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センバツで名門の浪商と激闘。そして最後の夏が…【太田幸司連載#4】

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センバツ初戦勝利も肩に違和感が…

 ボクたちは三沢駅から上野行きの夜行列車に乗り、新幹線で名古屋へ向かった。昭和44年(1969年)3月。27日に開幕する第41回選抜高校野球大会を控え、直前合宿を張るためだった。

太田幸司

甲子園を経験してさらに野球に燃えた太田氏

 屋外でのフリー打撃、土のグラウンドで受けるノックは本当に久しぶりだった。「オラオラァ、しっかりしろ」「そんなんじゃ甲子園で勝てないぞ」。みんな気持ちが高揚しているから、威勢のいい声がポンポン飛び出す。内外野の連係プレーやシート打撃などの実戦練習もたっぷりとこなし、雪国のハンディを少しでも解消しようとした。青森に比べると気温ははるかに暖かい。ボクは肩が軽くなったような感じがして、ブルペンでビュンビュン投げた。

 名古屋から兵庫・宝塚市内の宿舎に移り、しばらくして組み合わせ抽選会に臨んだ。主将の河村がクジを引く。胸がドキドキする瞬間だ。初戦の相手は、九州地区代表の福岡・小倉高だった。ボクは思わず武者震いした。前年秋の明治神宮野球大会で、2―4と完敗した相手ではないか。リベンジだ。ボクは「絶対に借りを返してやる」と誓った。

 センバツの開会式は夏の大会に比べて少々趣が違った。三沢高のプラカードは制服を着た女子生徒ではなく、さっそうとした格好のボーイスカウトが持つ。そしてパン、パン、パン、パンと仕掛け花火が勢いよく鳴る。煙の中から第41回選抜――の幕と、出場26校の校旗が姿を現した。重厚でおごそかな式から、華やかな雰囲気が漂うイベントになっていた。

 大会第2日に登場したボクたちは、打倒・小倉に一丸となった。前半5回を終えて3―0。打力もそこそこだったボクは7回に右中間へダメ押しのタイムリー二塁打を放ち、小倉のエース・圓川をマウンドから引きずり降ろした。そして最終回。反撃を受けてヒヤヒヤしたものの、最後の打者を三振に切って取る。完封こそ逃したが、ボクは小倉打線をヒット6本に抑えて神宮大会の雪辱を果たした。

小倉に神宮大会の雪辱を果たした

三沢高と小倉高の熱戦を伝えるスコアボード


▽1回戦
小倉000000002=2
三沢00102010×=4

♪木崎野の北東風は強し 二つの潮の相搏つところ 霧深し巷に流る ここにこそ築ける城ぞ 魂の塞と堅し

 昨夏に続いて甲子園に三沢高の校歌が響き渡った。バックスクリーンの校旗を見上げながら歌う校歌は、何度歌っても格別だ。ボクは「次の試合も勝ってまた歌うぞ」と闘志を燃やす一方で、一抹の不安を覚えていた。試合終盤はピンチの連続。痛いわけではないが、肩がいつもより重く感じるのだ。春の陽光に誘われ、直前合宿の投球練習でガンガン飛ばしたことが災いしたのかもしれなかった。

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センバツ1回戦を突破して校歌を歌う三沢ナイン

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