見出し画像

ケンカは日常茶飯事、他校との戦いも多かった【石毛宏典連載#2】

連載TOPへ / 次の話へ

農作業の手伝いがイヤだったから野球部へ入部

 ケンカと野球――。私の中学時代の思い出はこの2つに尽きる。
 地元の旭二中に進学した私は野球部に入部することを決めた。どうしても野球がやりたかったわけではない。理由の一つは、早い時間に帰宅して農作業を手伝うのが嫌だったからだ。そこで部活の中で一番、遅い時間まで練習している野球部を選んだのだ。

 まだまだ厳格な縦社会が残っている時代だった上に学校も荒れていた。本宮ひろ志さんの漫画でしょっちゅうケンカをしている不良少年や学校を題材にしたものがあったが、まさにそんな雰囲気だった。

人気漫画家の本宮ひろ志氏(2005年5月、千葉・市原)

 校内でもケンカは日常茶飯事だったし、他校との戦いも多かった。学校には番長のような存在がいて他校とのケンカとなると「おい、隣町の中学とケンカだ! 野球部も人を出してくれ!」と集合をかける。すると、私たちも慣れたもので「よっしゃ、行くぞ」と腹に新聞紙を巻いて出陣した。顔を殴るとケンカしたことがばれてしまうので服を着ている首から下を攻撃するという“暗黙のルール”があったのだ。腹に巻いた新聞紙は防具代わりだった。

 野球部の上下関係も非常に厳しかった。毎日のように先輩から正座で説教されて殴られる。先生も荒っぽい生徒を相手にしていることもあって鉄拳を飛ばすことも珍しくなかった。顔を腫らせて家に帰っても父は理由を聞いて「そりゃあ、お前が悪い。殴られて当然だ」という感じだった。


 でも、私は逆境に燃える性分だったようだ。野球部に入った理由は「家に帰りたくない」ということだけでなく、厳しい環境の中で自分を試したいという思いもあった。だから、殴られれば殴られるほど「こいつらには二度と殴られるもんか」と反発して、逆に自分のエネルギーにしていた。

 プロに入ってからも監督に「下手くそ」と言われて闘争心を燃やした。独立リーグ創設に奔走している時も「無理だ」と言われて逆に「やってやろうじゃないか!」と決意を固くした。「見返してやる!」という反骨心が人生の節目で大きな役割を果たすことになるのだが、その精神は少年時代から私の中に芽生えていた。

西武時代の石毛氏。少年時代からの反骨精神が大きなパワーになった

 こんな状況で野球を続け、中学3年生の時には旭市や銚子市などの中学校が参加する東総地区の大会で決勝まで進んだ。チームも私自身もそれなりに力をつけていた。ただ、依然として私は野球が好きではなかった。兄が大工見習いをしていたこともあって「大工になるのもいいかな」と考えたり「高校ぐらいは出ておいた方がいいのかな」と進路を模索していた。その中で「野球は中学で終わりだな」と野球を辞めることだけは心に決めた。

 ところが…。野球から離れるタイミングを逸してしまう。担任で野球部の監督だった鷺山先生に「お前は市立銚子に行って野球をやれ!」と厳命されたのだ。野球に興味がないのに辞められない。すでに私は野球とともに生きていく運命だったのかもしれない。

甲子園優勝の銚子商と県決勝で大接戦

 4人との出会い、縁、タイミング…。人生はこうした要素で思わぬ方向に変わっていく。中学校で野球を辞めようと考えていたはずだったのに、高校時代から私の野球漬け生活がスタートすることになるのだ。

 その始まりは旭二中時代の野球部監督で担任だった鷺山先生の「市立銚子で野球をやれ」というひと言だった。私は「野球をやるなら銚子商じゃないのか」と首をかしげた。銚子商は千葉県内でも屈指の強豪で私が中学3年だった1971年の時点で春夏合わせて9度も甲子園に出場している常連校。野球を目的にするなら市立銚子よりも銚子商だと思ったからだ。

 実は市立銚子進学には“裏話”があった。鷺山先生と市立銚子の野球部・矢部監督が友人だった。折しも市立銚子が「野球部を銚子商に対抗できるぐらい強くしたい」と強化に乗り出そうとしていた時で、タイミングよく「旭二中にいいショートがいる」と私に白羽の矢が立ったのだ。

 偶然が重なる形で市立銚子に入学。朝から晩まで野球をする日々が始まった。始発電車に乗って早朝練習をして、放課後から再び練習。ボールが見えなくなるまで練習をして最終電車で帰宅した。睡眠不足を補うのは授業中だった。野球部を強化するという学校の方針もあって先生も「野球部の連中は寝かせておけ」と居眠りを黙認していた。幸か不幸か学校全体が私たちを野球に集中させてくれた。

 当然、学業の成績は上がるはずもなく、いつも赤点すれすれ。中学校の時の成績が良かったこともあって「入学した時は頭が良かったんだけどな」とよく笑われた。

市立銚子で主将を務めた石毛氏。3年夏は千葉大会準優勝だった

 私が入学した時、野球部の上級生は2年生が2人、1年生が12人という私たちの学年が常に中心のチーム。こうやって野球に集中できる環境だったおかげで確実に力をつけていた。とうとう3年の夏には千葉県大会の決勝で目標だった銚子商と対戦するまでになった。

 結果は0―2と惜敗。甲子園には手が届かなかったものの、当初の「銚子商に匹敵する野球部にする」という目標は達成できた。銚子商のメンバーはエースに土屋正勝(元中日)、2年生に篠塚和典(元巨人)、1年生に宇野勝(元中日)という顔ぶれ。銚子商の歴史の中でも最強レベルで、この夏の甲子園で全国制覇。私たちはこのチームに接戦を展開したのだ。

中日からドラフト1位指名の銚子商エースの土屋正勝(1974年11月、銚子港)

 ただ、私の夏にはまだ続きがあった。8月下旬に忘れることができない“屈辱感”を味わうことになる。日本一になった銚子商の凱旋パレードが行われることになり、そのセレモニーの中で私が土屋に祝福の花束を渡す役に指名されたのだ。「やりたくない」と必死に抵抗したが、認められるわけもなく悔し涙をこらえながらライバルに花束を渡した。

 私の高校野球はこうして幕を閉じ、この時も野球に区切りをつけるつもりだった。ところが、運命は私の思いとは違う方向に動いていく。野球のさらに奥深い道に導く“恩師”が次々と私の前に現れる。

連載TOPへ / 次の話へ

いしげ・ひろみち 1956年9月22日、千葉県旭市生まれ。市立銚子から駒大、プリンスホテルを経て81年に西武ライオンズにドラフト1位で入団。8回の日本一、11回のリーグ優勝に貢献。新人王(81年)、シーズンMVP(86年)、日本シリーズMVP(88年)、ベストナイン8回、ゴールデングラブ10回、14年連続球宴出場と輝かしい成績を残す。94年オフ、ダイエー(現ソフトバンク)にFA移籍。96年に引退。ダイエー二軍監督、オリックス監督を歴任。その後、四国アイランドリーグを創設するなど各地の独立リーグ設立に尽力。現在は野球教室「石毛野球塾」の塾長を務める。著書は「石毛宏典の『独立リーグ』奮闘記」(アトラス出版)。

※この連載は2012年5月8日から7月13日まで全40回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全20回でお届けする予定です。

カッパと記念写真を撮りませんか?1面風フォトフレームもあるよ