打倒怪物!鹿児島商業・堂園喜義を倒すため弟を実験台にした【定岡正二連載#4】
ボクの性格は「投手向き」ではなく「野手向き」
鹿児島実業高校2年の夏に「甲子園出場」という貴重な経験をさせてもらったボクは「甲子園で1勝するんだ」という大目標を立てて、高校生活最後の1年を迎えた。
「定岡、新チームのエースはお前だ。ピッチャーをやれ」。新チームになって早々に久保克之監督からそう指名された。「喜んでやらせてもらいます!」というわけではなかったけど、あのひと言からボクの本格的な「投手人生」が始まった。
というのも当時のボクは投手の練習が嫌いだった。「投手向き」「野手向き」の性格があるのだとしたら、ボクは明らかに「野手向き」だったと思っている。投手の練習は孤独だ。みんなが守備練習や打撃練習をしているのを横目に、一人で黙々とグラウンドを走り続けなければならない。
「オレも一緒に練習したい!」。走りながら何度そう思ったことか。だが、ボクに投手をやらせたくて仕方がなかった父・清治は大喜びで、家に帰ると「どうだ、投手はおもしろいだろう!」と目を輝かせながら聞いてくる。「ま、まあね…」。そんな時は決まって生返事をしながら「オヤジのためにも頑張るかあ」と思うのだった。
しかし、鹿児島にはとんでもない投手がいた。鹿児島商業の堂園喜義。後に広島からドラフト1位指名されることになる怪物投手の、下手から繰り出される浮き上がるような剛速球は本当に打てる気がしなかった。一方のボクはといえば投手になったばかりで、球は速いが「行き先はボールに聞いてくれ」という感じ。これでは勝負になるわけがない。秋の大会で鹿商に軽くひねられたボクたちは、目標を「甲子園で1勝」から「打倒・鹿商」「打倒・堂園」に切り替え、夏の大会に向けて猛練習の日々が始まった。
トラックのタイヤを引きずって外野の両翼を20往復。ナイター設備はなかったけど、監督のクルマのヘッドライトの明かりを使ったりして夜の10時まで練習した。
あれほど嫌で嫌で仕方がなかったランニングも「堂園に負けてられるか」と思うと、不思議と力がわいてきて頑張れた。
「真っすぐだけじゃあ通用しない」と、タテに割れるカーブをものにしようと研究し、試合で使えるレベルになるまで毎日のように投げまくった。徹底的な走り込みで鍛えた下半身のおかげだろう。冬を越えて夏を迎えるころには、ボクはそれなりの投手として素質が開花しつつあった。
だが、あの時の鹿実で一番頑張ったのはボクではない。「堂園、今日も頼むぞ!」「はい!」。打撃練習で文句も言わず、まさにマシンのように連日投げまくった“もう一人の堂園”だ。
どうして鹿実の練習にライバルの堂園がいるのかって? そいつの名前は堂園一広。鹿商の堂園には1つ年下の弟がいたのだ。
決勝戦で〝怪物〟擁する鹿児島商業と対決
今にして思えば残酷なことをしたと思う。鹿児島実業高校3年の夏、ボクたちは「打倒・鹿児島商業」を目標に、連日の猛練習に明け暮れていた。鹿実の勝機は鹿商の怪物投手・堂園喜義から、いかにして点を取るかにかかっている。そこで「仮想・堂園」として白羽の矢を立てられたのが、1つ年下の堂園の実弟だった。
堂園一広。どうしてあいつが鹿商ではなく、鹿実の野球部に入ってきたのかは分からない。兄への対抗心があったのかもしれない。それでも血を分けた兄弟だ。兄を倒すため“実験台”になるのは複雑な思いがあったことだろう。だが、あいつは鹿実野球部の一員として連日、打撃投手を務めると、何百球、何千球と投げ込んでくれた。フォームは下手投げの兄とうり二つで、意識して似せようとしてくれたんだと思う。もちろんこれ以上の練習台はなかった。
そうして最後の夏の県予選が始まった。鹿商と激突したのは決勝戦だった。鴨池球場は超満員。ただ、お客さんはみな、超高校級のエースを擁する鹿商の勝利を疑っていなかったことだろう。
「今年の鹿商なら全国制覇も夢じゃないかもな」。そんな声も聞こえてきた。何しろ体格からして違う。試合前の整列で、平均身長165センチそこそこのボクたちは、鹿商のメンバーたちを見上げていた。下馬評では1対9。それぐらいの差があると思われていた。
試合が始まった。とにかく相手が怪物投手だ。1点を取られたら負ける…。そう思ったボクは1点も許さないつもりで初回から飛ばしまくった。だが、そんな気負いがボールに伝わってしまったのかもしれない。
ボクは2回に満塁のピンチを招き、カウントは2―3。次のボールを投げた瞬間「しまった!」と観念した。しかし、判定は「ストライク!」。
あの一球もまた、ボクの野球人生を変えた一球になったと思う。先日、鹿児島に帰った時に聞いた話では、見送った打者は今になっても「あれは絶対にボールだ!」と言い張っているそうだ。
「助かった…」。おかげで肩の力が抜けたボクは、それから思うように腕が振れるようになった。それでも堂園から点を取らないことには、いつまでたっても0―0のまま。久保克之監督の指示は「バットを一握り短く持て」「バッターボックスのぎりぎりに立て」「インコースは当たりに行け」というもの。そんな捨て身の堂園攻略作戦が現実のものになるのは、両軍無得点で迎えた7回のことだった。
「デッドボール!」。打席ぎりぎりに立ったボクの右ひざに、堂園の内角直球が直撃したのだ。
この死球をきっかけに、ボクたち鹿実はエラーもからんでこの回、決定的な2点を挙げることに成功した。そして…。「大番狂わせ」が現実のものになった。
※この連載は2009年7月7日から10月2日まで全51回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全25回でお届けする予定です。