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とうとう疲労も限界に達し、高速道路で事故を起こしてしまった【石毛宏典連載#18】

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「四国アイランドリーグ」4球団で船出

 いったい、どれくらい走っただろうか。2004年夏、私と中村洋一郎は翌05年春の新リーグ開幕を目指して四国を東奔西走していた。

 運営会社「IBLJ」を設立し、中村も勤めていた証券会社を退社して新事業に専念してくれることになった。余談だが彼の洋一郎という名前は「大洋ホエールズ(現DeNA)」にちなんだものだという。大洋の熱烈なファンだった父親が球団初の日本一となった60年に生まれた彼に“洋”の字をつけたそうだ。中村も野球と不思議な縁がある男だった。

優勝して胴上げされる大洋の三原脩監督(1960年)

 私たちは運営資金を確保するために、まずスポンサー探しを始めた。中村は会社四季報を手に調査。私もこれまでに培った人脈などを駆使しながら数え切れないほどの会社を訪問した。私が理念や目的を訴え、中村が具体的な事業計画を説明した。しかし、思うように話は進まなかった。興味を持って一度は話を聞いてくれるものの、そこから先には進まないというケースがほとんどだった。「そんな甘い事業計画じゃダメだ。練り直してこい」と叱られたこともあった。

 それでも私は「もし実現すれば素晴らしいものになる。このリーグが動き出せば、みんなが幸せになる」と確信して、走り続けた。その結果、複数の企業が賛同してくれた。メーンスポンサーが決定し、9月30日に香川・高松で私の構想を発表する記者会見を開くと、さらに反響は広がった。若者の夢の実現や地域振興につながると好意的な見方をしてくれる方が多く、スポンサーに名乗りを上げてくれる会社も増えた。私の構想は着実に前に進んでいた。

 次の課題は使用球場の確保だった。リーグ全体で年間180試合を計画。各県の球場事情は把握していたつもりだったが、予想外の問題が出てきた。特にナイター開催が大きな課題となった。例えば徳島県は照明が設置された球場があったものの、照度が低く観客の安全確保も考慮すると硬式野球の興行はOKできないという。香川・高松では球場が海に近く、照明を点灯すると船の運航の障害になると指摘された。

松山の坊っちゃんスタジアム(2004年8月)

 過去にも事故が発生したことがある、という。さらに各県とも週末は高校野球や社会人野球、軟式野球で予定が埋まっていた。私たちは行政や漁業組合、高校野球連盟など各団体と粘り強く交渉し、何とか使用を許可してもらった。

 05年の1月にはリーグの名称を「四国アイランドリーグ」とすることが決定。公募していた各4球団のチーム名も決まった。選手も1166人が受験した入団テストで100人が合格。彼らを4球団に振り分けるのだが、できるだけ戦力を均等にしないとリーグ戦の面白さが半減する。そこで合同キャンプを行い、選手の力を把握した上で4球団によるドラフト会議を行うことにした。

 最終的に4球団のメンバーが決定したのは3月25日。それからユニホームの採寸などをして、全員のユニホームが完成したのは開幕日4月29日の2日前だった。

リーグ運営資金稼ぎに疲れ、高速道路で事故

 大破した車の横で私は立ちすくんでいた――。
 
2005年4月29日、日本初の独立リーグ「四国アイランドリーグ」が開幕した。愛媛・松山の坊っちゃんスタジアム。7000人の観衆を前に約100人の“プロ野球選手”が真新しいユニホームに身を包んで誇らしげに立っていた。本格的に動き出してから約1年6か月。とにかく走り回って、ようやくスタートラインに立った。

四国を東奔西走した石毛氏

 開幕直前には高知県の農家の方々が「一俵入魂の会」を発足させてくれた。「カネはないが、米ならある。腹が減っては野球ができん。選手に米を食わそう」という趣旨で米俵を集めてくれた。1年目は330俵が集まり、230俵は選手の食事用、100俵は販売して、その利益を寄付してくれた。

 こうして地元の人々に応援されながら何人の選手が成長してNPBに巣立つか。どれだけリーグを盛り上げることができるか。ここからが本当の勝負だと思うと喜びもつかの間で再び身が引き締まる思いだった。

 まず選手のレベルアップが大きな課題となった。プロである以上、プレーで観客を魅了しなければならない。にもかかわらず、開幕直後は観戦した人々からお叱りを受けるプレーが続出した。野球のセオリー、基本が身についていない。素材は悪くないのに中学や高校の野球部でそうした指導をきちんと受けていなかった選手が多かった。私や各球団の監督、コーチが基本技術、ゲームのセオリーを叩き込んだ。ただ、厳しい指導の中で反発する選手もいた。

 ある日の練習中、選手数人が私に「石毛さんの言うことはわかります。でも、プロで成功した石毛さんには僕たちの気持ちがわからないでしょう」と言った。私は「わからんな」とキッパリ答えて、こう続けた。「お前らはイチロー松井秀喜の気持ちがわかるのか。彼らがどんな思いでどれだけ努力をしてきたのか。彼らは決して特別じゃない。それだけのことをやってきたんだ。お前たちもまだまだやるべきことがあるだろう」。彼らは黙々と練習を始めた。

イチロー(右)と松井秀喜(2003年7月、米イリノイ州シカゴで行われたオールスター)

 厳しい指導を受けながら半年間で90試合も消化すれば野球感覚は身につく。開幕直後には苦言を呈していた観客からシーズン終盤になって「随分、レベルが上がったね」と言われた時は大きな手応えを感じた。

 何とか1年目のシーズンを終えたもののリーグの経営は苦しかった。予定していたスポンサー料が振り込まれないなどのトラブルもあり、シーズン中に運営資金が底をつくかもしれないという事態に陥った。私は開幕後も支援してくれる企業探しや講演などに奔走。講演料はすべてリーグの運営資金に回した。毎日、自分で車を運転して早朝から夜中まで走り回った。500キロ以上、運転する日々だった。大破した車を前に「よく助かったな」と背筋が凍る思いだった。

 そして“クーデター”が起こった。

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いしげ・ひろみち 1956年9月22日、千葉県旭市生まれ。市立銚子から駒大、プリンスホテルを経て81年に西武ライオンズにドラフト1位で入団。8回の日本一、11回のリーグ優勝に貢献。新人王(81年)、シーズンMVP(86年)、日本シリーズMVP(88年)、ベストナイン8回、ゴールデングラブ10回、14年連続球宴出場と輝かしい成績を残す。94年オフ、ダイエー(現ソフトバンク)にFA移籍。96年に引退。ダイエー二軍監督、オリックス監督を歴任。その後、四国アイランドリーグを創設するなど各地の独立リーグ設立に尽力。現在は野球教室「石毛野球塾」の塾長を務める。著書は「石毛宏典の『独立リーグ』奮闘記」(アトラス出版)。

※この連載は2012年5月8日から7月13日まで全40回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全20回でお届けする予定です。

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