楽天に入ってからずっと思っていた「オリックスに負けたくない」【礒部公一連載#6】
僕の先頭打者本塁打が楽天第1号!それでも厳しすぎた球団創設1年目
レフトスタンドではためく応援旗(05年4月1日)
新球団としてスタートを切った2005年の楽天は苦しい試合を強いられました。開幕のロッテ戦(千葉マリン)に勝利したとはいえ、2戦目は0―26の大敗。これが現実なんだと思い知らされました。続くソフトバンクにも3連敗し、開幕からビジターの2カードを終えて1勝4敗。地元開幕の4月1日の西武戦(フルスタ宮城)を迎えました。
ずっと6番を打っていた僕は15打数ノーヒット。試合前、田尾安志監督が「一番最初に楽天のホーム試合でお前を打席に立たせたい」と言ってくれて、その日は1番を打ったんです。先発はエースの岩隈久志だし、僕も何とかしなきゃと思っていたし、当日の打撃練習で少しいい感じに戻ってきていた。
西武の先発は岡本篤志。初球がレフトのポール際にでかいファウルになった。1メートルくらい横だったんで走りながら「持ってないなあ」と思っていたら、フルカウントからホームランを打てた。先頭打者ホームランが楽天第1号になった。「これでようやく開幕したわ~」ってホッとしましたね。その日は16―5で大勝できたし、借金2でこれから何とかしようと思いました。それが…。
田尾監督と米田球団代表(05年7月、仙台)
5月くらいに自力優勝がなくなり、4月と8月に11連敗が2度もあった。シーズンが進むにつれて「100敗するんじゃないか」と言われ始め、三木谷浩史オーナーからも「100敗はやめてくれ」って言われましたもん(笑い)。田尾さんも辞めるだろうな、という話も出始め、9月に退任が発表された。そのころに山崎武司さんと「せっかく1年やってもらったんだから、もう1年やってほしい」と会社に話しに行きました。会社もチームを再建しなきゃいけないから田尾さんじゃダメだというのがオーナーの中にあったんでしょう。新しくできた球団だし、選手がそういうことを進言できる環境ではあったと思いますね。
1年目の楽天は38勝97敗1分けに終わり、新監督に実績のある名将の野村克也監督が就任された。僕の場合は近鉄時代、野村さんの下でやられていた伊勢孝夫さんに教えてもらっていたので、野村さんの考えというのはミーティングでよく聞いていた。あのころの近鉄が強かったのは打者心理、投手心理を勉強したからと思っていた。野村さんからは「近鉄はいてまえ打線で、豪快な野球しかやってないだろ」と言われましたけど(笑い)。
楽天にID野球を注入した野村監督
1年目の田尾さんは自由にやらせてくれたけど、野村さんは茶髪ダメ、ヒゲダメとか。昔の人だし、そういう考えは分かる。僕も茶髪をやめ、みんなも言うことを聞いてましたよ。トップがそうなら合わすしかないと思ったし、若い選手も足並みは揃っていた。山崎さんなんかもボールの待ち方を教えてもらって再生しましたしね。06年も最下位だったけど1年目のような試合は少なくなり、07年は僕も頑張って4位と最下位を脱出した。
本塁打を放った山崎武司を最敬礼で迎える野村監督(06年6月、東京D)
ミーティングを終えて、野村監督が記者たちに「野村ノート」を見せた
星野監督がチームを戦う集団にしてくれた!
僕は楽天である程度、レギュラーを張ってきたけど、30半ばになって故障がちになってきた。スネを骨折したり、2008年から出場機会が減り、慢性的な右肩の痛みも出始めてスローイングも打撃もうまく右でコントロールできなくなっていた。まだまだできる気持ちもあったけど…。
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