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「ウマ娘」のトリックスター!セイウンスカイの幻惑逃亡劇を「東スポ」で振り返る

「ウマ娘」では、いつもフワフワ、やる気が行方不明なのんびり娘。黄金世代の中で独特の存在感を放つのがセイウンスカイです。「にゃははっ」とかわいく笑いながらトレーナーを手玉にとったり、スペちゃん(スペシャルウィーク)を策で翻弄したりするので、トリックスターとも呼ばれているのですが、実力は本物で、何よりその走りはファンにとって最高のエンターテインメントでした。雲のように自由で変幻自在な逃げっぷりを「東スポ」で振り返りましょう。(文化部資料室・山崎正義)

3強の春

 セイウンスカイだって、最初からトリックスターだったわけじゃありません(苦笑)。結果的にそういうような勝ち方をするようになるのですが、まずはそこに至る過程、すなわち3歳春をおさらいしてみましょう。デビューは年が明けた1月5日。そこから連勝、しかも6馬身差→5馬身差の圧勝だったのにもかかわらず、それぞれのレースの人気は5→3でした。新馬戦の印なんてこんな感じです。

 評価が低い理由は血統。お父さんのシェリフズスターは、セイウンスカイが生まれた西山牧場がイギリスから輸入した期待の種牡馬だったんですが、産駒がまったく結果を残せていなかったのです。セイウンスカイは売れ残り、入厩先もなかなか決まらず、牧場オーナーと縁があった美浦トレセンの新米調教師が引き取ります。「ウマ娘」のセイウンスカイが自分のことを「期待されてなかったコだし」と卑下するのは、こういう背景があるのですが、サラブレッドというのは分からないものです。レース途中から先頭に立ったデビュー戦をぶっちぎると、2戦目に選んだオープン競走のジュニアカップ(現在と違い2000メートル戦)も逃げ切ってしまいました。

「なんだなんだ」

「血統は地味だけど」

「なかなかやるじゃないか」

 そんな声の中、向かったのは皐月賞トライアルの弥生賞

 待ち構えていたのは後にともに黄金世代と呼ばれ、その中でもクラシック3強という位置づけになるライバル、スペシャルウィークキングヘイローでした。前者はサンデーサイレンス産駒で武豊ジョッキーから既にお墨付きをもらっていたダービー候補。後者は、アメリカのGⅠを7勝した名牝を母に持ち、天才ジョッキーを父に持つ3年目の福永祐一騎手を背にしたプリンス候補。もう、文章で説明しただけでキラキラしていますよね。だから派手なぶっちぎりの2連勝を飾っていたものの、セイウンスカイは3番人気にとどまりました。キングが2・1倍、スペシャル2・8倍。2頭に次ぐ4・4倍という立場で、軽快に逃げ足を伸ばします。直線を向いて突き放したときに2番手グループにつけていた差は5~6馬身はあったでしょうか。残り100メートルでも追い込んできたスペシャルとの差は普通ならセーフティーリードの3~4馬身。セイウンスカイも全く止まってはいません。でも、その差をスペシャルはあっさり逆転するのです。最後は手綱を押さえる余裕を見せて…。

 誰の目から見ても力の差は明らかだったので、続く皐月賞でのスペシャルとセイウンスカイの単勝オッズは1・8倍VS5・4倍と開きます。「勝負付けは済んだ」というファン心理がしっかり反映されていたのですが、セイウンスカイ陣営は全くファイティングポーズを崩していませんでした。まず、オーナーサイドはクラシック制覇の千載一遇のチャンスを逃したくないと、乗り替わりを決断します。ここまで手綱を取っていた徳吉孝士騎手からバトンを受けたのは、メジロライアンやサクラローレルなどでGⅠをいくつも勝ち、3年前には関東のリーディングジョッキーにも輝いていた横山典弘騎手。大一番での思い切った騎乗にも定評がある名手で、私に言わせればこの人こそ天才ですし、今思えばこのときの人選には本当に拍手を送りたいのですが、当時はまだ私もファンもこのコンビの素晴らしさに気づいていませんでした。一方で、もうひとつ、セイウンスカイ陣営を強気にさせていたのが馬の状態です。皐月書ウイークの本紙には前任者・徳吉ジョッキーのこんなコメントが載っていました。

「弥生賞の時、レース後にユタカさんがボクに言ったんです。『並ぶ間もなかっただろ?』ってね。こっちは完全に逃げ切れる競馬。ユタカさんのあの言葉は〝本番ももらった〟という感じに聞こえた。でも、今度もそうなるとは限りませんよ。確かにスペシャルは強い。強いけどセイウンもまだ強くなる。ソエを気にしていた前回より状態はいいはず」

 ソエとは若駒特有の骨膜炎。これが出ると調整を加減せざるを得ないのですが、弥生賞後に収まったというのです(アニメ「ウマ娘」では弥生賞前にセイウンスカイが「なんか調子悪いんだよねー」と口にする場面があります)。専属の調教助手さんはこう話していました。

「前走とは雲泥の差だね。今はソエも解消したし、デビュー以来、一番のデキ」

 この方、大好きなパチンコを断ち、セイウンスカイの調整に全精力を注いでいるとも書いてあります。保田調教師だって怪気炎です。

「前走は4コーナーでカラスを見て驚いたんだ。それで走りのリズムを崩した。今度は見てろ、だよ」

 なんだか「ウマ娘」のセイウンスカイとは異なる気合の入り方ですが、パートナーは似ていました。横山ジョッキーはこう記者に問いかけたといいます。

「武豊ばかりじゃ面白くないだろ?」

 デビュー時から天才天才と言われ、2年目で関西リーディングを獲得し、オグリキャップに奇跡の復活をもたらし、爆発的な人気を博していたアイドルジョッキーであり、前年まで6年連続で全国リーディングを獲得していた押しも押されぬ日本のトップジョッキーは横山騎手の1歳年下でした。この年も絶好調で、前週の桜花賞では、それこそセイウンスカイのような若手からの乗り替わりで勝利を収めていましたから、立ち位置も似ており、思うところがあったのでしょう。武騎手同様、横山騎手だって父は名ジョッキー。ずいぶん差が開いているように見えるけど、腕じゃ負けない…そういう気持ちを前面に押し出さず、上記のような言葉でクールに決めるのが横山騎手らしくてカッコよく、セイウンスカイっぽくもあるんですが、正直、ファンの中にも同じように思っている人もいました。

「武豊ばかりじゃ面白くない」

 はい、少なくないお金が動く競馬には、いい馬が名手に集まります。サンデーサイレンス産駒をはじめとした良血が集まってきます。それを見事に操る武ジョッキーもすごいですし、そのスマートで鮮やかな勝ち方は美しくもありました。でも、そんなレースばかりの状況が何年も続いていたのを、「なんだかな~」という目で見ていたファンもいたのです。良血と天才ばかりが勝つと、なんだか虚しくなってくるのです。

「けっ」

「勝ち組ばかりいい思いをしやがって」

「それじゃ現実社会と同じじゃないか」

「競馬までそれじゃ嫌になる」

 ただ、口にはしませんし、だから「武豊を買わないんだ!」とも言えません。恥ずかしいし、なんだか嫉妬してるみたいですから。いや、実際、嫉妬してたんですが、ここで「なにくそー」とか言ってセイウンスカイを応援するのも、なんだかちょっとカッコ悪い気もして、で、「なんだかな~」なわけで、だから横山ジョッキーのちょっと気合を入れ過ぎないようなスタンスは嫌いじゃなくて、レース前に「逃げるかどうかは分からない」なんていう意味深なコメントも好きで…と、ひそかに期待しながら競馬場に向かったセイウンスカイ派は、場内の雰囲気に「来るんじゃなかった」とも思いました(泣)。ムードが、〝スペシャル断然〟なんです。スター誕生を待ちわびているような空気が充満していたんです。それぐらい弥生賞のインパクトが強かったのですが、ひねくれた男(私です)はいじけていました。

「けっ」

「はいはい」

「どうせ勝つんでしょ」

 だから、内から好スタートを切って、強気に逃げた馬をいかせて2番手に収まったセイウンスカイと横山ジョッキーを見ても「ふーん」といった感じでした。すぐ後ろに先行策をとったキングヘイローがつけています。スペシャルは弥生賞と同じく後方から。サンデーサイレンス産駒らしい瞬発力を見せつけてやりますよ的な堂々たる位置取りでした。

「どうせ伸びてくるんだろ」

「セイウンスカイもどこまで頑張れるかね」

 4コーナー手前、脚色が鈍った逃げ馬に並びかけ、かわしていくセイウンスカイ。ぴったりついてくるキングヘイローの手ごたえは絶好で、その後ろから外を回ってスペシャルが上がってくるのが見えました。

「スペシャルだけじゃなくキングまで」

「良血2頭…」

「そろいもそろって」

「どうせくるんだろ」

「差してくるんだろ」

「どうせ…」

「どうせ…」

「その…」

「そのまま!」

 思わず声が出たゴール前。追いつかれそうで追いつかれず、差されそうで差されず、セイウンスカイは真っ先にゴールに飛び込んだのです。

「これだ…」

「これだよ…」

「だから言ったじゃん」

「だから競馬は面白いんだよ」

 いじけてたのにコレですからファンというのは勝手ですが、いずれにしても、既に父親が種牡馬失格の烙印を押されているような血統の馬が、良血馬を向こうに回し、大本命馬を打ち負かすのだから競馬はやめられません。もちろん、気合を入れてびっちり仕上げた陣営と、完璧に乗った横山ジョッキーのおかげなのですが、久しぶりにスカッとしたというか、胸のすく思いでした。スペシャルやキングのアンチじゃないんです。武豊ジョッキーのアンチでもありません。優等生を勝手に敵に仕立てて、勝手に盛り上がっている勝手なファンなんです。許してください。自分の身を勝手に投影できるのが競馬なんです。

「たまにはいいじゃん」

「たまにはこういうことがあったって」

 多くは望みません。毎回じゃなくていい。時々、こういう逆転劇を見せてほしい。現実社会じゃ起こりづらいからこそ、たまにでいいから見せてほしい…。こう願う競馬ファンは知っています。「たまに」なんですから、続かないってことも。現実社会と同じく、こんなこと、2回も続かないって知っていました。最後の最後、本当に大事なところは主人公が持っていくことも。だから、フロックじゃないことを伝える記事を見ても…

 ダービーの週の追い切りが絶好でも…

 記者から重い印がついていても…

 分かっていました、1番人気にならないのは。皐月賞を勝っているのに、2着のキングヘイローに及ばない4・9倍の3番人気。

「皐月賞の勝因は内の馬場が極端に良かったから」

「血統的には距離延長が歓迎にも見えない」

 そんな不安点以上に、ひしひしと感じるスペシャルとの〝主人公感〟の差。クラシックの最高峰、競馬の頂点とも言えるダービーを勝ってほしいという願いを最も集めたのは、「そうなるよな」のスペシャルウィーク。単勝オッズは2・0倍でした。実際にセイウンスカイが勝っているのに、皐月賞時(1・8倍VS5・4倍)と立ち位置はあまり変わっておらず、主人公はやっぱりスペシャルでした。

「どうせ」

「くるんだろ」

「差してくるんだろ」

 そう思いつつも、予想外に逃げることになったキングヘイローの2番手から、絶好の手ごたえで先頭に立ったセイウンスカイを見て、かすかに希望を抱いて買った単勝馬券を私は握りしめました。

「いける…」

「いけるのか…」

「その…」

 と口に出し、「まま!」と続ける前に、セイウンスカイのすぐ横をすごい脚でかわしていく馬がいました。

 スペシャルウィーク

 武豊、悲願のダービー制覇

「できすぎだ」

「できすぎだよ…」

 そうつぶやいた、下ばかり見ていた男の話はここまでです。何と、脇役に見えたセイウンスカイは、秋になり、いじけたクソ野郎に上を向かせ、狂喜乱舞させる、めちゃくちゃ魅力的な馬に成長します。そう、「にゃははっ」と笑いたくなるぐらいの。

1998年10月11日

 ダービーのレース後、セイウンスカイ陣営はサバサバしていました。私のように、「どうせ主人公はスペシャルだから」とあきらめたわけではありません。正攻法の競馬をして、先行馬に不利な長い直線で早々にスペシャルにかわされた後も止まらなかった4着に手ごたえを感じていたのです。「最後まで伸びているんだけどね。今日は仕方ない」と話した横山ジョッキーの横で、保田調教師は気合を入れ直していました。

「馬はまだ子供の部分が残っているし、ひと夏越してさらによくなってくるはずです」

 というわけで、北海道にあるオーナーの生産牧場で英気を養いつつ、しっかりと成長を促されたセイウンスカイは、美浦トレセンに帰厩後も順調にトレーニングを重ね、菊花賞を目指します。前哨戦に選んだのは古馬との混合戦・京都大賞典(GⅡ)。翌週には同世代とのトライアル・京都新聞杯があったのですが、実はセイウンスカイは春からゲートに入るのを嫌がるようになっており、京都新聞杯でゲートになかなか入らず再審査を課されてしまうと日程的に菊花賞出走が危うくなるから…という理由もあったそうですが、当時のメディアではそれは大きく報じられておらず、ファンからすると「おいおい、ずいぶん強いメンバーにぶつけてきたな」という感じでした。だって、見てください、このメンバーを。

 この年の天皇賞・春を勝ったメジロブライトに、その天皇賞の2着で、宝塚記念でも2着に入っていたステイゴールド、さらには前年の有馬記念の覇者・シルクジャスティス。セイウンスカイにあまり印がついていないのも納得の〝古馬王道路線の中心メンバー〟で、人気もこの3頭につぐ4番人気(6・0倍)。

「さすがに相手が強いか」

「どこまで頑張れるか」

 私だけではなく誰もがそんなふうに感じつつ、スタートを待っていたのですが、実はあの日はその前にビッグイベントが控えていました。京都大賞典発走の5分前、東京競馬場で今でも語り継がれるレースのファンファーレが鳴ります。せっかくなので馬柱を載せましょう。

 はい、あのサイレンススズカに、グラスワンダーエルコンドルパサーが挑んだ伝説の毎日王冠です。セイウンスカイと同級生ながら外国産馬だったグラスとエルコンドルはクラシックに出られなかったので別路線。前年、はちゃめちゃな強さで2歳王者となった後、ケガで春はお休みしていたグラスと、その春のNHKマイルカップを無敗で制したエルコンドル。そんな若き化け物の前に、この年本格化し、圧倒的にスピードで逃げまくり、破竹の5連勝で宝塚記念を制していたサイレンスズカが立ちはだかる奇跡のマッチアップが実現していました。強い後輩が相手だからといってペースを落として体力を温存しようとせず、いつも以上のハイラップで飛ばしていくスズカに、東京競馬場に集まったGⅠ級の大観衆が沸きます。そして、グラスが息切れし、食い下がったエルコンドルが影さえ踏めなかったその爆発的なスピードの余韻に浸る私たちの前で、京都大賞典のファンファーレが鳴りました。ゲートが開き、誰がいくのか、やや探り合いとなる中、セイウンスカイが「じゃ、俺が」とばかり先頭に立ちます。「逃げますよ!」という気合満点のスズカとは違う、「逃げちゃいますか」といった感じでした。だから驚いたんです。スタンド前を通過しながら徐々にスピードを上げ、1コーナーを回りながらさらにスピードを上げていったセイウンスカイが、後続に10馬身ぐらいの差をつけたことに。

「なんだなんだ」

「引っかかったちゃったか?」

 ちょっと心配。でも、実はみ~んなテンションが上がっちゃいました。スズカの興奮が冷めやらぬ中、今度は別の逃亡劇が始まったのですから。

「こっちも大逃げか?」

「おい…」

「おいおい…」

 2コーナーに向かう時点で15馬身!

 向こう正面に入るころには20馬身!

「こっちの方がヤバイだろ!」

 自らのスピードを活かし、精密機械のように常に4~5馬身差をつけつつ、最後まで逃げ切ったスズカとは違う派手な逃げっぷりに、ざわめきは、歓声に変わっていきました。

「いけいけ」

「もっといけーー!」

 私も含め、おかしなテンションになっている人も多かったです(苦笑)。スズカのおかげで、既に〝逃げのアドレナリン〟が出まくっていたんでしょうね。まさか〝逃げのおかわり〟があるとは思っていませんでしたから、もう異様なハイテンション。ランナーズハイではなく、逃げ馬ハイ。なんだか愉快で仕方なかったんですが、気が付くと、徐々にリードは縮まっていました。

「あれ?」

「なんだなんだ」

 あんなに離していたのに、3コーナーを回るころには3馬身、2馬身…。

「おいおい」

「やっぱり引っかかってたのか?」

「飛ばしすぎだったのか?」

「ガソリン切れだ!」

 はい、誰もが覚悟しました、一気に後続に飲み込まれることを。後ろから迫っていく人馬も確信したでしょう。「さあ、どいてもらおうか」とばかり勢いよく芦毛に迫っていきます。

「ダメか」

「終わりか」

 ウキウキしていた逃げ馬ファンも我に返りました。長年、競馬をやっていれば分かります。大逃げをかました馬の典型的なガソリン切れ。ツインターボ師匠がそうでした。

「バテちゃった?」

「うん、バテちゃってるみたい…」

「止まるか」

「うん、バッタリ…」

 あきらめて目を覆ったファン。後続に目を移したファン。しかし、我々は信じられない光景を目にします。どう見ても馬群に飲み込まれるようにしか見えなかったセイウンスカイが、直線を向いて後続を突き放したのです

「へ?」

「は?」

「ええええ?」

 加速していました。

 バテはずの馬が!

 馬群に飲み込まれるはずの逃げ馬が!

「なんで」

「なんで…」

「なんなんだ!」

 おそらく、後続の人馬も驚いたでしょう。いくら追っても、バテていたはずの馬、止まるはずの馬に追いつかないのです。混乱していたファンはいつの間にか声を出していました。見たことのない光景に引き込まれていたのです。

「そのまま」

「そのまま!」

「そのままーー!」

 1番人気のメジロブライトをクビ差しのいでゴールに飛び込んだセイウンスカイ。その3秒後、声を出していたファンは隣にいた仲間と顔を見合わせました。

「何これ」

「なんで?」

「どうなってるの?」

 あの〝キツネにつままれた感〟を私は一生忘れません。

「化かされた?」

「俺たちは化かされたのか?」

 いやいや、キツネじゃなくてウマですからね。ちゃ~んとトリックはありました。その後、競馬場に流れるリプレーを見て、私もなんとなくは分かりましたが、横山騎手は、大逃げの後、しっかりとペースを落とし、体力を温存していたのです。だからこそ後続との差は縮まったのですが、そのおかげで再加速することができたんですね。まずは数字で証明しましょう。以下、200メートルごとのラップタイムです。

13・4-11・0-11・2-12・0-12・2-12・3-13・0-13・5―12・2-12・2-11・1―11・5

 中盤過ぎの13秒台のところで息を入れ、体力を温存し、直線で再加速しているのがよ~く分かりますし、理屈も分かりますよね? サイレンススズカのような圧倒的なスピードを持っていない普通の逃げ馬が勝つには、確かにこのように途中でペースを落とすのが重要なんですが、このときのセイウンスカイの逃げはその緩急が極端でした。ツインターボの回でも使いましたが、レースに10頭の馬が出走していたとして、普通の逃げ馬を「普」、セイウンスカイを「セ」、他馬を「他」として、レース中の10頭の間隔を文字で表してみましょう。上から順に「スタート直後」「前半から中盤」「3~4コーナー」「最後の直線」だと思ってください。

まずは普通の逃げ馬。

←普 他他他 他他他 他他 他

←普   他他他 他他他 他他 他

←普  他他他 他他他 他他 他

←普 他他他 他他他 他他 他

 続いてセイウンスカイ。

←セ  他他他 他他他 他他 他

←セ        他他他 他他他 他他 他

←セ他他他 他他他 他他 他

←セ 他他他 他他他 他他 他

 伝わるでしょうか。3列目でバテているように見えて、こうです。

「にゃははっ」

「な~んちゃって」

「バテてないよ~ん」

 まさに変幻自在。あまりの緩急に後続が戸惑い、バテてるようにしか見えない失速にだまされるのも納得で、トリックと言ったらトリックかもしれませんし、「ウマ娘」のキャッチフレーズのようにセイウンスカイは「トリックスター」かもしれません。でも、このトリックをやるには、馬の力と人馬の呼吸、さらにジョッキーの腕が求められます。たくましく成長したセイウンスカイと皐月賞から絆を深めてきた天才・横山典弘ジョッキーだからこそできた、まさにこのコンビにしかできない唯一無二の逃げ切り。その芸術作品を、武豊ジョッキーがサイレンススズカの絶対的なスピード能力を生かし切った、これまたそのコンビにしかできない逃げ切りの直後にサラリと見せつけるのですから、もうカッコよすぎました。そして、競馬が面白すぎました。私は1998年10月11日を勝手にこう読んでいます。

 逃げ切り記念日――

 さあ、菊花賞です。

菊花賞

 古馬を幻惑したセイウンスカイは勇躍、菊花賞に向かいます。休み明けをひと叩きして、状態はさらに上がっていきました。京都大賞典で、陣営が不安視していたようにゲートになかなか入らなかったため、ゲート練習をしっかり積みつつ、最終追い切りは絶好の動き。

 ライバルはもちろんダービーで完敗しているスペシャルウィークなのですが、印の付き方はこうです。

 はい、かなりの差があります。それはスペシャルが順調に夏を越し、前哨戦の京都新聞杯を快勝していたこと。しかも、今までのように後ろからいきつつも、3~4コーナーで先団にとりつく自在性を見せていたことも関係しています。スキがなくなっていたのです。一方で、古馬王道路線で上位人気になるような馬をやっつけたのに、セイウンスカイに対する競馬記者の評価がそこまで上がってこなかった理由は、まさにその京都大賞典のレースぶりにありました。歴史に残る逃げ切りは

 幻惑

 であり、

 トリック

 に映ります。だからこそ「実力以上のものが発揮されたのでは?」という見方もでき、その力を過小評価するきらいがあったのです。止まってはいないもののダービーで4着に敗れ、夏には一時、「秋は菊花賞ではなく2000メートルの天皇賞・秋」という噂も出たほどで、実は距離を不安視する声もありました。京都大賞典は2400メートルですから、その不安をかき消したようにも見えますが、やはり「トリックでごまかした」ようにも見えます。確かに、あのレースは、中盤で体力をかなり温存しており、「実質2000メートルの競馬だった」なんて意見もありました。つまり、菊花賞の3000メートルを乗り切れる保証はないというわけです。そしてもうひとつ、最大の懸念事項がありました。

 菊花賞は逃げ切れない――

 1959年以来、実に40年近く、菊花賞を逃げ切った馬はいなかったのです。しかも、逃げたとしても、その戦法はバレています。武豊ジョッキーがそうやすやすと逃がしてくれると思えない。なんなら本番でセイウンスカイにいいようにやられないよう、前哨戦で途中から動く〝練習〟をしていたような気も…。

「どう乗るんだろう」

「さすがに控えるのだろうか」

「行きたい馬がいたら行かせる可能性もありそうだな」

 そう思っていたからこそ、少々驚きました。好スタートを切ったセイウンスカイと横山ジョッキーは、逃げようとしていた馬を制して、積極的にハナを切ったのです。しかも、スタミナ不安のことなんて「知りませんよ~」とばかり、軽快に飛ばしていきます。1周目のスタンド前で2番手には3~4馬身。さらにその2番手と3番手の差が、3~4馬身。それぐらい差がつくのですから、私が見ても「結構速いペースでいってそうだな」と思いましたし、武豊ジョッキーをはじめとした名手たちも同じように感じたでしょう。

「深追いしない方がいいな」

「先は長いし」

「じっくりいこう」

 スピードを上げたまま1コーナーに入っていくセイウンスカイを見て、さらにその意を強くしたであろう後続。菊花賞で逃げ切るのは至難の業だというのも頭にあったでしょうか、各馬、自分の折り合いを重視し、ひとまず、今いるポジションに収まりました。

「よしよし」

「このままじっくり」

「パワーをためよう」

 どの馬もこう思ったはずです。しかし、この時点でどの馬もすでにセイウンスカイと横山ジョッキーの術中にはまっていました。

 罠でした。

 トリックだったんです。

 最初に飛ばしたのは事実。

 実際、ペースも速かった。

 しかし、速くなるぞと主張しておいて

 各馬の動きが止まったのを見て

 1コーナーを回りながら、グンと横山ジョッキーはペースを落としました。

「コーナーだからスピードも落ちるよな」

 そう思わせておいて、安心した後続が「じゃ、俺たちも」となったのを見て、さらにペースを落としたんですが、既に〝ひと休みモード〟になっている後続は気づきません。それを証拠にペースが落ちているのに、差は縮まりませんでした。2コーナー、しっかりついてきた2番手との差は3馬身ほどのままでしたが、その2番手と3番手の間には5馬身ぐらいの差がついていました。つまり、中団に控えていたスペシャルウィークからは10馬身以上前にいる形。

「これ…」

「意外と…」

「大逃げっぽくなってない?」

 ファンがざわつき始めます。

「おいおい…」

「大丈夫なのかよ」

「そんなに飛ばして!」

 はい、私たちも完全にだまされていました(苦笑)。それぐらい飛ばしているように見えた。ツインターボみたいにダッシュしつつの大逃げに見えたのですが、真逆だったんです。セイウンスカイはし~っかり息を入れつつ、力を温存していたのです。前走で古馬相手に〝お試し〟したあの逃げを、緩と急の差がありまくる変幻自在のトリックをこの大一番で、すました顔で、しれっとやってのけたのです。

 勝負あり

 してやったり

 ペロっと舌を出していたかもしれません。ウマ娘的に言えば「にゃははっ」と笑っていたかもしれません。あのとき、セイウンスカイと横山ジョッキーは完全にこのレースを支配していました。1998年の菊花賞は既にこの人馬の手のひらの上。3コーナーの頂上に向かう上り坂、普通はペースが落ちる頂上手前でひそかにペースを上げ、2番手との差をさらに広げちゃいます。

「おいおい」

「大丈夫なのか?」

「まだ飛ばすのか?」

 まだどころか、やっと飛ばし始めたことにも気づかず、だまされたことにも気づかず、ファンは、私は、まだ心配していました(苦笑)。そんな中、坂を下りながらセイウンスカイは一気にペースを上げます。

「京都の坂はゆっくり下らないといけないんだぞ」

「菊花賞は逃げ切れないんだぞ」

「それじゃ最後にバテるって!」

 いやはや、本当に心配したんですよ。でも、セイウンスカイの脚色はまったく衰えません。

「にゃははっ」

「にゃはははー」

 絶好の手ごたえで4コーナーを軽快に回っていきます。後方では「しまった!」とばかりにスペシャルが焦って上がっていこうとしていましたが、もう手遅れです。

「にゃははっ」

「にゃはははっ」

「にゃははははー」

 笑い声を上げていたわけないですが、そうにも見えるほど、気持ちよさそうにラチ沿いを走っていく人馬に、もはや誰もが呆気に取られていました。そして、衰えるどころか、加速していくセイウンスカイの姿を見て初めて気付いたのです。

「まさか…」

「もしかして…」

「だまされた?」

「や…」

「や…」

「やられた―――!」

 悠々と、最後は抑える余裕も見せてゴール板を駆け抜けたセイウンスカイ。ライバルたちはもちろん、見る者すべてをだまし切ったに見えたこの壮大なマジックのタネが、電光掲示板で明かされていました。

 レコード――

 そう、このトリックは強くなければできない。レコードタイムで走れるぐらい強くなければ、この魔術は使えないのです。これが私が今回、一番言いたかったこと。セイウンスカイはトリックスターかもしれませんが、その正体はこうも言えると思います。

 実力に裏打ちされた生粋のエンターテナー

 こう言い換えてもいいでしょう。

 凄腕の手品師

 なぜなら、あのときの「だまされた!」に悔しさは全くなかった。楽しかった。気持ち良かった。あの「やられたー!」はまさに極上の手品を見たときの快感でした。菊花賞38年ぶりの逃げ切りに杉本清アナウンサーが花を添えます。

「まさに今日の、京都競馬場の上空とおんなじ」

 その青雲の爽快感たるや!

「すげー」

「すげーや」

「すごいぞセイウンスカイ!」

 こみあげる笑みを、今だったらやっぱりこう表現するでしょう。

「にゃははっ」

 そしてこの後、菊花賞の逃げ切りは、再び、我々の前から姿を消します。それぐらい難しい。まさに至難の業なのですが、23年経った昨年、超久しぶりに飛び出しました。後続に5馬身をつけてまんまと逃げ切ったのはタイトルホルダーという馬。その鞍上が横山騎手の次男・武史ジョッキーだったことに気づいたとき、私たちは競馬の面白さに鳥肌が立ちました。しかも、3000メートルを3分割したそのラップタイムの構成がウリふたつ。

 父  59・6-64・3-59・3

 息子 60・0-65・4-59・2

 DNAに刻み込まれたマジックに、感動しつつも「にゃははっ」となったのは言うまでもありません。さあ、もう一度、時を戻しましょう。二冠馬となったセイウンスカイは有馬記念に向かいます。

有馬記念

 ドキドキ、ワクワク、最後にスカッとさせる逃げ切り勝利は、ファンの心を鷲掴みにしました。時は平成不況の真っただ中。バタバタと銀行が倒産し、失業者が増える戦後最悪の経済状況の中だからこそ、人はみな、ガチの強者とは少し違う、楽しさと爽快感を同時に与えてくれるエンターテナーを求めていたのかもしれません。また、閉塞感漂う、息苦しい日々が続いていたからこそ、セイウンスカイのまさに雲のような自由気ままなスタイルがよりカッコよく見えました。「北斗の拳」で言えばジュウザです。めちゃくちゃ強いけど食えない男、雲のジュウザ。あのキャラと同じく、セイウンスカイは一気に人気者になりました。ファン投票では堂々の2位で、暮れの有馬記念に向かいます。まずは印からご覧いただきましょう。

 はい、◎がズラリ。有馬記念というレースは3歳VS古馬がテーマになるのですが、この年は古馬勢が手薄でした。ファン投票1位の2番人気〝女帝〟エアグルーヴは既に5歳で多くは望めません(この年はGⅠ未勝利)。1つ上の4歳世代は、スーパーホース・サイレンススズカが残念ながら2か月前に天国に召されていたため、メジロブライトが筆頭格(3番人気)。ただ、この馬は京都大賞典で下しています。他にも、セイウンスカイの人気を後押しする要素がいくつもありました。まず、逃げ馬にとってやっかいな同脚質のライバルがいなかったこと。これもまたサイレンススズカ不在が大きく影響していたとも言えますが、他にも、黄金世代と呼ばれる世代的な強さが見え始めていたことも大きかったです。菊花賞で2着だったスペシャルウィークはジャパンカップで3着でしたが、2着エアグルーヴとは半馬身差ですから互角に戦える力があるのは明らか。セイウンスカイはそのスペシャルに勝っていますし、そのJCを勝ったのが同世代のエルコンドルパサーなのです。で、その強い世代の二冠馬がグングン力をつける3歳秋から冬にかけて、さらに調子を上げていたのですから、期待は高まります。

 調教助手さんはこう話していました。

「ピークだった菊花賞をもう超えている感じがする」

 横山ジョッキーも太鼓判。

「言うことないですね」

 単勝オッズ2・7倍。競走生活で初めての1番人気に支持されたセイウンスカイは、ゲートが切られると果敢に先頭を奪います。悪くなっていた馬場の内側を避けつつ、後続を5~6馬身離して1コーナーへ。その軽快な逃げにスタンドが沸きました。

「またやってくれ」

「楽しませてくれ」

 地味な血統背景で、〝クラシック物語〟では2番手的なポジションにいた馬が、年末のグランプリでファンの視線を一身に浴びて逃げています。向こう正面に入るころには7~8馬身。そして、そして、3~4コーナーで再び緩急の「緩」がやってきました。一気に縮まる後続との差。

「ここで…」

「ここでひきつけて…」

 先頭のまま直線を向いたセイウンスカイに「急」を望むファンから声が飛びます。

「突き放せ!」

 しかし、「にゃははっ」とはなりませんでした。伸びてはいましたし、止まってもいないのですが、再加速っぷりが過去2戦より鈍く、直線半ばで後続につかまってしまいます。真っ先に交わしていったのは、黄金世代、グラスワンダー。

「道中で予想以上に力が入ってしまった」(レース後の横山騎手)のが影響したのか、馬場が悪くて内ラチぴったりを走れなかったせいか、敗因は定かではありませんでしたが、手品のタネがバレていたのもあったのでしょう。勝負どころでの後続からのプレッシャーは、過去2戦より明らかに強かったようにも見えました。

「仕方ないか」

「また来年、見せてもらおう」

「あの大逃げをもう一度!」

 そう思いつつも、ファンの心にはちょっぴり引っかかるものがありました。

「やっぱり手品だったのかな」

 はい、先ほどの菊花賞のところで、「馬に実力があったからこそ」と書きましたが、それは今だからこそ書けること。あのときは正直、私も少しだけ心配になりました。京都大賞典も菊花賞も、「うまくいきすぎた」だけなのではないか、と。だから、4歳初戦の日経賞で、幻惑するような逃げではなく、2番手から4コーナーで堂々と先頭に立ち、「にゃはは」とばかりに後続を5馬身ちぎり捨てたのを見て、めちゃくちゃ安心しました。

「すげー」

「やっぱり本物だ」

「面白いし強い」

 むくむくとワクワクが湧き上がってきます。次は天皇賞・春。場所は菊花賞と同じ京都。

「もう1回」

「あの大逃げを」

「もういっちょ!」

再戦

 淀では黄金世代のエースであり、主人公でもあるあの馬が待ち構えていました。

 前年、菊花賞でセイウンスカイに敗れ、ジャパンカップでエルコンドルパサーに敗れたスペシャルウィークは、有馬記念をパスして充電。しっかりと成長し、年明けのアメリカジョッキークラブカップ(GⅡ)と阪神大賞典(GⅡ)を連勝していました。いずれも完勝で、阪神大賞典では前年の天皇賞・春を制したメジロブライトを一蹴。脚質にも幅が出て、隙のない王者になりつつあるのがうかがえました。印はこんな具合。

 単勝オッズはスペシャルが2・3倍。セイウンスカイ2・8倍。ブライトが4・1倍。サラブレッドが最も強くなるという4歳を迎えた同期2頭に先輩がどこまで食い込めるかどうか…といった構図でしょうが、メディアからすると3強でした。で、興味深かったのは、3頭の鞍上が百戦錬磨の名手だったこと。しかも、技術的に達者なだけではありません。スペシャルの武ジョッキー、セイウンスカイの横山ジョッキー、ブライトの河内洋ジョッキーともに、相手の裏をかいたり、意外な戦法を取るなど、〝策〟も繰り出せる人たちでしたから目が離せません。長距離レースというのは騎手次第で結果が変わります。力差がそれほどなかったとしたら余計に大事になってきます。だから、本紙もレースの週に、それぞれに話を聞きました。まずは横山ジョッキー。

「俺は自分の競馬をするだけ。スペシャルもメジロも他の馬も、みんな万全の状態で出てきてほしいね。向こうにタラとかレバとか言われて勝つのは面白くないから」

 ただただ、強気。いや、強気なコメントで相手にプレッシャーをかけにいったのかもしれません。「俺の馬についてきたらつぶれるぞ」とも取れます。一方、武豊ジョッキーは「いずれにしても力勝負。タフなレースになりますよ」とニヤリとしつつ、こう話しました。

「周りの方が位置取りまで決めてくださってるようですが、ボクがあの2頭の真ん中にいるとは限らない」

 おっ!となるコメントです。週の初めから、各メディアは3強の位置取りをこう予想していました。

 ←セイウンスカイ スペシャルウィーク メジロブライト

 セイウンスカイは逃げ馬で、先行できるようになっていたスペシャルは前走の阪神大賞典でブライトより前でレースを進めています。もともとブライトは差しタイプの馬でもあり、このようなポジショニングは誰でも予想できたわけですが、「スペシャルが真ん中かどうかは分かりませんよ」というのです。意味深ですよね。そんな中、河内ジョッキーは…。

「やっぱり4歳馬には勢いを感じるわ。オレの馬はどうかって? こっちはもう枯れとるよ」

 はい、泣きを入れていますが、本心とは思えません(苦笑)。若い2頭、年下2人がやり合う中、ベテランが〝らしい〟態度で一発を狙っているように聞こえました。ライバル同士がバッチバチにやり合っているとき、第三の馬が漁夫の利にありつくのも競馬あるある。

「どうなるんだ」

「どんな作戦でくるんだ」

 想像するだけで、なかなか楽しい1週間。で、ゲートが開いた後、誰もが「そうきたか」となりました。スタート直後、好スタートから3番手につけたスペシャルから伝わってきたのは明らかな〝意思〟。

「菊花賞と同じ轍は踏まない」

「簡単には逃がさないぞ」

 幻惑どころか、真正面からライバル・セイウンスカイに勝負を挑むようなポジションニングは人馬ともに、さすが主人公。そして、その様子を見たからか、それとも戦前から考えていたかは定かではありませんが、横山ジョッキーもさすがでした。我先にと逃げず、スタート直後は何とスペシャルより後ろ。で、1周目の3~4コーナーの坂を下りながらじんわりスペシャルに並びかけ、じんわり交わしていくのだから一筋縄ではいきません。そして、スタンド前を走りながらこれまたじんわり、3番手からじわ~っと先頭に立つ、今までにない逃げを見せたのですから、ファンは盛り上がりました。

「意識し合ってる」

「バッチバチだ」

 1コーナーを先頭で回っていくセイウンスカイ。

「どうするんだ」

「一気にいくか?」

「大逃げか?」

 はい、大逃げをしたかった可能性もあります。でも、そうはさせてもらえませんでした。あの日の武ジョッキーは超がつくほど、セイウンスカイを意識していたのです。「どのポジションになるか分かりませんよ」なんてクールに言っておきながら、徹底マークの3番手。しっかりとついていった上に、向こう正面に入るころには少しポジションを上げ、2番手の馬を「前に行け」とばかり突っつき、本当にその2番手がセイウンスカイとの距離を縮めたのですから恐れ入りました。

「ペースは落とさせない」

「好きなようには逃げさせないぞ」

 これでは手品を出すことはできません。その徹底ぶりはすさまじく、セイウンスカイが4コーナーを回ったときにはもうスペシャルは隣に並びかけていました。

「そこまで…」

「そこまでやるか…」

 ただ、ダービーのころの「けっ」「どうせそっちが主人公だもんな」的な感情はありません。だって、言い方を変えればこうだからです。

「そこまでセイウンスカイの強さを認めていた」

「そこまでやるほどセイウンスカイは強かった」

 はい、天才をガチにさせたことに気付いたセイウンスカイのファンの心は、青雲まではいかずともそこまで曇ってはいませんでした。

「強い馬にあれだけマークされたらキツイ」

「どんな馬でも勝てないよ」

「仕方ないね」

 ただ、気がかりがひとつだけありました。

「もう無理かも…」

「もう使えないんじゃ…」

 そう、タネが明かされた手品は、手品ではないのです。

新技

 天皇賞・春の後、少しだけ休みを取ったセイウンスカイは、札幌記念に出てきました。59キロを背負っていたものの、力量的にはこの印も当然でしょう。

 ただ、セイウンスカイを追いかけてきていた私のようなファンは、少しだけモヤモヤしていました。札幌記念の後は天皇賞・秋に向かうと発表されていたのですが、そこにはスペシャルウィークが出てきます。そのライバルには完全に戦法がバレているのです。

「ここは勝つだろうけど」

「次は直線の長い東京だし…」

「マークされたらもっとキツイよなあ」

 そんな気持ちで、どこか上の空でウインズのテレビモニターを見つめていた私は、ゲートが切られてしばらくたった後、「おいおい」とつぶやきました。周りからも口々に。

「おいおい」

「おいおい」

「おいおい」

 はい、もともと逃げ・先行馬が他にもいたので陣営も「控えるかもしれない」とは言っていたのですが、「そこまで?」の中団。後ろから数えた方が早い7番手に、ウインズはどよめきました。競馬場も間違いなくどよめいていたはずです。

「マジかよ」

「平気なのかよ」

 1コーナーを回り、2コーナーでもまだポジションが変わらないのですから、さすがに焦りました。ひとまずここは楽勝して、天皇賞・秋でどうスペシャルに対抗するか策を練るんだろうなと思っていたらその「ひとまず」が大変なことになっているのです。

「どうした?」

「どうしたんだ?」

 不安が最高潮に達した向こう正面になってセイウンスカイは動き始めました。徐々に上がっていき、2番手。勝負所で先頭に立ってそのまま押し切る勝ち方は日経賞で見ていましたから、そのまま先頭に立つかと思いました。でも、セイウンスカイはそこでポジションをキープしています。

「おいおい」

「大丈夫か?」

「本当に大丈夫なのか?」

 直線を向いたセイウンスカイ。横山ジョッキーがGOサインを出して2秒後、我々は「まさか」と思いました。まるで差し馬のようにしっかりと伸びていく芦毛、周囲の心配をよそに「にゃははっ」と返すかのような楽勝ぶり見て、思い出したのです。それは菊花賞のゴール直後のあの感覚。

「もしかして…」

「だまされた?」

「や…」

「や…」

「やられた―――!」

 はい、我々はまたもやトリックに引っかかりました。いや、横山ジョッキーからすれば馬の行く気に任せただけで決してトリックではないのかもしれませんが、この人馬はまたもや私たちの予想をいい意味で裏切ってくれたのです。逃げ馬に布をかぶせていたはずが、その布を取ったら中はいつの間にか差し馬になっていたのです!

 極上の手品

 スーパーマジック

 ファンタスティック!

「すごい」

「面白い」

「最高だ!」

 見ている者は再び「だまされる喜び」に浸ると同時に、この人馬がとんでもない武器を手にしたことに気付きました。

「変幻自在」

「自由自在」

「これなら逃げなくてもいい」

「マークされないで済む!」

 天皇賞・春の後、あれだけかかっていた「またマークされる」という不安の雲は目の前から消えていました。さあ、リベンジです。

天皇賞・秋

 天皇賞・秋、主役は完全にセイウンスカイでした。逃げ馬特有の「マークされる」というデメリットを、自在な脚質を手に入れたことで払拭したことに加え、スペシャルが秋初戦で大敗しており、さらに自身の体調も万全だったのです。これは天皇賞ウイークの水曜日の1面。

 人馬の呼吸が合った絶品の追い切り。保田調教師はこう太鼓判を押しました。

「札幌記念より断然上」

「パーフェクトに近い」

 さらに懸念されていた戦法についても自信満々。

「位置取りうんぬんより折り合った場所がベストポジションでしょう」

 これは「どこからでもいけますよ」「展開や相手次第でどうにでもなりますよ」ということでした。調教速報の1面にあるようにスペシャルの追い切りからは復調も感じられなかったため、記者からの印も集まります。

 天皇賞・秋で1番人気がもっか11連敗中だったことで、単勝オッズは3・8倍という〝断然〟といった感じではない1番人気でしたが、2番人気のツルマルツヨシが6・0倍ですから、頭ひとつ抜けていました。ファンは人気馬、実力馬としての強さを見せてほしいのと同時に、「また面白いものを見せてほしい」という期待も抱き、ファンファーレを待ちます。真正面からぶつかっていく強さもいいですが、どこか力が抜けていて、人馬ともにひょうひょうと、「にゃははっ」と僕らの想像を超えてくる名コンビのレースが楽しみで仕方なかったのです。

「今日は何を見せてくれるんだろう」

「何が飛び出すのだろう」

 開けてビックリのレースを見せてくれる馬が近年、少ないからこそ、あのときの高揚感を私は今でも思い出します。ドキドキしました。ワクワクしました。競馬のエンターテインメント性にしびれていました。だからいいんです。セイウンスカイがゲートに入らず、「時々やるパターンね」「いつもはしばらくゴネて入るから」と思わせておいて、まったく入らなくても。嫌がって、尻っぱねして、仕方なく目隠しをしたら後ろずさりして、気が付けば4分が経過していたとしても良かったとしましょう。そして、誰もが「これはシャレにならんぞ」となったとき、目隠しを取ったら突然、本当に突然、さっきまでのイヤイヤがウソだったかのようにゲートに入ったときの大歓声を忘れません。普通だったら絶対にダメなパターンです。凡走のパターンです。でも、あのときは全くそう思わなかった。食えない男、雲のジュウザ、いや、雲のセイウンスカイ。

「ここまでやらかして」

「どんなレースを見せてくれるんだろう」

 手品だったのかもしれません。目隠しを取ったら突然入ったのも手品。普通なら不安にしかならない状況をドキドキ、ワクワクに変えたのも手品。ゲートが開き、まったく進んでいかなかったのも手品だったのかもしれませんが、タネも仕掛けもなかったことがただひとつ。凡走必至に見えたあの直線、ゲートであれだけ暴れて大敗してもおかしくなかったあの直線、大外からライバルのスペシャルウィークが追い込んできたあの直線、セイウンスカイは必死になってファンの期待にこたえようと歯を食いしばっていました。4コーナー10番手から、泥臭く、しぶとく伸びた希代の逃げ馬。力がないとできないあの5着に、意地の5着に、大好きな人馬に、黄金世代一のエンターテナーに、「ありがとう」と拍手を送ったとしたら、彼はどうこたえるでしょう。

「にゃははっ」

 そう笑ってくれるでしょうか。


エピローグ

 ゲートに入らなかったセイウンスカイはレース前から異常にテンションが高く、燃えすぎていたそうです。正直、〝キャラじゃない〟1番人気に普段以上の重圧を感じていたのかもしれません。それでも頑張ったのですから、ファンは次走を楽しみにしたのですが、あまりのやらかしに1か月の出走停止処分が下され、ジャパンカップ出走が不可能になってしまいます。さらに追い打ちをかけるように、屈腱炎を発症してしまいました。競走馬としては不治の病ですから、この時点で引退していてもおかしくありません。でも、セイウンスカイは頑張りました。1年が過ぎ、さらに半年。スペシャルウィークも、グラスワンダーも、エルコンドルパサーも引退し、王道路線にめぼしい同期がいなくなっていた2001年春の天皇賞にその名を連ねました。

 ケガを考えればターフに戻ってきただけでもすごいこと。何とか出走にこぎつけたといったところで、ブランクを考えれば荷が重いです。ファンとしては見守るだけ。控えめに馬券を買い(買ってる!)、心静かにファンファーレを待つだけ。

「無事に回ってきてくれればいい」

「ゆっくり調子を整えていけばいい」

「とにかく無事に」

 静かに、心静かに見守っていたのに、ゲートが開き、セイウンスカイが果敢にハナを奪ったときのあの興奮はすさまじいものがありました。無理だと分かっていても、先頭で京都競馬場のスタンド前を通過していったときは、テンションが上がりまくり、涙が出ました。18か月というブランク明けの長距離戦ですから、最終的には次々と他馬にかわされてしまうのですが、逃げる姿を見られて本当に良かった。そして、私は次々とかわされる直前のセイウンスカイを書き残しておかねばなりません。向こう正面に入り2番手の馬にかわされとき、ほんの少しだけ白さを増したこの名馬は、歯を食いしばって先頭を奪い返したのです。

 二冠馬の意地

 黄金世代の意地

 そこにはタネも仕掛けもありませんでした。

引退式のセイウンスカイ


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