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「ウマ娘」のサイボーグはバルセロナ五輪の年の二冠馬!スパルタで常識を打ち破ったミホノブルボンを「東スポ」で振り返る

五輪中だからこそ

 先週は失礼いたしました。苦肉の策で、馬ではなくレースにスポットを当ててみたのですが、おかげで競馬ファンの皆さんの〝個人的最速馬〟を聞けて、楽しかったです。やはり競馬の味わい方は人それぞれ。またやりましょう!って、すみません、馬ですよね、ウマ。今回は、私が直線1000メートルを走らせてみたい馬でもあるミホノブルボンの生涯を「東スポ」で振り返ろうと思います。「ウマ娘」では「努力で才能は超えられる」と信じるサイボーグキャラですが、実際はどうだったのでしょうか。実はこの馬を選んだのは、開幕した途端に盛り上がりを見せている五輪期間だから…というのもあります。スポーツの祭典では、ひたむきな姿と努力の結実、時に常識では考えられないことが起こり、それが人々を熱狂、感動させますよね? それは奇しくもバルセロナ五輪の年に二冠を達成したブルボンの生き様に通ずるものがあるのです。調教師の課す厳しいトレーニングに耐え、競馬の常識に挑んだ物語を一緒に見ていきましょう。(文化部資料室・山崎正義)

雑草魂

 平成元年の春、戸山師は馬産地のメッカ・日高地方の牧場を熱心に歩き回った。場所は名もない牧場、血統は二流。が、シリが大きく、トモ(後ろ脚)が発達した初仔と巡り合う。それがミホノブルボンだった。

 これは、1992年4月、皐月賞を前にした本紙記事にあった一文です。ミホノブルボンの調教師・戸山為夫氏のインタビューで、トレーナーと馬との〝運命の出会い〟を紹介しています。

戸山為夫

 零細牧場で見つけた決して血統がいいとは言えないその馬に目をつけた戸山師は、関西の拠点・栗東トレーニングセンターに所属し、安価な馬をハードトレーニングで強くして高額馬に立ち向かう男として知られていました。ブルボンを見てピンときたのでしょう。すぐにスカウトを決めたといいます。

 育成の仕方から飼料(栄養)のバランスなど、こと細かに戸山師は牧場に指示し、当歳時(産まれた年)は他の馬と別のメニューを消化させた。

 普通はここまでやりませんが、厳しい練習に耐えられる体作りを求めたのでしょう。基礎鍛錬をしっかり積んだブルボンは、平成3年春、栗東トレセンに入厩します。待ち受けていたのは、栗東名物、戸山流の〝スパルタ〟。練習する場所はもっぱら坂路(はんろ)でした。

栗東坂路・91年5月


 これは1985年、当時〝東高西低〟だった成績を何とかしようと造られた坂道のトレーニング場。当初は利用する調教師は多くなかったものの、登り坂を何度も走らせることで馬を強くできると感じた戸山師は積極的に使っていました。坂路の路面にはウッドチップが敷いてあり、脚への負担が少ないメリットがあります。ケガがつきもののハードトレにはピッタリだったんですね。

 で、ブルボンがやってきたのは、徐々に関西馬の成績が上がり、坂路の効果が認められるようになったタイミング。「集大成になるかもしれない」。名トレーナーに気合が入ります。戸山師は時にやりすぎてしまうこともあり、故障してしまう馬も少なくありませんでしたが、「強い馬を強くするのが私の使命」という信念のもと、「過酷なトレーニングに耐えられる素材と判断したからこそ」ブルボンにスパルタを課したそうです(前出のインタビュー)。

最後の坂路

 8月――。暑い中、デビューに向けて黙々と坂路を登り続けるブルボン。普通の馬が1日に2~3回登坂するところを、4回。それだけでも関係者や記者は驚いたでしょうが、ある日、その若駒が叩き出したタイムが周辺をザワつかせます。500メートル29・9秒。4歳以上の古馬でさえ31秒台を出せば上々、トップクラスでさえ30秒台が精一杯なのに、2歳の、それもまだデビューもしていない馬が出した破格の数字に、誰もが目を疑いました。「どこの馬だ?」。騒然となる中、戸山師も「これは本物だ」と感じたに違いありません。そして、それは9月の新馬戦で確信に変わります。

 あまりいいスタートではなかったブルボンは、3コーナーでまだ13頭中10番手。競馬において最も短い1000メートル戦、しかも先行逃げ切りがほとんどの新馬戦においては絶望的な位置取りです。しかし、4コーナーにかけて内目をグングン上がっていき、直線、外に出され、ムチを数発入れられると、前にいた5頭を並ぶ間もなくかわします。タイムは2歳コースレコード。もちろん、評判にはなっていました(単勝1・4倍)。しかし、練習通りに走るとは限らないのが競走馬で、調教のタイムがいくら良くても、レースでは切なくなるほど走らない馬もいます。その点、ブルボンは評判通り、いや、それ以上のレースぶりを見せ、みんなに「やっぱりすごい」と思わせました。戸山師もホッとしたでしょう。評判は東にも届いていました。続く2戦目は、ソエ(若い馬によく起こる骨膜炎)のため、2か月空いて東京競馬場の1600メートルだったのですが、新聞の印はこの通り。

ブルボン2戦目


 今度はスタートを上手に出て、道中は2番手。まったく追うところなく、2着に6馬身差をつけました。この日、競馬場で戸山師と会った本紙記者はこう豪語されたそうです。

「朝日杯まで、ぜひこの馬の名前を覚えておいてくれよ」

 忘れるわけがありません。朝日杯(同世代のナンバーワン決定GⅠ)の頃には、こんなに◎がつくほど、その名は全国区になっていました。

朝日杯・馬柱

 頭数も少なく、相変わらず調教も動いていましたから、単勝オッズ1・5倍の断然人気。しかし、レースでは予想外の苦戦を強いられます。2番手から抜け出そうとしたものの、すぐ後ろにいた2着馬に外から並ばれ、叩き合いになり、何とかハナ差だけしのぐ辛勝だったのです。

朝日杯

朝日杯・結果


 翌日の本紙の「素直に喜べない」という見出しにあるように、陣営はGⅠを勝ったとは思えないほど渋い表情。騎手の小島貞博ジョッキーはこう語りました。

「ペースが遅くて最初からかかりまくった(かなりムキになった)。最後はオツリ(余力)がゼロで正直アカンと思った。今まで最低のレースやね」

 ファンからも、「思ったほどではないのかも」という声が上がりました。期待が大きかっただけにガッカリ度も大きかったんですね。見方としては「クラシック候補なんだろうけど、う~ん…」といったところ。微妙な評価のまま年を越すことになるのですが、この負けで陣営は腹をくくります。まず、この朝日杯で、距離延長が歓迎ではないことはハッキリしました。もともと、血統的には明らかに短距離向き。しかも、戸山師自身、デビュー時からブルボンをこう評していたんです。

「坂路であんな好時計を出す馬は例外なくスプリンター。ミホノブルボンは名スプリンターになる馬だ」

 スプリンターというのは短距離走者、競馬で言えば1200メートルがベストのスピード馬だということです。1600メートルの朝日杯の最後で脚が上がったのは、その証明。戸山師も「やっぱり」と思ったはずです。ただ、戸山師は同時に、2番手に控えたことでブルボンの持つ天性のスピードを殺してしまったとも感じました。競走馬というのは、多少、適性とは違っても、自分のペースでレースを進めれば、距離を克服することがあります。もともとエンジン(絶対的な能力)が他馬とは違うのだし、スピードを生かして好きなように走らせれば何とかなる…と感じたのでしょう。それを確認するため、陣営は翌年春、GⅠ馬なのに背水の陣で皐月賞トライアルのスプリングステークス(GⅡ)に出走してきます。

 距離は1800メートル。朝日杯の後、ネンザや外傷があったものの、じっくりと、たっぷりと調教を重ねてきました。万全の調子でないと適性は見極められません。合計20本にもなる坂路での追い切りは覚悟の証。だから当時、マスコミでは「スプリングステークスで負けたら皐月賞は断念」という報道さえ出ていました。戸山師はレースの週にその報道を否定し、断念なんて考えておらず「うちのは皐月賞が一番の狙いなんだ」と語っていますが、皐月賞を勝つためには「絶対に取りこぼせない」とも話しています。ハンパではない意気込みで、馬の可能性を試そうとしたのです。

スプリングS・馬柱


 印を見ても分かるように、1800メートルへの距離延長はかなり不安視されていました。単勝も4・5倍。1番人気ではなく2番人気として迎えるレースを前に、戸山師は小島ジョッキーにこう指示します。

「真の性能を見極めるため、馬に合わせた乗り方をしてくれ」

 これが何を意味しているのかが伝わらない師弟関係ではありませんでした。ゲートが開き、小島騎手はいきなりGOサインを出します。コーナーを4つ回る1800メートルだなんて関係ない。朝日杯と同じ轍は踏まない。1枠1番から、ブルボンは敢然とハナを奪います。同じぐらい、いや、天性のスピードなら負けていないサクラバクシンオーも先行しようとしましたが、ブルボンの強い意思に、2番手に控えました(今考えるとすごいマッチアップです)。ダッシュさせたので、最初はムキになりました。でも、朝日杯と違い、自分のペースで逃げているのですぐに落ち着きます。この日は小雨で馬場は重かったのですが、栗東の坂路で鍛えたパワー十分の肉体にはハンディになりません。ブルボンのペースで馬場を1周し終わる頃には、2着に7馬身の差がついていました。

スプリングS・結果

 記事では、戸山師の顔が自然とほころんでいたと伝えています。絶対的なスピード能力が距離適性をカバーすると信じていたものの、やはりホッとしたのでしょう。「きょうは大満足」と笑顔を見せました。そして、距離を不安視され、一時は短距離戦線への路線変更さえもささやかれていたブルボンは一躍、皐月賞の主役に躍り出ます。他のトライアルでインパクトのある勝ち方をした馬がいない中、この7馬身差は強烈すぎました。唯一の不安は、適性把握のためにスプリングステークスに向けて目一杯仕上げてしまったこと。そこから中2週というきついローテーションで本番となると、体調の〝上がり目〟は皆無です。しかし、皐月賞の週、ブルボンは追い切りで絶好の動きを見せてそんな不安を吹き飛ばします。

皐月賞・追い切り

 もうひとつの不安点は200メートルの距離延長。戸山師は、皐月賞に向かう理由をこう説明しました。

「まだ私はスプリンターと確信している。距離2000メートルは1ハロン長いんだ。しかし、他馬と比較して能力の絶対値が違いすぎる。ただそれだけです。トウカイテイオーがいたら出走させんがね」

 ジョーク交じりの締めに、前年、無敗でダービーを制した名馬を引き合いに出すところにも自信を感じさせますよね。奇しくもそのテイオーと同じく、4戦4勝で、ブルボンは皐月賞の舞台に立つことになりました。

皐月賞・馬柱

 メンバーが強くなり、距離がさらに延びたのに、スプリングステークスで4・5倍だった単勝オッズは1・4倍になっていました(珍しいパターンです)。あの勝利がファンの懸念を払拭したのがよく分かります。それは小島騎手も同じでした。自信を持って逃げれば誰もついてこられない…。スタートを決めると、すかさずハナを奪います。そのままペースを落とさず、2馬身ほどのリードを保って逃げると、直線に向いても脚色は衰えず、後ろから迫ってくる馬もいませんでした。

皐月賞1

 2着には2馬身半差。完勝以外の何物でもありません。

皐月賞・結果

 やはり、戸山師が言う通り、能力の絶対値が違うように見えました。紙面では1975年、皐月賞とダービーをとんでもないハイペースで押し切ってしまった〝狂気の逃げ馬〟カブラヤオーの再来かというベテランジョッキーの声を載せています。ただ、一方で記者は、ダービーでのさらなる400メートルの距離延長について不安視する声も拾っていました。要約するとこうです。

「中山の2000メートルはごまかせるが、東京競馬場の2400メートルはごまかせない」

 はい、競馬に教科書があるなら、そしてそこに「距離適性」という章があるなら、必ず載るであろう〝常識〟です。中山ほど小回りではなく最後の直線も長い東京は、馬の能力がハッキリ出る競馬場。例えば1800メートルが適距離の馬は、中山の2000メートルはうまくごまかして乗ったり(極力ロスを少なくするなど)、ブルボンのようにスピードに任せて乗り切ることができますが、東京の2400メートルは乗り切れません。極端な話、中山の2500メートルの方がまだ乗り切れる可能性があります。それぐらい、東京競馬場の2400メートルは競走馬の能力を丸裸にするのです。だからこそ、ダービーの舞台なのです。戸山師も分かっていました。皐月賞のレース後、ハッキリとこう口にします。

「2400はこの馬に適した距離じゃない。背伸びをせずじっくり仕上げていきたい」

 明らかに控えめです。前述のようにもともと皐月賞こそが最大目標だとも言っていましたし、常識的には厳しいことを認識しているのがよく分かります。では、どうするか。皐月賞を完勝した馬がダービーを回避するなんて選択肢はありません。前に進むしかない。距離をもたせるしかない…対峙する相手は〝常識〟という壁です。打ち破るのに必要なのは何でしょう。調教師は戸山為夫。そう、練習あるのみです。

東京競馬場・芝2400メートル

 皐月賞馬がダービーに向かう際、普通の調教師なら「調子をキープすること」を念頭に置きます。既に結果は出ているのですから、避けるべきはオーバーワーク。ブルボンの坂路調教はそもそも他馬より多い4本だったのですから、ダービーまでは3本にして調子を整えても良さそうなものです。しかし、戸山師は変わらず4本どころか一時は5本を課そうとしたといいます。距離の壁を越えるには、それぐらいやらないとダメだということでしょう。
そんなブルボンにアクシデントが発生したのは、ダービー半月前の金曜日でした。調教後、歩様に異常が…。右前脚に骨膜炎の症状が出て、2日間、坂路調教を休んだのです。程度としては軽かったものの、週が明け、多くのメディアがそのことを報じ始めました。本紙の紙面にもこんな見出しが躍ります。

ダービー黄信号記事

 記事には、間もなく調教を再開すると書かれているのですが、それでも見出しは「黄信号」。実際、このようなパターンでレースを回避する馬は決して少なくないからです。おそらく2021年の今なら回避の可能性も低くはないでしょう(昨今は、馬のことを第一に考える風潮が浸透し、些細なことでも、念のため大事を取るケースが増えています)。しかし、戸山師は違いました。ギリギリまでブルボンの脚元を見極め、長年の経験から、こう判断します。

「スッキリ良くなることはない。小康状態を保ってダービーに出すのが俺の仕事」

 なるほど、若駒には起こり得る症状なのでしょう。では、皆さんが調教師で、この状況になったらどうしますか? 私だったら、とにかく無理はさせず、調教を軽くして小康状態を保つようにします。絶対能力は上なんですから、それでも好走はできるはずです。おそらく、現実の調教師の方でも同じような方針を取る人がいると思います。でも、この紙面が出た翌日、すなわちダービー1週前の追い切り日となった20日(水曜日)、ブルボンは栗東の坂路を猛然と駆け上がってきました。タイムはその日の全頭でトップ…戸山師はこれも経験上、分かっていたのでしょう。小康状態を保ちたいからと調教量を極端に減らしてしまっては、好走はできるかもしれないけど、勝てない。ダービーはそんな簡単なレースではないのです。そして、戸山師の目標は、ブルボンをダービーに〝出す〟ことではなく、〝勝つ〟ことなのです。

5月19日


 戸山師は、プール調整を挟みつつも、やるべきことはしっかりやらせました。ブルボンは、前出の1週前追い切りの後、24日の日曜日にも31・1秒という破格のタイムを出し、ダービーの週の水曜日(27日)に行われた最終調整でも坂路でしっかり追われます。

坂路ダービー前

 そのうえで、脚元は小康状態を保ちました。ゆるぎのない信念に競馬の神様は微笑み、ブルボンの肉体もそれに応えたのです。やるべきことはやった――ついに大舞台の日を迎えます。

ダービー・馬柱

 ただでさえ血統的には適性外で、陣営も距離の不安を認めています。さらに、皐月賞どころかスプリングステークスの時点で目一杯に仕上げており、脚部不安情報も駆け巡った中でブルボンに重い印をつける記者は多くありませんでした。新聞上の評価は、曲者ぞろいの本紙だからではありません。ここまでではないにしろ、他紙でも印は一冠目を2馬身半差で完勝した馬とは思えないほど薄くなっていました。とはいえ、これといったライバルも登場していなかったので1番人気は確実で、実はここがもうひとつの不安点でもありました。1番人気馬はみんなにマークされますよね。じゃあ、最もマークされやすい位置は? そう、先頭です。距離に不安があるのに、他馬に狙われ、追いかけられる…楽をさせてもらえるわけがないのです。なのに、戸山師は「小細工はしない」と逃げ宣言をしていたのでした。

 だからでしょう。単勝2・3倍、2番人気と3番人気が6倍台というオッズ的に見れば明らかに「1強」だったのに、ミーハーなファン以外はブルボンを信用しきれていませんでした。少し競馬をかじったことがあれば「安心して買える1番人気じゃない」という考えにたどりついてしまうため、勇んで穴馬を探す人もいました。ブルボンの走りに魅力を感じていた人も、「信用しきれない」というのが正直なところ。でも、そんな人たちは、ゲートが開いてすぐに後悔します。

 少しでも体力を温存したいはずなのに、7枠15番というロスのある外枠なのに、ブルボンは構うことなくハナに立ちました。そこに迷いはありません。完全に腹をくくっているのが分かりました。不安ばかりなはずなのに、どうしてそんなことができたのか。それは「やることをやってきたから」でしょう。競馬はやはりスポーツです。例えば五輪で、大会前から結果を期待されていた人がしっかり結果を残したとき、「プレッシャーはありませんでしたか?」と質問され、「できる準備はすべてやってきたから不安はなかった」とコメントすることが多々あります。同じです。大舞台でブレない精神力は「これだけやってきた」という自信が生み出すのです。

ダービー5・1コーナー

 1コーナーを先頭で回り、2コーナーへ向かうブルボン。他馬が積極的に追いかけなかったのはブルボンの覚悟にひるんだのかもしれません。戸山師が馬を信用して仕上げ、小島ジョッキーもブルボンを信用しきっていたからこその覚悟の逃げ。けれんみのないその姿に気圧されたのか、ブルボン以上に練習してきたという自信がなかったのか、圧倒的な1番人気馬が一番前で格好の標的になっているのに、つかまえにいく馬は現れず、レースは淡々と進みます。ブルボンは他の17頭を引き連れ、堂々と直線を向きました。手ごたえは十分。信用しきれなかったことを少しだけ後悔していたファンも、声を枯らして声援を送ります。

「いける!」

 しかし、そんな彼らを不安にさせるものが目に入ってきました。ハロン棒(標識)に書かれた数字です。

「4」――。

 残り400メートル。つまり、既にブルボンは2000メートルを走り終えました。あとは未知なる領域です。

 距離という最大の敵

 常識という壁

「もつのか」

「止まるのか…」

 ブルボンを応援している人も、ブルボンを外して馬券を買っている人も、すべての結果はその脚色にかかっています。16万人の目が1点に集まりました。

「もつのか」

「止まるのか…」

ダービー直線1

 止まりませんでした。小島騎手の叱咤に応えたブルボンは、何とそこから加速します。勝負所。馬が一番キツくなる東京競馬場のこの場所にあるものが何か、名トレーナーは分かっていました。

 上り坂――。

 普通の馬だったらその勾配にたじろぐでしょう。しかし、ブルボンにはそう映らなかった。そう映らない肉体と精神を、戸山師に導かれて培ってきたのです。栗東の坂路に比べれば、なだらかに見えたかもしれないその坂で、ブルボンは他馬を突き放しました。さすがに最後はバテましたが、そこでの加速で作った貯金をもとに、最後は4馬身差をつけてゴールを駆け抜けたのです。

ダービー直線2

 決着がついた時の歓声は「熱狂」という感じではありませんでした。「まあ、勝つでしょ」という予想通りの二冠なら「うおー!!!」となるのですが、ブルボンが克服すべきものの多さを知っていた16万人は、あまりにも壁をあっさり乗り越えた名馬に戸惑ったのです。常識があっさり覆されたことに対する戸惑いでもありました。でも数秒後、それは祝福すべき非常識だと誰もが気付きます。そして、信用しきれなかったぶん、想像を超えるリターンは人々の心に刺さりました。拍手、拍手、拍手。強さと頑張りに感服し、多くの人がブルボンの大ファンになったのです。

ダービー・結果

 翌日の紙面では様々な角度からブルボンの勝利を分析しています。興味深いのは、前日の雨の影響が残った稍重馬場も味方したというもの。ブルボンは重馬場が上手なわけではありませんが、ハードトレーニングでまとった鋼の筋力がパワーの必要な馬場にマッチし、また、そんな馬場に屈しない精神力の面でも他馬と差があったのでは?という記事です。最後の坂もそうですが、やはり苦しい状況で力を発揮できるかどうかは日々の鍛錬に耐えてきたからこそでしょう。そしてその鍛錬は今後も続くことが濃厚となりました。調教師自らスプリンターだと断じている馬が三冠ラスト、距離3000メートルの菊花賞に挑むには、やはりトレーニングが欠かせないのです。

さらなる未知へ

 北海道の牧場で英気を養ったブルボンは、ひと回り大きくなって栗東に戻ってきました。成長期、どんどん増していく筋肉量。戸山師にとっても鍛えがいがあったでしょうが、この頃になると、ブルボンは名伯楽の想像を超えてきます。追い切り日の4本の登坂は変わらないものの、中身がグンと濃くなっていたのです。春は2本目と4本目に速いタイムを出し、1本目と3本目は軽く流してどちらか1本は40秒台になることがほとんどでした。しかし、秋になったブルボンは4本すべてが30秒台。もちろん、その中には他の馬なら目一杯走っても出せないような31秒、32秒が含まれているのです。スパルタで知られる戸山師が「気を付けないとオーバーワークになりかねない」と舌を巻くほど成長を続ける二冠馬は、まず、菊花賞の前哨戦・京都新聞杯に出走します。

京都新聞杯・馬柱

 ◎より記者が自信を持っている黒く塗りつぶされた◎が3つも並んでいるのも当然。ダービー2着のライスシャワーは既に関東の前哨戦を走っていましたが2着に負けていました。他にめぼしい馬もおらず、未対戦組では唯一、神戸新聞杯を勝ってきたキョウエイボーガンという逃げ馬がいましたが、結局、その馬もレースでは出遅れてしまいます。適距離ではありませんから最後はやや脚が上がったものの、芝2200メートルの日本レコードで快勝しました。

京都新聞杯

 2着にはライスシャワーが入ったものの、1馬身半差は決定的に見えましたし、このライス以上の対抗馬は結局、現れなかったので、菊花賞が近づくにつれ、三冠濃厚ムードが高まっていきます。ダメ押しはレース当週の最終追い切りでした。

菊花賞・追い切り

 なんと、坂路が開設されて以来、最も速いタイムを叩きだすのです。スプリンターに3000メートルを克服させるため、最後の最後まで攻めの姿勢を貫いた戸山師は、本紙に改めてこう話しました。

「馬というのは極限まで追いつめて鍛えるもの。余力を残すというのは好きじゃない」

 さらに、こう付け加えます。

「今回の菊花賞のライバルでウチの馬より調教を積んでいるのは見当たらんからなあ」
「本質はスプリンター。ブルボンも3000メートルを走りたいとは思っていないはず。三冠は狙うのは人間の欲ですよ」

 口ぶりからうかがえる自信。記者たちの評価はこうなります。

菊花賞・馬柱

 ライスシャワーの回で指摘しましたが、よ~く考えればおかしいですよね。ダービーであれだけ印が薄くなり、その理由は距離だったのに、さらに距離が延びた菊花賞で印が厚くなっているのですから。もちろん、「3000メートルは長いよなあ」とは思っているんです。でも、ダービーと比べたら疑問を抱く人は多くありせんでした。期待が高まりに高まっており、摩訶不思議な状況に気づけなかったのです。それほど、三冠馬の登場は競馬ファンにとって大きいものでした。1984年のシンボリルドルフ以来、現れていないだけではなく、前年のトウカイテイオーが三冠間違いなしといわれながらケガで離脱してしまったことも影響しています。まさに「今年こそ!」なのです。しかも、ダービー制覇で大いに語られ、知れ渡ったブルボンの〝ストーリー〟が拍車をかけていました。小さな牧場で産まれた二流血統の馬が、スパルタ調教師に鍛えられ、高額のエリートたちを置き去りにする…スポ根漫画のような、日本人が大好きな〝背景〟にも後押しされて、当時の菊花賞における入場レコードである12万人が京都競馬場に詰めかけたのでした。

 単勝オッズは1・5倍。2番人気のライスシャワーが7・3倍でしたから圧倒的です。ゲートが開き、ファンの視線を一身に浴びたブルボンは好スタートを切ります。その外からキョウエイボーガンが猛ダッシュでハナを奪いましたが、これは織り込み済み。逃げなければ持ち味が出ないボーガンは、戦前から逃げ宣言をしていたのです。グングン飛ばしていったので、ブルボンは無理をせず2番手に控えます。すんなりそこに収まりました。あの熱狂の中では収まったように見えました。しかし、実はかなりムキになってボーガンを追いかけようとしていたそうです。2歳暮れの朝日杯以来、ほぼ1年、常に逃げてきた馬にとって、〝自分の前に馬がいる〟状況は思った以上にイレギュラーだったのでしょう。とはいえ、興奮していた人間がそれほど異変に気付かなかったように、見た目にはそこまで折り合いを欠いているようには見えませんでした。だから、最後の4コーナーを前にボーガンに並びかけ、すんなりかわしていったブルボンを見て、観客たちのボルテージは上がりに上がりました。

「いけーーー!」

 地響きのような大歓声。その音量は、4コーナーを回るのと同時に、一瞬だけ下がり、直線を向いたブルボンが他馬を突き放した瞬間、再びアップしました。ファンもひと呼吸おいて、歓喜の瞬間へラストスパートです。久々の三冠馬。叩き上げのスター。努力のヒーロー。歴史的瞬間に立ち会うべく、ゴールに向けてさらにさらにボリュームを上げた歓喜の声の質が、たった5秒後にあれほど変わるとは誰が予想したでしょう。外から黒い影。声に不安がまじります。残り100メートル。ライスシャワーがブルボンに並びかけます。

「やめてくれー!」

 脚色は断然、ライス。並ぶ間もなくかわし、歓喜の歌が悲鳴に変わったところがゴールでした。

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 呆然。愕然。どこにぶつけていいのか分からない感情に、ファンは困惑しました。電光掲示板に「レコード」と表示され、そんなハイレベルな3000メートル戦で2着に入ったブルボンに拍手を送らなければいけないのは分かっています。でも、三冠馬を見たかった…。心の整理がつかないまま、浅い眠りで一晩を過ごした人も多かったと思います。怒りをライスシャワーにぶつける人もいました。「よりによって勝たなくてもいいじゃないか」と。キョウエイボーガンにぶつけた人もいました。「なんでブルボンの邪魔をするんだ」と。逃げ馬なのだから、逃げないと勝負にならないのだから、批判される戦法ではありません。ただ、悔しさをどこにぶつければいいか分からなかったのです。

菊花賞・結果

 心のモヤモヤが晴れたのは、翌日でした。今と違い、レース後のコメントがネットですぐに見られない時代、頼るのはスポーツ紙しかありません。朝刊の競馬欄を開くと、戸山師が「残念だけど、やるだけのことはやったので仕方ない」と潔く負けを認めていました。ファンより悔しいはずなのに…。本紙にはライスの強さと執念もしっかり分析されていました。ブルボンに勝つために、ブルボン並みの練習を重ねていたと聞き、思い浮かべたのはダービーです。誰もブルボンを追いかけなかったあのレースで、突き放されたものの、ブルボンに最も食い下がっていた馬こそライスシャワーでした。

「仕方なかったのか…」

 少し落ち着いた競馬ファンは脳裏で改めてレースを振り返ります。既に新聞で、キョウエイボーガンを追いかけてムキになってしまったことは知っていました。それを踏まえたうえで、もう一度、ブルボンの走りを思い浮かべると、相当キツかったことが分かります。ムキになってスタミナをロスしているのに、ダービーの時以上にマークされていました。ボーガンに並びかける直前、別の馬に外から並びかけられてもいました。そんな状況で、適性外の3000メートルを、残り100メートルまで先頭で走っていたのです。1200メートルがベストの馬が2900メートルまで先頭だったのです。

「スプリンターなのに、すごいじゃないか」

 ゴールした瞬間は頭が真っ白で気づきませんでしたが、よくよく考えればあの2着もただの2着ではありません。ライスにあっさりかわされ、内からマチカネタンホイザに迫られていました。意気消沈して3着に落ちてもやむなしの状況だったのに、ブルボンは歯を食いしばり、最後までマチカネタンホイザに抜かせなかった。その精神力を思い出し、ワナワナと震えたのは私だけではなかったはずです。ダービーで常識を打ち破ったことで我々は忘れていました。ブルボンはそもそも凡馬では越えられない壁を越え、さらにもっともっと高い壁に挑み、見事にそれを越えていたのです。なのに、なのに、俺たちはどうしてもっと祝福してあげなかったんだろう。どうしてもっと拍手を送らなかったのだろう。

「ブルボン…」

「ごめんな…」

「今度は拍手を」

「今度こそ!」

 ファンは誓いました。〝今度〟は間もなくやってきます。戸山師は菊花賞前から明言していたのです。

「勝っても負けても次はジャパンカップ

世界を相手に逃げろ!

 国際GⅠに認定され、レースの格が上がったこの年のジャパンカップにはかつてないほど実力馬が来日しました。イギリスのダービー馬、オーストラリアの年度代表馬、この年の凱旋門賞の2着馬…そんな史上最強レベルの強敵に立ち向かう日本の総大将がブルボンでした。本来ならトウカイテイオーがその役を担うはずでしたが、菊花賞の前週に行われた天皇賞・秋で謎の惨敗を喫しており、ブルボンに国民の期待が集まっていたのです。

 叩き上げのヒーローが、世界を相手に逃げる。

 ダービー馬がダービーと同じ舞台で逃げる。

 これは応援のしがいがあります。送りそびれた拍手を送るのにぴったりです。問題は、適性外の菊花賞を激走した反動や疲れですが、やはりブルボンは並大抵の馬ではありませんでした。これはジャパンカップの週の月曜日に載った本紙の記事。

ジャパンカップ月曜日

 菊花賞後も順調に鍛えられているだけではなく、前日の日曜日には坂路ではない広い練習場で長い距離を走るトレーニングを行っていたこと、さらにその運動量が「普通の馬の倍以上」だと書かれているのです。血統が良くない努力のヒーローが、ハードトレーニングで強くなり、世界の一流馬に一泡吹かす…夢がありますよね。胸が高まります。私もワクワクしました。だからこそ、水曜日の紙面に載ったこの記事は、見出しの通り、本当に無念でした。

ジャパンカップ回避

 火曜日の坂路調教の4本目、乗っていた調教助手が異常に気付いたそうです。診断の結果、肉離れのような症状を起こしていました。さすがのブルボンも出走を回避せざるを得ません。本紙は1面でブルボンの追い切りを速報するはずでしたが、苦肉の策で、同じ戸山厩舎のレガシーワールドを穴馬として紹介しています。

ジャパンカップ1面

 ただ、原稿の1行目はブルボンの故障発生についてでした。それぐらいショッキングな大ニュースに意気消沈した日本の競馬ファンを、日曜日にトウカイテイオーが奇跡の復活で癒やすのですが、今考えると、あの直線がテイオーとブルボンの叩き合いになっていた可能性もあるわけで、重ね重ね残念でなりません。

92年JC

 とはいえ、競走馬にケガはつきもの。テイオーだって骨折から復活しました。幸い、ブルボンは骨には異常がありません。大事をとって有馬記念もパスし、復帰の予定が翌年春だと報じられたことで、ファンはもう一度、前を向きました。ブルボンへ向けるその目は非常に温かかったと記憶しています。推測に過ぎませんが、その理由は2つありました。まず、「今まで頑張ってきたんだから少しは休んでいいよ」といういたわりと感謝の気持ち。そしてもう1つは「ブルボンだって負けるんだ」「ケガをするんだ」「生身のサラブレッドなんだ」「かわいい動物なんだ」という気付きです。いやいや、もっと早く気付けよということなんですが、実は少し前まで、ブルボンにはサイボーグ感が漂っていました。猛調教でまとった鋼の筋肉、精密機械のような逃げっぷり(ダービーのラップタイムが緩急のない一貫したものだったことがレース後に何度も記事になりました)、何より疲れ知らずなところがマシーンのようだったからです。これこそウマ娘におけるブルボンの元ネタで、その完璧さゆえ、近寄りがたい存在でもあったのですが、菊花賞の敗戦と故障により、ファンはブルボンがロボットではない、生身の動物なんだと気づき、親しみを感じ始めました。だからこそ苦しい状況からの復活を心の底から応援しようという気になっていたのです。

「かえってこいよ!」

「待ってるからな!」

 ファン以上にブルボンの復活を待望していたのは戸山師でしょう。サラブレッドが完成されるという4歳。今度はどんなトレーニングで強くしようか…。慎重に慎重に、運動を再開させたといいます。でも、残念ながら翌年1月末、ブルボンは骨膜炎を発症。さらに4月になり、放牧先の牧場で骨折していることが判明します。

4月骨折

 戸山師が病でこの世を去ったのは翌月でした。調教師が亡くなったことで所属厩舎が変わったブルボンも、結局、脚部不安は癒えず、ターフに戻ってくることはありませんでした。〝だから〟という表現が正しいかは分かりませんが、ブルボンにとっての〝先生〟は最後の最後まで戸山師だった…ということになるのでしょう。そうさせてください。ファンにとっても、やっぱりこの組み合わせは永遠です。

 戸山為夫+坂路+ミホノブルボン

 この計算式の答えは

 =常識は覆せる

 当時の競馬ファンがもらった大きな大きな宝物。ただし、それには条件があることも彼らは教えてくれました。

 挑まなければ常識は覆せない――。

 越えようとしなければ、その上までジャンプできるようにはならないのです。ブルボンが早々に短距離路線にシフトしていたら、もっとGⅠを勝っていたでしょう。でも、だとしたらここまで記憶に残る名馬にはなっていません。私たちがどうして競馬に、スポーツに惹かれるか。それはサラブレッドやスポーツ選手が、私たちの常識を超えてくるからです。常識なんてクソくらえ!と言いつつも、私たちが日々、常識的な枠内で生きざるを得ないからこそ、時にはその枠を打ち破る姿を見たくて、競馬を、今で言えば五輪を、そして大谷翔平を見続けるのでしょう。適材適所が確立しつつある昨今の競馬に第二のブルボンが登場する可能性が低くなっていることを寂しく感じつつ、オジサンは今日も競馬を、スポーツを追いかけます。

ダービーレース後


 ちなみに、ブルボンが無念の回避をしたジャパンカップ。翌年、そのレースを制したのは、戸山師が鍛えに鍛えたレガシーワールドでした。やはり練習はウソをつかないのです。

レガシーワールド・ジャパンカップ


おまけ1 血の不思議と奇跡

 血統が良いほど強い馬が産まれる可能性は高まりますから、〝走る血〟を求めるのが競走馬生産界の常識。当然、人気の種牡馬は種付料が高くなるため、零細牧場にとっては「手が出せない」ことが少なくありません。そうした場合、血の方向性が似ていて、少しランクの落ちる種牡馬を選ぶことが多いのですが、ブルボンがまさにそうでした。おばあちゃんにはダンディルートという馬を配合しようとしたものの値段的に断念。で、その娘、つまりブルボンの母にはミルジョージを配合しようとしたのですが、これまた経済的な理由でマグニテュードになりました。そう考えるとブルボンの配合自体が奇跡であり、二冠を達成した事実も生産界の常識をはるかに超えています。このような〝大当たり〟があるからこそサラブレッドの生産には魅力があるのでしょうが、その逆もあるのですからギャンブル的な要素があるとも言えるでしょう。

 なお、戸山師がブルボンに目を付けた理由には「初仔」だったことも関係していました。

「私は繁殖牝馬の初仔が走るという信念を持っている。いわば繁殖馬は土地と同じ。最初は栄養素をたくさん含んでいるが、使えば使うほど減ってしまう」

 ブルボンが初仔ではなかったら、名伯楽との出会いはなかった可能性もあります。ここもまたミラクルな縁なのかもしれません。

おまけ2 坂路

 戸山師が多用した栗東の坂路は、本文で触れたようにもともと劣勢を強いられていた関西調教馬を関東調教馬に負けないようにするため、1985年に造られたものでした。当初は利用する調教師は少なかったのですが、効果が表れはじめると追随する人(馬)が増え、見る見る関西馬は強くなっていきます。その効果はすさまじく、88年に東西の年間勝利数が並ぶと、翌89年には一気に200勝も関西馬の方が多くなりました。ブルボンが二冠に輝いた92年が最も差が開いた年で、その差は約700勝! 同年、関東の拠点・美浦トレーニングセンターにも坂路ができますが、この〝西高東低〟はいまだに続いているからビックリです。一時は関東にも坂路ができたので差は縮まったのですが、様々な要因もあり、再び差は拡大してしまいました。関西の坂路の方が高低差が大きいなど、負荷がかけやすいこともあり、現在、美浦トレセンの坂路は改修工事が行われています。

おまけ3 キョウエイボーガンのその後

 菊花賞で逃げたことにより、非難もされたキョウエイボーガンは、次走の1600メートル戦(ポートアイランドステークス)で先行して2着に入っています。スピードのある馬だったからこそ、中距離以上では逃げていたのかもしれませんね。その後、走ったのは3戦のみで、脚部不安のため引退。種牡馬になれるような成績と血統ではなかったため、このような場合は行方知れずになってしまうことも少なくないのですが、なんとファンの方が引き取りました。今はナイスネイチャの回でもお話ししたNPO法人引退馬協会の支援のもと、静かな余生を送っています。

キョウエイボーガン神戸新聞杯1

おまけ4 あの五輪で何があった?


 せっかくなので、ブルボンが二冠を達成した92年のバルセロナ五輪も振り返ってみましょう。何があったか思い出せますか?

岩崎恭子

 14歳の岩崎恭子選手が「今まで生きてきた中で、一番幸せです」

吉田秀彦

古賀稔

 柔道では吉田秀彦選手と古賀稔彦選手が金

男女マラソン有森山下中山谷口森下

 これはマラソンの日本代表。右端の森下広一選手が銀メダルで、その隣、谷口浩美選手のレース後のコメント「コケちゃいました」も印象的でした。左端の有森裕子選手は銀メダル。「自分で自分を褒めたい」と言ったのはこの次の五輪です(左から2人目の山下佐知子選手と真ん中の中山竹通選手はともに4位)。こうやって思い出してみると懐かしいですよね。

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