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僕の野球人生はラッキーがいっぱいだった、プロ入りも19奪三振も…【野田浩司連載#12・最終回】

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引退登板のため肩を作っていたら涙が…

 1999年のオフに僕はアリゾナのマリナーズのルーキーリーグに野球留学した。目的は右ヒジのリハビリだったんですが、向こうのコーチの教えが気に入って2週間の予定を1か月に延ばしたんです。投手コーチの指導がすごく面白くて、延長させてくれ、と球団に連絡しました。そこからはコーチも雇わないといけないですから自費ですよ。結局、アリゾナのフェニックスに1か月いたんです。おかげで翌年はオープン戦から調子がよくてねえ…。ヒジの状態もよくなってきていた。

 でも途中からまたおかしくなった。休まないと投げられないようになって…。最後の年は一回も一軍に上がれなくて、夏くらいには僕も「若い選手にチャンスをあげてください」と二軍の首脳陣に言っていました。

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愛娘から花束を渡され涙が止まらなかった

 僕は93~97年の5年間、ローテーションを一度も外れていなかった。あの当時のローテの一角を担っていたということで二軍のコーチもすごく気を使ってくれたんです。新井宏昌二軍監督、池内豊二軍投手コーチとか。投げないと一軍に上がれないだろうから調子のいい時に言ってくれよ、ってね。全部僕に合わせてくれて…。気を使ってもらって…。そんなのも申し訳なくてね。

 自分の中では引退を決めた。前年に僕の引退を“撤回”させた2人のおじさんも納得してくれましたよ。最後までもがき、苦しむ姿を見てくれていましたからね。二軍の試合も見てくれた。ヨソのチームに移っても無理、と思ったんでしょう。

 その2人のおじさんは焼き肉店と理容院の社長で、僕が阪神時代から投げる試合をずっと見に来てくれていた人です。年はだいぶ上だけど、友人であり、先輩であり、いろんな助言をしてくれた人でしたからね。

オリックス×西武、野田浩司引退セレモニー、娘を抱きナインと握手する野田浩司

ナインと握手する野田浩司

 現役最終試合は2000年の10月13日。最初は打者1人か1イニングを投げようという話になっていたんです。ところが、まだ順位が決まっていなくて選手の個人タイトルもかかっていた。だから仰木彬監督(故人)に「遠慮してほしい。申し訳ないけど始球式だけにしてくれんか」と言われて始球式とその後のあいさつになったんです。

 ブルペンで始球式用に肩を作っていたら涙が止まらなかった。満足感より悔しさが強かった。何でもう一回、ここに帰って来れなかったんだ、というふがいなさというか…。僕が野球で泣いたのは95年の震災を乗り越えての優勝の時、そしてこの引退の時の2回です。

野田浩司引退(00年10月、GS神戸)

引退セレモニーで声援にこたえる野田(00年10月、GS神戸)

 最後の3年間はすごく勉強になりました。それまでは二軍の選手を「なんでできないんや」という目で見ていましたもん。僕には一軍にいて当たり前、野球は一軍しかない、というような感覚があった。実際に二軍の若い子と接していると、その子なりに壁にぶち当たったりしている。個人差はある。野球のいいところだけしか知らずに終わるんじゃなくてよかったと思っていますよ。

 04年に投手コーチで復帰。これがまた大変で…。

伊原オリックスのコーチ時代に合併騒動が

 2000年に引退し、解説者やアマチュアの指導をする一方で、イベント出演の仕事も精力的にこなしていきました。岡田彰布さんが阪神の二軍監督をやられていた時に「帰ってこい」と言われても「やりたいことがいっぱいあるんで申し訳ないですけど…」って断ったんです。当時、知り合いの会社と講演やイベント出演の年間契約を結んでいて、予定が決まっていたから…。そういう活動に張り切っていたんですね。

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