に作ったのはプロ入り3年目の1998年。グラブの重要性を教えてくれたのもやはり土井正三さん

 サードで使っていたものとは大きさがまず違います。強い打球を受けるために大きめ、深めとなるのがサード。それに比べるとセカンドで使うグラブは小さめ、浅め。これは捕ってから素早く右手に持ち替え、投げるためです。

 セカンドは「ゴロを捕る」という感覚はありません。どちらかというと「当てる」という表現が近いかもしれません。もちろん、打球によっては「つかむ」ということも必要ですが、大半は右手にどう握り替えるかを考えます。

 初めは土井さんと同じものを作ってもらいました。土井さんのグラブはまさに当てるだけのもの。手のひらは平たく、4本の指は指先の方にほぼ真っすぐに伸びている。極端に言うと手のひらで「4」を表しているような感じです。後に改良を加えましたが、当初はその型をまねて作り、1年間でようやくグラブの扱いと技術がモノになってきたのです。

イチローモデルを手にするグラブ職人の坪田信義氏

イチローモデルを手にするグラブ作りの名人、坪田信義さん

 そしてこのグラブは特別なものでした。

 土井さんの頼みもあって、ミズノのグラブ作りの名人、坪田信義さんが作ってくれていたのです。この当時、既に坪田さんは限られた選手にしかグラブを作っておらず、巨人の選手では川相昌弘さん松井秀喜君くらいしかいなかったのです。

 坪田さんのグラブは特別な質感と使いやすさがあります。特に違うのがグラブにできるしわ。少し余った革が曲がる部分でいい具合にしわになる。それがグラブの軟らかさと手のなじみ、ボールの吸収力を作るのです。軟らかいけれど型崩れしないのが特徴です。

 ただ、グラブそれぞれに革の癖が出てしまうので年間3~4個のうち、これはというのは1つあるかないか。これは名人でもどうしようもないものだと思います。

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最高のグラブが守備を支えた(右は川相、左は山崎武)

 ゴールデン・グラブ賞4回で使ったのは2つ。今は名人のお宅で静かに余生を過ごしています。

 考えてみると素晴らしい方々が手がけた道具を使っていました。

 バットはミズノの久保田五十一名人、グラブは坪田名人。スパイクもミズノでスペシャルモデルを作ってもらい、2004年にアシックスに替わってからは靴作りの名人、三村仁司さんに手がけてもらっていました。

靴作りの名人・三村仁司氏

靴作りの名人・三村仁司さん

 こだわりの道具を手に臨んだ2000年。ここにプロ生活が集約されていると言っても過言ではありません。

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