「先生、東北高に来てよかったです」、胸がジーンと熱くなった【若生正廣監督 連載#5・最終回】
最後の甲子園、8強を確信したその瞬間〝マモノ〟が…
最後の夏は絶好調だった。
2004年7月。第86回全国高校野球選手権大会出場をかけた宮城県大会で私は準決勝まで有を温存した。彼はバットボーイを務め、陰でナインを支えたり、ベンチでは「ここは抑えていけよ!」と主将らしくナインを鼓舞したりしていた。決勝では有を先発させ、利府に20―2と圧勝。最高の形で甲子園出場を決めた。
抽選会で明徳義塾の田辺主将と肩を組むダルビッシュ(04年8月、大阪フェスティバルホール)
有にとって4季連続、そして最後の甲子園。前年夏に準Vだったこともあって、優勝候補の本命ともいわれた。8月9日、第86回全国高校野球選手権大会1回戦、対北大津(滋賀)。1回に1点先制し、3回にビッグイニングで大量6点を奪った。先発の有もスイスイ投げ、5回を終了して8―0に。一方的な展開になっていた。
グラウンド整備の間、私は有に声をかけた。「どうや、肩の調子は?」「何ともないです」。調子が良さそうだ、と思った。「じゃあ、完封くらいしてみろ。まだ今大会開幕して誰もやっとらんぞ」「ハイ」。有は力強く答えた。大差がつき、余裕もあったようで緩急をつけた投球で相手を寄せつけなかった。私の“指令”にきっちり応え、被安打8、奪三振10、無四球でシャットアウト。東北高は13―0で絶好の白星発進となった。
続くは14日。2回戦・対遊学館(石川)。ナイトゲームに突入した試合で、有はカクテル光線を浴びながら多彩な変化球で相手打線を手玉に取った。昨年まではストレート、スライダー、カーブの3種類だったが、チェンジアップ、シンカーを交えるようになった。私は有に「球種を多く覚えろ。困った時の直球頼みは駄目だ」と教えてきた。手先が器用な有は豊富な変化球を自在に操っていた。散発の被安打3、奪三振12で三塁すら踏ませなかった。4―0で2試合連続の完封劇。初優勝の期待が一気に高まってきた。
遊学館戦で完封勝利を決めた瞬間、ダルビッシュはこの雄叫び(04年8月)
17日。3回戦、対千葉経大付(千葉)。その日は雨だった。なぜか嫌な予感というか、胸騒ぎがしていた。
「できるなら、もうちょっと天気がいい時にやらせてあげたい。勝ったらベスト8やし」
先発の有は走者を出しながらも要所を締めた。壮絶な投手戦となり、8回が終わって1―0とリード。最終回、二死三塁。あと一死で8強入りだった。雨は降り続け、やむ気配がなかった。スタンドには傘の花が咲いていた。
千葉経大付は3番・井原努。初球だった。133キロのスライダーを引っかけた。ボテボテのゴロが三塁・横田崇幸の前へ。誰もが有の3試合連続完封を信じた、その瞬間だった――。
捕球体勢に入った横田がぬかるんだグラウンドに焦ったのか、まさかのファンブル。失策で同点に追いつかれてしまった。野手陣のグラブは雨でグショグショ。マウンド上の有は唇をかみ締めていた。
〝最後の一球〟がレフトからの送球になるとは
雨中の死闘だった。
2004年8月17日、第86回全国高校野球選手権大会3回戦・対千葉経大付(千葉)。2試合連続完封していた有が、この試合でも力投を続け、8回を終えて1―0。息詰まる投手戦ながら勝利は目前だった。だが、魔の9回が待ち構えていた。
二死三塁、千葉経大付の3番・井原努の三ゴロを三塁・横田崇幸がファンブル。痛恨の同点エラーとなってしまった。私はすかさずタイムを取って間を入れた。マウンド上で唇をかみ締めていた有の精神状態が気がかりだった。だが、その有が横田にこう声をかけた。
「エラーは誰にでもある。気にすんな」
勝利を寸前で帳消しにされ、憤慨しても仕方がないケース。それでも有はチームメートを叱責するどころか、優しくフォローした。「立派やな」と思った。精神的にたくましくなり、着実に大人に近づいていた。
しかし、勝利の神様には見放された。延長10回二死二塁のピンチ。有が9番・河野祥康に高めに浮いた甘い初球を中前へはじき返され、ついに1―2と逆転された。気持ちの入った投球を続けていたが、166球目を打たれた。私は「有がウチの主戦だから同点までは投げさせよう」と思っていた。
もう交代させるしかなかった。マウンドに真壁賢守を送り、有を左翼へ配した。
二死一、二塁とピンチは膨らみ、真壁は2番・川上貴裕に三遊間を破られた。有が懸命にバックホームしたものの、ワンバウンド返球は三塁側にそれ、駄目押し。この送球が有にとって“最後の一球”になった。
千葉経大付の松本啓二朗は早大を経て、ドラフト1位で横浜に入団した(2011年11月、甲子園球場)
その裏の攻撃も、早くも二死。くしくも最後の打者は有。雨空を見上げ、打席に入った。ファウルで粘った。タイミングは合っていた。しかも、笑顔だった。カウント1ボール2ストライク。有はつぶやいた――「終わってたまるか」。
私は思った。「最後まであきらめず、有らしいな」
千葉経大付の先発・松本啓二朗(のちにプロ入り)が投じたインハイへの129キロ直球。主審の右手が上がった。
延長10回裏、ダルビッシュが見逃し三振に倒れてゲームセットとなった(04年8月、甲子園)
終わった。1―3の逆転負け。有は口をギュッと結んだ。だが、直後には白い歯をこぼしていた。悔いはなかったのだと思う。高校球児に平等に与えられる5回の甲子園出場のチャンスのうち、2年時から4季連続で行けたからだろう。前年夏のような涙はなかった。宿舎では3年生をねぎらった。有には「ありがとう。よく頑張ったな」と語りかけ、肩を抱いた。
有は他の3年生とともに引退。私も9月8日、監督退任を表明した。東北高のならわしで引退した部員は退寮し、学校近くで下宿する。有も2階建てのアパートで暮らし始めた。
言わずもがな、有は04年のドラフトの目玉だった。「12球団どこでも行きます」と私に意思を伝えていた。そして11月17日。超高校級投手の進路が決まった。
日本ハムのヒルマン監督からのメッセージが手渡された(中は堀田校長、右は今成担当スカウト)、下はダルビッシュに送られた手紙(04年11月)
別れの日、気づけば4時間たっていた〝最後の晩餐〟
2004年、有の進路に注目が集まっていた。ドラフト当日(11月17日)の1週間前までには、7球団が1位指名の意向を示した。ところが日に日に減り、3日前にはダイエー(現ソフトバンク)が、2日前には楽天が1巡目指名から降りた、という動きが伝わってきた。
日本ハム入団発表に笑顔を見せるダルビッシュ(04年12月、札幌)
迎えた運命の日。日本ハムが単独1位指名で交渉権を獲得した。有はうれしそうだった。私は「あの子を獲ったら右のエースは向こう10年はいらないだろう」と言っていた。だが、球界関係者は口々に「若生がまた何か言っている」と相手にしなかった。どちらが正しかったかは、言うまでもない。
2007年には沢村賞を受賞、09年には最優秀選手賞を受賞したダルビッシュ、右はアレックス・ラミレス(09年11月、プロ野球コンベンション2009)
実は当時、有には毎日午後10時に私のところへ電話をするように指示していた。その年の9月、週刊誌に喫煙写真を掲載されたからだ。私はすでに東北高校の野球部監督を退任していたが、監視の意味で一日の動きを強制的に報告させた。
「何している」
「部屋にいます」
「ウソは言うなよ」
「いますよ」
「部屋はきれいにしているか」
「ハイ」
「そんならええわ」
実際に有が住んでいるアパートに行き、確認することもあった。
そんな生活も12月27日を最後に終わりを告げた。雪が舞う寒い年の瀬。有が大阪に帰郷する日だった。私はその日、彼をJR仙台駅前の喫茶店に呼んだ。2人でゆっくり食事をしたかった。「年明けの1月6日には日本ハムの選手寮に入るんやろ。電話報告はもう今日からええよ」。こう言った後、高校3年間の思い出話に花を咲かせた。
1年生でのデビュー戦で147キロをマークしたこと。チームメートとプールトレーニングに励んだこと。2年の夏の甲子園では私に雷を落とされ、涙を流したこと。3年センバツではノーヒットノーランを達成したこと。そして笑顔だった最後の夏…。
懐かしんだり、反省したり…和やかな雰囲気で語り合った。
「今までは授業料払って野球をやっていたけど、これからはお金をもらって野球をやる。プロになるんだから。自覚してやらないけんよ」
「ハイ」
窓越しに外を見やると、まだ雪が降っていた。
「先生、東北高に来てよかったです」
「そうか…」
胸がジーンと熱くなった。有との別れが近づいているのを感じた。
「お前のおかげで先生も去年の夏に準優勝を経験できた。ありがとう。プロに行っても頑張ってな」
「ハイ!」
有はニッコリ笑った。その笑顔に1年生の時に見たあどけなさはなかった。すっかり大人びていた。“最後の晩さん”は気が付けば、4時間もたっていた。
マリナーズ戦でメジャー初先発するダルビッシュ、下は同日の対イチロー(12年4月、米アーリントン)
今、私はテレビで有を応援している。彼が高校生の時からメジャーに行くと思っていた。25歳(※紙面掲載当時)。チャレンジするにはいい年齢だ。現状に満足せず、メジャーリーグに誇りと自信を持って挑戦してほしい。大丈夫、お前ならきっとできる。
世界へ羽ばたけ、有――。(おわり)
わこう・まさひろ 1950年9月17日生まれ、61歳。宮城県仙台市出身。血液型=B。68年、東北高3年時に夏の甲子園に主将でエース、4番として出場。法大卒。埼玉栄監督を経て93年秋から母校の東北高監督に就任。95年に一時退任したが97年に復帰した。チームを春5回、夏は2回、甲子園に導き、2003年夏は準優勝。04年に退任後、06年から14年まで九州国際大付監督を務めて、11年センバツでは準優勝。15年から再び埼玉栄監督をつとめ19年勇退。家族は妻と2女。実兄は元阪神の智男氏。
※この連載は2012年3月6日から30日まで全15回で紙面掲載されました。連載を綴ってくれた若生正廣さん2021年7月27日に死去したことを受け、東スポnoteでは写真を増やし、全5回でお届けしました。謹んでご冥福をお祈りいたします。