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ダルビッシュ有が〝異次元のエース〟となった試合は…【若生正廣監督 連載#4】

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有が主将の〝新生東北〟始動3か月後に事件が…

 2003年夏の甲子園準Vで“ダルビッシュフィーバー”がさらにヒートアップしていた。次年度の入学を希望する中学生親子の学校訪問が急増し、その数は5000人にまで膨れ上がった。連日のように野球部練習場には女子中学生が詰めかけ、黄色い声援。もちろん有に向けてだ。なぜだか、私もサインを求められ、300人ほど書いた記憶がある。

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野球部寮の前で子供たちにサインするダルビッシュ

 ただ、いつまでもうかうかしていられない。夏の甲子園優勝校・常総学院(茨城)とともに今度は「打倒・東北」とマークされる立場になったからだ。8月、早速、主将選定に取りかかった。高校野球において主将の役割は極めて重要だと私は考えている。一番、技量があって、部員全員に分け隔てなく注意できて、まとめる力が要されるポジションだ。

 候補はスラッガーの横田崇幸や俊足巧打の家弓和真、1年時から出場している大沼尚平、そして有。例年通り、部員間の投票を行った。すると、有と大沼が票を分けた。さあどうする? 私は野球部寮・勿忘荘(わすれなそう)に2人を呼んで議論した。

 大沼に尋ねた。「主将になったら有に遠慮なくモノが言えるか」。やはり有は絶対的存在で横田らでも意見しづらそうだった。「…あんまり言えそうにないです」と大沼は自信なさげ。有にも聞いた。「お前はみんなにモノ言えるか」「ハイ、言えます」。決まった。「分かった。有が主将になって大沼が副将としてフォローしてやれ」。大沼とともに横田、家弓も副将となった。

 有はエースで5番打者で主将と3役の“十字架”を背負うことになった。周囲からは「荷が重過ぎないか」との意見もあったが、彼は苦にしないタイプと思った。何を隠そう、私も東北高校での選手時代、エースで4番で主将。有なら大丈夫と確信していた。

東北高校3年、宮城県大会優勝のダルビッシュ

宮城県大会で優勝旗を持つダルビッシュ

“新生東北”は無敵だった。仙塩地区高校野球秋季リーグ戦、宮城県大会も順調に突破。東北大会も制覇して翌春のセンバツ出場を確実にした。有にとっては3季連続の甲子園出場だ。

 ただ、ここでちょっとした“事件”が起きた。11月の明治神宮大会。済美(愛媛)にコールド負けしたが、問題はスコアではなかった。当時は東北大会が終わると翌春のセンバツを見据えて冬のトレーニングに入っていた。そのためボールを使った練習を全くしていなかった。だから、コールド負けは仕方なかった。“事件”とは有が高野連から厳重注意処分を受けたこと。審判のジャッジを不服とした態度を見せたというのだ。

 有と話した。「ストライクなんじゃないかなっていうしぐさをしただけです。何でボールなの、というアピールプレーはしていないです」「分かった。気をつけよう」。冒頭で述べたフィーバーしかり、高野連からの注意も、超高校級エースとして注視されているという証しだと思った。

開会式で入場するダルビッシュ(04年3月、甲子園)

春のセンバツの開会式で入場するダルビッシュ(04年3月)

センバツ初戦、ノーヒットノーランの大きすぎる代償

 スケールアップした有が最終学年として迎えた甲子園初登板は圧巻だった。2004年3月26日、第76回選抜高校野球大会1回戦、対熊本工(熊本)。有は12三振を奪ってスコアボードにゼロを並べ、2―0と快勝。センバツ史上10年ぶり、12人目となるノーヒットノーランの快挙を成し遂げたのだ。

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センバツ1回戦の熊本工戦でノーノーを達成した(04年3月、甲子園)

 確かに、あの試合は打たれる気がしなかった。ストレートはうなりを上げ、変化球の切れ味は抜群だった。明治神宮大会に照準を合わせず、はなからセンバツを目標にしていた冬場の猛トレーニングの成果が出た。

 有には風格すら漂っていた。マウンド上で「俺はダルビッシュだ。高校野球界で俺がナンバーワンだ」といわんばかりのオーラだ。かわいかった顔つきも大人になった。ちょっぴりヒゲも生やしており「老けたな。生意気になったね」と突っ込むと、本人は「ヘヘヘ」と笑っていた。

対熊本工戦を観戦するダルビッシュの両親、ファルサさんと郁代さん(04年3月、甲子園)

熊本工戦を観戦するダルビッシュの両親(04年3月)

 この勝利に私はまずホッとした。「初戦は難しい」と考えていたからだ。04年、東北地方は雪が厳しかった。実は年明けから今大会のために甲子園入りするまでの2か月半、降雪の影響で一度もグラウンドで練習できなかった。だから初陣は心配だった。

 有には試合前、こうゲキを飛ばした。「今回は一度も外で練習しとらん。みんなの実戦感覚が不安やな。初戦が問題や。お前が頑張らんといけんぞ、有。ウチの打線はおそらく初戦はなかなか点が取れんぞ」。有は「分かりました」とうなずき、気合をより一層入れた。そして、見事に期待に応え、相手打線から一本のヒットすら許さなかった。もはや異次元のエースだった。

対熊本工、ダルビッシュと若生監督(04年3月、甲子園)

若生監督とダルビッシュ(04年3月、熊本工戦)

 2回戦(30日)は早くも“事実上の決勝”といわれた大阪桐蔭(大阪)戦。有→真壁賢守(3年)の継投で3―2で競り勝った。私の頭の中には優勝しかなかった。だが、ここで初戦のノーヒットノーランの大きな代償が…。有のコンディションに問題が発生した。

 準々決勝の済美(愛媛)戦前日の4月1日。「どうや、肩?」。私は有に尋ねた。

「思わしくないです」

「そうか。初戦頑張ったからな。じゃあ、5番で左翼を守れ。本塁へ返球する場面があっても、中継のカットマンに返していいけ。ダイレクトで本塁へ返球しなくていいぞ」

大阪桐蔭に勝利した東北高ダルビッシュ(04年3月、甲子園)

大阪桐蔭に勝利したときには笑顔のダルだったが…(04年3月)

 どのチームもエースは甲子園の初戦にどうしても張り切る。スタンドを埋め尽くす満員の大観衆、テレビの前で応援してくれる地元ファンのために、いい投球を見せようとする。加えて1回戦は是が非でも勝ちたいという気持ちが強い。それは仕方がないことだった。

 迎えた済美戦。私は先発に真壁を送り出した。初回に打線が3点を先行、2回にも1点を加え、試合の流れをグッと引き寄せた。この時点では試合後にぼうぜん自失となるなんて、つゆほども思わなかった。

有温存でサヨナラ負け…頭の中が真っ白に

 2004年4月2日、第76回選抜高校野球大会・準々決勝・済美(愛媛)戦。東北高は2回までに4―0と主導権を握り、8回を終わって6―2。ベスト4進出は目前だった。右肩痛の有に代わって先発した真壁賢守(3年)が力投。右横手からストレートがシュート回転して内角をえぐったかと思えば、横スライダーで外角を丁寧に突く。8回には146キロを計測していた。

広陵・西村健太朗

広陵から巨人にドラフト2巡目で入団した西村健太朗(03年12月、広島)

 素材としては有にはかなわない。だが、真壁は前年の第5回AAAアジア野球選手権大会日本代表に、1学年上の広陵・西村健太朗(のちにプロ入り)らと一緒に名を連ねた。他校なら間違いなくエースとなる右腕だ。

 それがまさかの…。9回、執念を見せる済美に2点を返され、6―4と詰められた。二死走者なし。あと一死。有への継投も頭にはあったが「真壁は8回に146キロを出した。最後まで行ける。有は準決勝、決勝の先発だ。この試合で無理させて肝心の決勝に響いてしまってはいけない」と考えた。

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(上)サヨナラ3ランは無情にもダルビッシュの頭上を越えていった、(下)涙しながら整列するダルビッシュ(04年4月、済美戦)

済美戦、涙を流すダルビッシュ(04年4月、甲子園)

 だが、真壁はそこから2連打され、高橋勇丞(元阪神)には何と左越えサヨナラ3ラン。打球は無情にも左翼を守る有の頭を越えていった。私は頭の中が真っ白になった。試合後、控室でうなだれた。誰とも話したくなかった。高野連の関係者から「若生さん、夏にまた来てね」と声をかけられたのを最後に記憶がない。どうやって宿舎に帰ったかも覚えていない。有をリリーフに送らなかったことに疑問の声はあるかもしれない。でも、自分が納得して采配した。今でも悔いはない。ただ、有とは話をできなかった。

 甲子園の借りは甲子園で――。リベンジを期すべく調整のピッチを上げた。6月。高知県内で行われた招待試合で名門・明徳義塾(高知)に4―2で勝利した。有→真壁のリレーでの快勝だった。敵将の馬淵史郎監督は「高知でやった試合では4年間負けなしだったんですけどね」と頭をかいた。私も「今度こそ優勝だ」と手応えをつかんだ。

横浜・涌井秀章(04年8月甲子園)

ダルビッシュと同級生の涌井秀章は横浜のエースだった(04年8月、甲子園)

 同月に秋田県内の招待試合では横浜(神奈川)と対戦。10回で0―0の引き分けだったが、同い年の涌井秀章(現楽天)と投げ合った有はMAX151キロを出した。もっとも本人は最速更新にも「ああ…そうっすね」と生返事で興味なし。主将としてチームを全国制覇に導くことしか考えていなかったようだ。このころには米大リーグ・メッツのスカウトらが東北高に来るまで注目を集めていた。

 選手たちには内緒にしていたが、私はその時すでに夏の甲子園で着るユニホームをベンチ入り18人分、ミズノに発注していた。7月の宮城県大会で負けるはずがないと思っていたからだ。ミズノ側には「仮に甲子園に行けなくても私がユニホームを買う」と伝えていた。そして、いよいよ、有にとって最後の夏がやってきた。

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わこう・まさひろ 1950年9月17日生まれ、61歳。宮城県仙台市出身。血液型=B。68年、東北高3年時に夏の甲子園に主将でエース、4番として出場。法大卒。埼玉栄監督を経て93年秋から母校の東北高監督に就任。95年に一時退任したが97年に復帰した。チームを春5回、夏は2回、甲子園に導き、2003年夏は準優勝。04年に退任後、06年から14年まで九州国際大付監督を務めて、11年センバツでは準優勝。15年から再び埼玉栄監督をつとめ19年勇退。家族は妻と2女。実兄は元阪神の智男氏。

※この連載は2012年3月6日から30日まで全15回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全5回でお届けする予定です。

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