「やはり最後は矢野のミットで終わらせたい」2010年ウエスタンV【下柳剛連載#24】
オレにも「引退」の2文字がチラつくように
人生にはいいこともあれば悪いこともある。優勝を逃した2008年オフに関節鏡視下による右ヒザのクリーニング手術を受けたあたりから、少しずつ歯車がかみ合わなくなっていった。痛みがひどいときにはランニングどころか日常の階段の上り下りさえつらくて、甲子園でベンチからロッカーに戻る際も、わざわざ遠回りしてエレベーターを使っていたほどだった。
世の中にはいろいろなトレーニング論があるけど、オレにとっては走り込みが基本中の基本。その絶対量が不足していたら、思うような投球ができなくなるだけでなく、全体のバランスも崩れてしまう。打たれるたびに「ヒザさえ治ってくれれば」と思っていたけど、こればかりはどうにもならなかった。ついでに言うと、今でも正座はできないし、トイレもヒザに負担のかかる和式は使えない。
09年には連続2桁勝利が4年で途絶え、10年は7勝8敗。阪神移籍8年目で初めて負け越した。登板数も19試合にとどまり、シーズン5度の二軍落ちという屈辱も味わった。そんな矢先のことだった。阪神でずっとバッテリーを組んでいた矢野燿大との別れが訪れたのは…。
忘れもしない10年9月25日、舞台は満員の甲子園ではなく、超満員の鳴尾浜球場だった。二軍首脳陣の計らいで9回にバッテリーを組むことになったのはいいけど、最終戦でもあったこの日のウエスタン・中日戦は、負ければV逸の大事な試合で、点差は1点。下手な投球をすれば二軍の若い選手たちが積み上げてきたものをぶち壊してしまいかねないし、思いのほか緊張のマウンドになった。
走者は出したけど何とか二死までこぎつけた。やはり最後は矢野のミットで終わらせたい。「三振以外で終わっちゃダメだ」。その思いが強すぎた分だけ制球が甘くなったのか、5人目の打者となったセサルにヒヤリとするようなファウルを打たれた。「空気読めよ」とも思ったけど、最後は格好良く空振り三振に仕留めることができた。
あとでテレビのニュースか何かで確認したら、オレは今までしたこともないような派手なガッツポーズをしていた。よほど、うれしかったんだろうな。そもそも矢野とバッテリーを組むこと自体が1年ぶりだったし、二軍はこの試合で優勝を決めることができたわけだから。
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