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アニメ「ウマ娘」ではBNWの誓い!ビワハヤヒデ・ナリタタイシン・ウイニングチケットのクラシックを「東スポ」で振り返る

 1993年のクラシックで「3強」を形成したビワハヤヒデ・ナリタタイシン・ウイニングチケット。それぞれの頭文字から取った呼び名「BNW」の三冠ロードは今でも語り継がれる名勝負の連続で、「ウマ娘」ではこの3頭をメインにしたオリジナルアニメも制作されました。同じ年に生まれた個性が異なる3頭が、どんなふうに成長し、どんなふうに出会い、どんな戦いを繰り広げたのか。「東スポ」を元に、名ジョッキーの物語を織り交ぜながら振り返ってみましょう。(文化部資料室・山崎正義)

1992年12月

 同期といえども産まれた牧場も違えば、所属厩舎も違います。3頭はレースを通して絆を深めていくのですが、実は3歳の3月まで、その運命は交錯していません。それぞれの立場で、別々の道を歩んでいました。

 ともに2歳の早い時期にデビューした3頭。まず脚光を浴びたのはビワハヤヒデでした。9月の芝1600メートルのデビュー戦を、2着に10馬身以上の大差をつけて圧勝。さらにもみじステークス、デイリー杯(GⅡ)も圧倒的な1番人気にこたえて楽勝します。

「来年のクラシックはこの馬だ」

 誰もがそう感じました。芦毛(灰色)だったことで、メディアは同じ毛色のオグリキャップやメジロマックイーン「再来だ」と書き立てます。ハヤヒデと同じくめちゃくちゃ血統が良いわけではないのにめちゃくちゃ強かったその年の2冠馬を引き合いに出し、「第二のミホノブルボン」と期待するファンもいました。そんな中、そのブルボンが3連勝でGⅠ勝利を飾ったのと同じ、年末の〝若駒ナンバーワン決定戦〟朝日杯(GⅠ)に登場したときはこの人気ぶり。

朝日杯・馬柱

 単勝1・3倍。2番人気が8・5倍でしたから、ダントツです。レースでは人気馬らしく、早めに仕掛けていきました。しかし、エルウェーウィンという3番人気の外国産馬にマークされ、叩き合いに持ち込まれたハヤヒデはハナ差で敗れてしまいます。

朝日杯

朝日杯・結果

「どんな勝ち方をするか」とワクワクしていたファンはガッカリ。記事では翌年のクラシック戦線が〝混戦必至〟になったと伝えています。当時はまだ外国産馬がクラシック(皐月賞、ダービー、菊花賞)に出走できなかったので、エルウェーウィンが主役になることもありません。「どうなっていくんだろう」と思っていたところ、メディアやファンは「もしかしてこの馬か!?」と感じさせるレースを目にします。ハヤヒデが敗れた朝日杯の2週後、有馬記念の日の中山競馬場で行われた2歳馬同士の競走です。

ホープフル・馬柱

 断然の印を集めている馬こそウイニングチケット。名伯楽の呼び声高い伊藤雄二調教師が送り出す期待馬で、3週前の条件戦をぶっちぎり、ここも2着に3馬身差をつけて楽勝します。多くの人が注目する有馬デーで、大物感たっぷりのレースぶり。しかも、歴史ある牧場で産まれ、血統も筋が通っていました。母方に名門の血が流れ、父はこの年から産駒がデビューし、旋風を巻き起こしつつあったトニービン。

「来年はこの馬かもしれない」

 1600メートルの朝日杯で負けたハヤヒデより、皐月賞と同じ2000メートルで楽勝した有望株に期待が高まるのは必然。チケットは、一気にクラシック候補生となり、目標をダービーに定め、休養に入ります。ハヤヒデも朝日杯の後はクラシックに備え、ひと休み。ではその頃、ナリタタイシンは何をやっていたか。はい、地道にレースを走り続けていました。

 実は3頭の中で最も早くデビューしたのがタイシンでした。2歳の7月に1走し、秋は10~12月の間に5回もレースに出走します。所属厩舎がレースを使いつつ育てる方針だったためで、タイシンにもこのやり方が合っていたのでしょう。小さい体で見栄えがしなかったので人気にはならなかったものの、7番人気や6番人気で2着に入りつつ、徐々に力をつけていき、年末のラジオたんぱ杯というGⅢで5番人気ながら見事な追い込み勝ちを決めます。ファンも関係者も「なかなかやるじゃん」。さらに年が明け、3歳になった1月にも休まずレースに出てきて、シンザン記念というGⅢでしっかり追い込んできて2着。トニービン同様、この世代から日本で子供を送り出したリヴリアという父から受け継いだと思われる末脚(追い込む脚)を武器に、〝小さいけどキレ味鋭い馬〟として、世代の〝第二グループ筆頭〟的な位置に収まりました。エリート感はありませんでしたが、若くして末脚という自分の武器を持っているのは強みです。「このまま成長すれば面白い」と考えたのでしょう。陣営は鞍上に天才ジョッキー武豊を迎え、クラシックに向かうことにします。皐月賞の前哨戦として選んだのは弥生賞。さあ、いよいよ運命が交わります。

衝撃の弥生賞

 力をつけてきたタイシンを待ち構えていたのはチケット。印も2頭に集まっています。

弥生賞・馬柱

 既に重賞で結果を残しているタイシンに対して、チケットはまだ重賞実績がありません。ただ、前述のように厩舎、血統、大物感にファンは期待したのでしょう。3・3倍の単勝1番人気に支持されます。タイシンは3・5倍の2番人気。しかし、結果はそのオッズ差とはかけ離れたものになります。後方にいたチケットは3~4コーナーで大外をマクリ気味に進出して一気に抜け出し、最後は手綱を押さえる余裕。それでいて、2着に突っ込んできたタイシンに2馬身差をつけたのです。

弥生賞

 大外を回ったロスがありながらのすさまじい爆発力はまさに大物感たっぷり。しかも、記者をうならせたのはこの日の仕上げです。プラス10キロと、明らかに体に余裕がありました。実は戦前、陣営の感触を本紙はこんなふうに記事にしています。

弥生賞・ヒットコメント

 85%の仕上げ――。それでいて楽勝だったのですから、メディアもファンもクラシック級だと確信したはずです。

弥生賞・結果

 記事にはレース後の伊藤雄二調教師が満面の笑みでこう語ったとあります。

「何度も言うようだけど85%のデキ。あくまでダービーでピークのデキになるよう馬をつくっていく」

 並々ならぬダービーへの思いを感じた周囲はあることを確信しました。

「柴田政人にダービーを勝たせるというのは本当だったんだ!」

 そう、実は伊藤調教師は、チケットと柴田政人ジョッキーのタッグにこだわっていたと噂されていました。関東のトップジョッキーで、数々のGⅠを勝っていながら、どうしてもダービーに縁がないまま44歳になっていた柴田騎手に「この馬でダービーを」とプレゼントしたのがチケットの背中だったというのです。5着に敗れたデビュー戦で鞍上に指名し、その後の2戦、柴田騎手の都合で乗れない時も、若手に代打を頼むようにしました。ベテランを乗せてしまったら、交代しづらくなってしまうからで、しかも、前述のホープフルステークスも、柴田ジョッキーを乗せるために出走したともいわれていたのです。関西の厩舎なので、普通なら前日に阪神競馬場で行われるラジオたんぱ杯(GⅢ)を選ぶはずなのに、あえて重賞ではない中山に馬を輸送してきたのには理由があった…。これはグッときますよね。しかも、狙い通りに馬も成長し、ダービーはもちろん、皐月賞も勝ちそうなほどのインパクトを残して、しっかりとクラシックという舞台の中心に躍り出たのですから、ファンもメディアも盛り上がりました。

「今年の主役はこの馬だ!」

 しかし、主役を譲るつもりがない馬が、同じく鞍上込みで対抗心をむき出しにしてきます。そう、ハヤヒデです。

若葉から皐月、3強へ

 年が明け、ハヤヒデの評価は急落しつつありました。朝日杯の敗戦は人気馬が徹底マークされたときに起こりがちな〝競馬あるある〟だったので「やむなし」だったのですが、2月に出走した共同通信杯というGⅢでも、まさかの2着に敗れます。単勝1・3倍の断然人気で、前に行く馬をとらえられず、2度目の取りこぼし。これには2つの声が上がりました。まずは…

「単なる早熟のマイラーだったのでは?」

 はい、これはもう1~2戦走れば分かることなので自然と答えは出ます。問題はもう1つの声。

「いや、騎手の乗り方も…

 乗っていたのは20代前半の岸滋彦ジョッキー。確かにキャリアや実績から、その声に真っ向から反論できる存在ではなく、馬主さんの意向もあったことから、陣営は乗り替わりを模索します。マスコミの間では当時、様々な名前が挙がりました。それは当然、岸ジョッキーとは違い、実績のあるベテランの名前、例えば元祖天才・田原成貴、ファイター・南井克巳…そんな中で最終的に陣営が依頼したのは岡部幸雄騎手でした。

ビワに岡部

 このnoteシリーズで紹介した名馬で言えば、シンボリルドルフタイキシャトルの主戦だった関東の名手です。陣営はまずはハヤヒデの背中を知ってもらおうと、出走を予定していた皐月賞トライアル「若葉ステークス」の週の最終追い切りに名手をお迎えします。

若葉・追い切り

 当初、岡部騎手もハヤヒデの実力に半信半疑だったそうですが、絶賛まではいかないものの、前向きなコメントを残しました。

「丈夫で素直。イメージ通りの馬だったよ。フットワークもしっかりしてるし、背中もバネもいい」
「今度の2000メートルは初めてだけど、問題ないと思うよ」

 陣営としてはホッとしつつも気が気ではなかったでしょう。頭を下げて名手に頼んだのに、馬自体が早熟のマイラーだったら、元も子もありません。レースで乗ったら、一瞬で見抜かれてしまうでしょうから、ある意味、背水の陣だったはずですが、ここでハヤヒデは名手を納得させるレースを見せます。1・3倍の1番人気にこたえた勝利は、成長力や距離適性の不安を吹き飛ばす楽勝劇。岡部騎手が手ごたえを口にしたことで、急落していた評価は一気に再上昇。皐月賞の構図は完全に固まりました。

「チケットとハヤヒデの一騎討ち!」

 タイシンは?とお思いの方もいらっしゃるかもしれませんが、現実は完全に2強でした。そりゃそうです。弥生賞でのチケットとの差は誰がどう見ても逆転できるようなものではなく、「勝負付けは済んだ」とみなされるもの。新聞での扱いも完全に2強で、皐月賞の週の追い切りがあった水曜の速報紙面がそれを証明しています。まず、1面がこれ。

皐月賞・追い切りBW

 デカデカと「勝つのはどっちだ」特集が組まれています。一方でタイシンは中のページの競馬コーナー。

皐月賞・追い切りN

 調子は良好で武豊ジョッキーも「前走はチケットを意識しすぎて仕掛けが早すぎた。今度はガマンして持ち味の末脚を最大限に生かしてやればチャンスはある」と語っていますが、2頭とは全く注目度が違いました。しかも、1面の記事によるとチケットもハヤヒデも好調で、陣営の感触も良かったのです。チケットはあくまで「最大目標はダービー」と言いながらも明らかに調子を上げており、「敵はハヤヒデ」と一騎打ち宣言。対するハヤヒデの浜田調教師も「ベストの仕上げ」「一騎打ちだと思います」と語りました。浜田師はさらに「自在性のあるぶん、多頭数のレースでは有利なんじゃないでしょうか」とも。弥生賞で大外をマクリ気味にぶち抜ける大味な競馬をしたチケットより、ソツなく先行できて操縦性の高いハヤヒデに分があると言っているわけです。皐月賞が行われる中山の2000メートルは小回りで先行有利が定説。スケールではチケットだが、器用なハヤヒデにもチャンスあり…そんな下馬評で皐月賞の出走馬が発表されました。

皐月賞・馬柱

 下馬評通りの印と言っていいでしょう。ハヤヒデには印がたくさんついているものの、◎はありません。単勝オッズは3・5倍のハヤヒデに対し、チケットが2・0倍。ファンもやはり、「ハヤヒデは堅実そうだけど、爆発力ならチケット」だと感じていたことが分かります。3番人気のタイシンは9・2倍ですから、完全に2強。ファンも、チケットとハヤヒデの動きを目で追いながらレースを観戦しました。特に、1番人気のチケットには、競馬界のスターになり得そうな大物感があったので、誰もが期待を込めて注目していました。だから、2コーナーを回り、向こう正面に入ったころ、中団の外めで、チケットがムキになっている様子が映っても、それほど気になりません。かかり気味には見えましたが、3コーナーすぎにスーッと上がっていったので、ファンは胸を高鳴らせました。4~5番手の外を余裕十分に先行していたハヤヒデの背後に迫ったとき、中山競馬場のボルテージが一気に上がったのをよく覚えています。そして、チケットが来たのを察した岡部騎手がハヤヒデを促しながら4コーナーを回り、先頭をうかがおうとしたすぐ後ろにチケットが接近していったときの大歓声もすごかった。

「一騎打ちだ!」

「やっぱりこの2頭だ!」

 先頭に立つハヤヒデ、追うチケット。「そのまま!」よりも「差せ」という声が多かった気がしますが、なかなか差は縮まりません。坂を上がります。必死に脚を伸ばすハヤヒデ、追いすがるチケット。

「そのまま!」

「差せ!」

 最後の力を振り絞り、根性でもう一度伸びたハヤヒデが、脚色の鈍ったチケットを振り切ったその時でした。

「あっ」

「あれは…」

 外からタイシン! 最後方に近い位置でじっとしていた武豊ジョッキーは、各馬が動いた3~4コーナーでも動かず、内をロスなく回り、2頭が勝ちに行ったことでバラけた馬群をさばいて馬を外に出していました。狙いは漁夫の利、すなわち「あわよくば」ぐらいだったでしょう。しかし、必死にトレーニングを重ねていた小さき名馬は、陣営が思うよりはるかに力をつけていました。中山の急坂をものともせず、自分より50キロも重いライバル2頭に襲い掛かったのです。

「うわっ」

「うわわ…」

 そうファンが驚いているうちに、タイシンは先頭に立っていたハヤヒデを差し切ってしまいます。

皐月賞1

 恐るべき切れ味。

 山椒は小粒でもぴりりと辛く、物語のプロットを大きく書き換えました。

 2強から3強へ――

 皐月賞のゴールは、「BNW」のスタートでもあったのです。

ダービーへ

 タイシンが真っ先にゴールを駆け抜けた瞬間の場内の雰囲気はやや微妙でした。チケットという新たなスター誕生を期待していたこと、勝ったのがライバルのハヤヒデでもなかったことに拍子抜けしたのでしょう。当然、タイシンの勝ちをフロック視する向きもありました。実際、〝奇襲がハマった〟のは間違いありません。しかし、レース後の天才の証言が、そんな声を吹き飛ばします。

「距離が延びても全く心配ありません。折り合いがついて前半リラックスして走れれば最後はかならずいい脚を使ってくれる。直線の長い東京コースはプラスでしょう」

 そこにはダービーへの明るい展望とともに、「今日のレースは馬の力がなければできない芸当ですよ」というニュアンスも含まれており、タイシンの評価は一気にハヤヒデとチケットに迫るものになりました。

 一方、ハヤヒデの浜田調教師も前を向いていました。

「ユタカにしてやられた。でも、よく走ってくれたし、悔しいけど満足感はある」
「どんな競馬でもできるのがこの馬の強み。プレッシャーにも強い。距離延長も心配ない」

 問題はムキになったことで体力を消耗し、4着に伸びあぐねたチケットです。

「もう少し前で競馬できないとダメだ。でも、レースにいって燃える性格なので抑えないと折り合い面が心配だし難しい」

 こう語った伊藤雄二調教師。精神面を克服しないと…という意味ですが、名伯楽の顔には「私に任せておけ」とも書いてあったといいます。やはり、この日のチケットのテンションはイレギュラーなもので、次は大丈夫。そもそもうちはダービーを100%になるように仕上げているのだから…というわけです。

 そんなこんなで、1993年のクラシックは、ダービーという頂点へ向けて、日本人が大好きな「3強」となりました。

 切れ味のタイシン

 堅実性のハヤヒデ

 爆発力のチケット

 どうですか、この漫画みたいなキャラ設定。明らかに個性が異なる3頭に、同世代のトップを争わせるなんて、競馬の神様はやはり名脚本家です。ちなみに、このレースぶりの違いはしっかり「ウマ娘」にも反映されており、特にハヤヒデの真面目さはその走りそのもの。タイシンも「体の小ささをずっと小バカにされ続け、速さで見返してやるとレースの世界に飛び込んだ」というウマ娘で、HPの公式キャラクター紹介欄に「カミソリのような鋭さ」とあります。チケットの爆発力やスター性も同様で、アツいキャラなのも史実通り。気性的な危うさは、闘争心の表れでもあり、皐月賞では裏目に出てしまいましたが、いい方向に振れたときは弥生賞のような爆発力につながるのです。

 一方で、この3強物語の盛り上がりを後押ししたもうひとつの要素を見逃すわけにはいきません。ズバリ、ジョッキーです。

武豊

若き天才・武豊

岡部幸雄

冷静沈着な名手・岡部幸雄

柴田政人

人情派の勝負師・柴田政人

 これまた三者三様。それでいて、3人とも当時の競馬界で5本の指に入る騎手、なんなら上から順にこの年の全国リーディングの1、2、3位なのですから、たまりません。しかも、武ジョッキーに至ってはアイドル的な人気を博していましたし、そのスマートな騎乗ぶりがタイシンの切れ味とマッチ。ハヤヒデの危なげのない、教科書通りのレースぶりも理論派でソツがない岡部騎手の十八番である「先行抜け出し」を体現しており、こちらも馬と騎手のキャラが合っていました。そしてそして、その2組のペアリングを上回るチケットと柴田騎手の関係性がストーリーを膨らませます。伊藤調教師が演出した「柴田政人にダービージョッキーの称号を」という思い。それは、競馬関係者やファンの思いでもありました。政人ジョッキーは誰よりも人間関係を大事にし、多くの人に慕われていたのです。トップジョッキーにとって、それは時に足かせ。どんな時でも先に依頼を受けた馬に乗ったそうですし、他のジョッキーからお手馬を奪うような乗り替わりも拒否したといいます。それは強い馬に乗るチャンスを自ら放棄していたようなもので、こんな声もありました。

「もっと騎乗馬を選べばもっと勝てるのに」

「ビジネスライクに動けばもっとGⅠを勝てる馬に乗れるのに」

 ダービーを勝つ可能性の高い馬を選ぶこともできたのに、政人騎手が今までそれをしてこなかったことを、競馬サークル内の人間はみんな知っていました。また、ファンの中にもそのことを知っている人はたくさんいましたし、何よりファンは政人ジョッキーの乗り方を信頼していました。どんな時も全力で、最後まで決してあきらめない。不利があったときなどに、無理をしない乗り方をする騎手もいる中で、どんな時も最後まで追いまくってくれる政人騎手は、命の次に大切なお金をかけて馬券を買う立場からしたら最も信頼できる男だったのです。

「勝ってほしい」

「年齢的にもラストチャンス」

「千載一遇のチャンスを逃さないでほしい!」

「でも…」と続けて、こんなふうに言う人もいました。

「どうしてこんな時に…」

「よりによって、どうしてこんなに手ごわい相手が…」

 そうなんです。ただし、物語的には面白すぎました。悲願の前に立ちはだかるのはこの先の競馬界を引っ張る天才か、同級生の名手。そう、岡部騎手は柴田ジョッキーと競馬学校の同期で長年、ライバル関係だったのです。立ちはだかるキャラクターとしては、これ以上の人選はないぐらい、パーフェクトなキャスティングの中、いよいよ、ダービーの週がやってきます。

BNW頂上決戦

 まずは追い切り速報の紙面からいきましょう。

ダービー・追い切り

 はい、同じページに3頭がしっかり並んでいました。しかも、3頭とも絶好調!

「すべて青写真通りにきたし、言うことは何もない」(ハヤヒデの浜田師)
「最高の仕上げだった皐月賞と同じ状態で、動きも申し分ない」(タイシンの武騎手)
「ダービーが100%になるように仕上げてきたつもり。皐月賞のころはひ弱さもあったが、ここにきて馬が充実してきた」(チケットの伊藤雄師)

 もう、ワクワクが止まりません。しかも、週末にかけ、各馬のストロングポイントが次々と明らかになっていきます。まず、ハヤヒデの浜田師によるこの言葉。

「ダービーのために共同通信杯で一度東京も経験させておいたんだ」

 あの取りこぼしがここで生きてくる可能性があるのです。そういうこともあるのか!と興奮したのを覚えていますが、チケットの伊藤雄師も興奮させてくれました。

「皐月賞は今思えば悪いことが多すぎた。中山入厩後にカメラのフラッシュ攻勢でカイバはあがるし(食が細くなる)、道中も折り合いを欠いてしまった。ただ〝ダービーを目標に仕上げる〟といった点に変わりはないし、今回は皐月賞を上回る満点のデキ。あとはマサトにすべてをかけるだけや。マサトだってダービーを勝つチャンスはそうないことをわかってる。なんとかプレッシャーに打ち勝ってもらいたい」

 おおおお!ですよね。ただ、木曜の本紙は、こんな1面をつくっています。

ダービー・木曜

 当の柴田ジョッキーがチケットに関して「折り合いにも自信はあるよ」と言いつつ、タイシンについてこう警戒しているというのです。

「一瞬の切れ味はウイニングチケットより上」

 迷わせないでくれよ!と言いつつ、ファンは楽しくて仕方ありませんでした。素人目に見ても、3強の力差はないように見えましたし、どうしても優劣をつけられません。でも、優劣がつけられない事象に優劣をつけようとする行為こそ、競馬予想の醍醐味。3頭が与えてくれた問いに、記者やファンは頭脳をフル回転させて答えを出そうとしました。考えて考えて考えて。寝ても覚めても考えて。それでも時間が足りず、気が付けばレースが迫っていました。

ダービー・馬柱

 これだけ3強3強と言っておいて、第4の馬を探そうとする記者がこんなにいたことに驚いておりますが(苦笑)、常に攻めの姿勢を崩さない本紙予想陣らしい印ということでお許しいただきつつ、どうかご安心ください。ファンはしっかりと3頭を僅差の1、2、3番人気に支持しました。そして運命のゲートが開かれたのです。

 最内1枠1番からスタートしたタイシンがすっと下げていきます。いつも通り、末脚を生かすための後方待機策なのは明らかで、まさにキャラ通り。同じく岡部騎手のエスコートで好ポジションを取ろうとするハヤヒデの自在性も〝いかにも〟でした。問題はチケットです。スタート後、かかるのを抑えながらも、政人ジョッキーは少しだけ手綱を押して馬を促していました。後ろからいきすぎても届かないからある程度の位置は取りたい。促すことでムキになってしまうリスクもあるのですが、勝負師はそのリスクを取りました。トレーナーの思惑通り100%に仕上がっていたチケットはそれに応えます。1コーナーで内に収まると、そこでじっとガマン。2コーナーへ向かう馬群の中団で、しっかり折り合いました。体調の良さが精神面の安定につながっていたのです。

 息を潜めるチケット

 右斜め前にハヤヒデ

 離れた後ろにタイシン

 完璧でした。さすが3強、さすが3人。まず、持ち前の先行力で3番手あたりを取ることもできたハヤヒデの7番手は心憎いばかりです。誰もが舞い上がるダービー、テンションが上がり気味の騎手に促された先行馬が息の入らないペースを作り上げていたため、巻き込まれると危険だったのですが、岡部騎手は冷静に〝その後ろ〟を確保していました。チケットの政人騎手の中団内も見事。先団の混沌から距離を置きつつ、どんな展開にも対応できる上にロスもありません。天才・武豊ジョッキーも、若いのに肝が据わっていました。この頃はまだ先団にいないとダービーは勝てないという古い常識があったので、少なくとも中団あたりにつけると思われていたのに、後方2~3番手。カメラがタイシンをとらえたとき、競馬場やウインズがざわめくほどの位置取りです。でも、微動だにしません。タイシンの切れ味を最大限に生かすには、ライバル2頭に勝つには、これしかない。末脚自慢の馬が、むやみに動いたり、普段より前に行くことで切れ味を鈍らせることを知っていたのです。しかも、3人の名手は、自らの任務を完璧に遂行しつつ、互いが確認できる位置にいたのですから恐れ入ります。3頭はそのまま、3コーナーを過ぎ、4コーナーへ。他馬が外を回って一斉に上がっていきます。

「誰が仕掛けるんだ…」

「一番最初に動くのは…」

 チケットがラチ沿いをじんわりと前へ。大観衆が沸きました。ちょうどハヤヒデの左斜め後ろに上がってくる形になったのです。

「マークしている!?」

「ハヤヒデ、チケットがきたぞ!」

 ファンが声を上げたのが聞こえたわけでもないでしょうが、岡部騎手が手綱をしごきはじめました。チケットを待ち構えていたように、上がっていきます。4コーナーを回りながら、下がってくる前の馬に邪魔されぬように、やや外へ。

「さあ、行くぞ」

 この日の東京競馬場は馬場の内側が荒れていたのも分かっていたのでしょう、岡部騎手がハヤヒデを安全な外に出しながら勝負をかけたのとほぼ同時…

「いけ!」

 負けじと政人騎手がムチを抜いたこの時、奇跡が起きました。馬場が悪く、誰もが避けていたことで、チケットの目の前がポッカリ開いたのです。モーゼが海を割ったかのような、誰もいないその一本道は政人騎手にどう映ったのか。何度も言います。馬場は悪いのです。脚色を鈍らせるぐらい悪い馬場に浮かんだ一本道。

 天国か、地獄か。

 勝利か、敗北か。

「いけーー!」

 突っ込んだ政人騎手。迷いのない叱咤に、チケットはここでためにためたパワーを放出しました。他の2頭にない爆発力――コーナーを回ったとき、チケットはワープしたかのように、2番手に上がっていたのです!

 これにはさすがの岡部騎手も驚いたでしょう。後ろにいたはずのチケットが、いつの間にか自分の前にいたのですから。しかも、政人騎手は、コーナーを回り終えた後、チケットをラチから3~4頭分ほど離れたところに誘導しました。荒れた部分で勝負はかけたものの、長い直線では馬場のいいところを走ろうとしたのです。この動きはなかなか珍しく、内から外に進出したため、ハヤヒデからすると前を横切られた感じになります。並のジョッキーなら焦ったでしょう。しかし、岡部騎手は冷静にその動きを確認すると、今度はチケットがいなくなった内を狙いました。そして、逃げた馬をかわし、先頭に躍り出たチケットを猛然と追い上げます。

「そのまま!」とチケットのファン。

「追いつけ!」とハヤヒデ応援団。

 一騎打ちに見えたその瞬間、第三の声。

「差せ!」

 その声を聞いて、チケットとハヤヒデのファンは戦慄しつつ、どの馬が差してきたかを察しました。チケットの右斜め後ろ。まさに叩き合いを始めようとしていた2頭のすぐ後ろに、いつの間にかタイシンが迫っていたのです。

「きた!」

「やっぱりきた!」

 ロスを最小限にしながらコーナーを回り、馬場のいい外めに出した天才。火花バチバチの2頭が上がっていったことによってできた道をスルスルと上がってきた皐月賞馬。小さな名馬は、この残り200メートル地点で武器である切れ味を使いました。

「差せーーー!」

 絶叫するタイシンのファン。

「いける!」

「差せる!」

 皐月賞の再現を確信したでしょう、そのぐらい勢いはすごかった。そして、時を同じくして、ハヤヒデのファンも確信していました。

「いけ!」

「いけ!いけ!いけ!いけ!」

 切れるわけではありませんが、持ち前のジワジワと伸びる脚で、内からチケットに並びかけます。追いつきそう。追い越せそう。

「いける!」

 ハヤヒデファンも、やはり勝利を意識したはずです。それぐらい力強かった。何せハヤヒデは、この時までスパートをかけていないのです。タイシンもそう。しかし、チケットは既に4コーナーで爆発力を使っていました。だから、脚色的には明らかにチケットの分が悪かった。タイシンとハヤヒデのファンが「勝てる」と思うほど勢いには差がありましたし、チケットのファンにもそれは分かったと思います。ガソリンは切れていた。脚は残っていないように見えました。でも、チケットはここから再び伸びるのです。ほかでもない、ともに鎬を削ってきた2頭に猛追されたからこそ、魂が再点火したのです。「なにくそ!」という声が聞こえるかのようなチケットの意地…この時、ゴールまで残り100メートル。ダービー馬まであと100メートル。3頭の脚色が同じになりました。

「タイシン!」

「ハヤヒデ!」

「チケット!」

 どの馬も譲りません。

「ユタカ!」

「オカベ!」

「マサト!」

 どの騎手も譲りません。

「いけ!」

「負けるな!!」

「がんばれ!!!」

 どのファンも譲りません。でも、次第に、おかしな気持ちになっていきました。いつの間にか誰もが3頭に向けて声をかけていたのです。応援している馬に勝ってほしいのに、ライバル2頭になら負けてもいい。いや、3頭とも負けてほしくない。

「がんばれ!」

「負けるな!」

「いけーーーーー!」

ダービー1

 体の大きさとか、毛色とか、血統とか、天才とか、戦術とか、悲願とか、そんなものはどこかに吹き飛ぶ意地と意地のぶつかり合い。3強だからこそ、3頭だったからこその伝説の叩き合いは今でも語り草です。ゴールに入った順番はチケット、ハヤヒデ、タイシン。でも、3頭同時にゴールに飛び込んだように見えたのは私だけではないでしょう。「マサト」コールが起こる熱狂の中、「ありがとう」「いいもの見たな~」という気持ちで拍手を送っていた人がたくさんいたことを記しておきます。そして私は、最終的な単勝オッズを見て、競馬を一生続けようと思いました。

 ナリタタイシン   4・0倍

 ビワハヤヒデ    3・9倍

 ウイニングチケット 3・6倍

 ダービーの馬柱を思い出してください。3強の中で最も印が薄いのがチケットでした。記者が冷静に判断したら、そうなるのはある意味、当然です。なぜかというと、3強の中で最も不安を感じさせたのがチケットだったから。陣営は大丈夫だとは言っていましたが、やはり、気性的な危うさ、大舞台で燃えすぎてしまうことによる体力の消耗が懸念されていたのです。優劣をつけられないから、マイナス要素が多い馬の印を薄くする…。私の周りでも、こんな声が聞かれました。

「ハヤヒデもタイシンも凡走はなさそう」

「大敗するならチケット」

「(馬券圏外に)飛ぶならチケットだろう」

 なのに、終わってみたら、1番人気はチケットだったのです。3・6倍という数字には明らかに「思い」が上乗せされていました。命の次に大事なお金をかけているのに、マイナス要素があるのに、最後はみな、心に従ったのです。

「柴田政人にダービーを!」

 なんて素敵なのでしょう。ギャンブルではありますが、やはり競馬はスポーツなのです。そして、スポーツには敗者がいることを知る政人ジョッキーは、ハデなガッツポーズをしませんでした。何度も何度も起こる「マサト」コールに包まれたウイニングランでも、表情を崩しません。コースから去る際、控えめに片手を上げて地下馬道に消えていった政人騎手に、さらに拍手が送られました。

 テレビでは、レースが終わった騎手が集まる検量室が映っていました。一番最後に戻ってきた政人ジョッキーに近づき、手を伸ばす岡部騎手。何言か言葉を交わす武豊騎手。3人がにこやかに健闘を称え合うだけではなく、他のジョッキーもみな笑顔だったのは、政人騎手の人柄ゆえでしょう。そして、勝利ジョッキーインタビューで「この喜び、まずはどなたに報告されたいでしょうか?」と聞かれた人情の男はこう答えました。

「世界のホースマンに、60回のダービーをとったシバタですと報告したい」

 スポーツなのは知っていましたが、我々は忘れていました。この素晴らしいスポーツは世界的なスポーツなんだと。

「すげぇ…」

 私はそうつぶやいていました。

ダービー・結果

菊への道

 激戦を終えた3強の次なる目標は当然、クラシックのラストを飾る菊花賞。馬がグングン成長するこの3歳春から秋にかけて、3頭は別々のやり方で、最後の頂を目指しました。

 まず、ナリタタイシンは、ダービー後も一気に体を緩めることなく、1か月半後の高松宮杯(GⅡ)に出走します。現在のスプリントGⅠ・高松宮記念の前身ながら、当時は芝2000メートル。この年は京都競馬場での施行でした。

高松宮杯・馬柱

 古馬とも戦う伝統のGⅡに、その年のクラシックホースが出てくるのは異例中の異例でしたが、そこは競馬界を沸かせた3強の一角。多くの◎を集めているように、年上の猛者が揃う中でも2・2倍の1番人気に支持されます。レースではいつも通り後方から追い込んできたものの、逃げ馬に追いつけず2着――。人気になっているのが追い込み馬のときに伏兵の逃げ馬が穴を開けるのは〝競馬あるある〟でしたから、敗れたとはいえ、内容的には全く悲観するようなものではありませんでした。むしろ、強い古馬を相手にしっかり結果を出したことで、本紙はこんな見出し。

高松宮杯・結果

 武豊ジョッキーも手ごたえを感じているようで、ライバルよりひと足先に菊への好スタートを切ったタイシンは、そのまま北海道にリフレッシュへ向かいます。その頃、チケットは既に北海道で英気を養っていました。じっくり休ませつつ、肉体面とともに、春に課題となった精神面の成長を待ったのです。

 対して、ハヤヒデだけは厩舎に残っていました。疲れを癒やしつつも、早々に練習を再開。暑い夏、厩舎のある栗東トレーニングセンターの坂路でみっちり鍛えられました。

「菊だけは譲れない!」

 3強で唯一の無冠であることに責任を感じていた浜田調教師の強い思いに応え、ハヤヒデの肉体はどんどん力強くなっていきました。調教も順調に進み、チケットより3週間早く、9月末に始動戦を迎えます。

神戸新聞杯・馬柱

 もちろん、断然の1番人気。単勝1・6倍に応え、2番手から楽々と抜け出しました。これがゴール前の写真ですが、皆さん、お気づきになるでしょうか?

神戸新聞杯

 注目はお顔。春までしていた赤いメンコを取り、素顔で走ったのです。実は優等生的なレースをしていたハヤヒデにも周囲を気にするなど、精神的に若い部分がありました。そのため、春まではメンコをしていたのですが、夏を越して落ち着きが増したため、外すことができたのです。外すことで、レースでの反応を良くする狙いもありました。瞬発力で他の2頭に劣ることを陣営も理解していたのでしょう。レースではその反応の良さを披露するまでもない楽勝でしたが、明らかに成長を感じさせる強さで、見出しにあるように、まさに満点の発進。このままローテーションにも余裕を持って11月7日の菊花賞に向かいます。

神戸新聞杯・結果

 一方、タイシンと、ハヤヒデよりゆっくり仕上げていったチケットは、10月半ばの京都新聞杯を目指していました。しかし、タイシンは10月7日の調教後、肺出血を発症してしまいます。

京都新聞杯・タイシン回避

 これは激しい運動により肺から出血してしまう症状(この血が鼻から出てきてしまうと「鼻出血」)。競走馬にとって珍しいものではないとはいえ、レースは回避せざるを得ません。というわけで、京都新聞杯は2強にはならず、1強に。体調的に全く不安がなく、予定通りのローテーションだったチケットが、圧倒的な支持を得ます。

京都新聞杯・馬柱

 焦点は「順調に秋を迎えたダービー馬がどんな勝ち方をするのか」、そして「精神面は成長しているのか」。後者を確認するためでしょうか、政人ジョッキーはチケットを馬群に入れ、どれだけガマンできるか試します。しかし、超スローペースの中、チケットはかなりムキになり、政人ジョッキーがなだめるのに苦労しているうちにいつの間にか内に閉じ込められてしまいました。「ヤバイんじゃないか?」と青ざめるファン。そんな考えられる最悪の展開をはね返し、チケットは絶望的な前との差を直線だけで大逆転します。

京都新聞杯

 やはり、爆発力はハンパじゃない…。ただ、それ以上に一部のファンや関係者には、気性が成長していないことが気になりました。

京都新聞杯・結果

 見出しにあるように、距離が3000メートルに延びる菊花賞では、ムキになることが大きな弱点になりそう…というわけです。しかし、逆に言えば、課題はそこだけ。政人ジョッキーがレース後に「春はフラフラすることがあったけど、秋になってそれがなくなった」と話したように、折り合いさえつけばさらにさらにパワーアップした爆発力を見せられる…とも受け取れます。また、気性が激しい競走馬は休み明け初戦はムキになるものの、2戦目で落ち着きを取り戻すことが多々あります。競馬のコメントでよく見かける「一度叩いてガス抜きができた」というアレです。何より伊藤雄調教師は本番に向けてきっちり仕上げてくる名伯楽。ダービーの時のように100%になれば、レースでのガマンが利く可能性も高いのです。不安はあるが、スター性も含め、やはりハヤヒデの最大のライバルはチケットになるだろう…そんな見方で菊花賞ウイークはやってきました。タイシンは出走を予定していたものの、肺出血の影響が残っており、体調がイマイチなのは誰が見ても明らかで、残念ながら、三冠最後のBNW決戦は、BW対決の様相を呈していました。

菊花賞・水曜

 まずは水曜日、チケットが追い切りで絶好の動きを見せます。伊藤雄師は、心配される気性面について、力強くこう宣言しました。

「京都新聞杯を使われてすっかり馬に落ち着きが出てきた」
「まるで心配していない」

 翌日、今度はハヤヒデが完璧な最終追い切り。

菊花賞・木曜

 岡部ジョッキーは冷静にこう断じました。

「風格、重みが出てきた。すべてにおいて前走とは違う。これなら」

 燃えに燃える浜田調教師からはアツい言葉がポンポン飛びます。

「当日は120%の状態に持っていける。自在性もあるし、皐月賞、ダービーに比べ、すべてにおいて勝つ要素が揃った」
「ダービーの借りを倍にして返す
「血統的にも距離は大丈夫なはず。何より他馬が一番気にする折り合い面という心配がない」
「勝ちをもらいにいくんじゃない。もぎとりにいくんだ!」

 3強の中で唯一GⅠタイトルを取っていない馬が3冠目で悲願の戴冠――筋書きとしては非常に美しいです。しかし、競馬がそんな簡単なものではないことも、多くの人は分かっています。気合が重圧になることは多々ありますし、ダービー馬ながら2強になっていることでプレッシャーが半分になっていることがチケットに有利に働く可能性もあります。もちろん、出るからにはタイシンにだってチャンスはありますし、未知なる距離である菊花賞では、時に意外な伏兵が浮上してくることもありました。

「ハヤヒデが一矢報いるか」

「それとも…」

菊花賞・馬柱

 他紙も、この本紙の印と似たような感じだったと記憶しております。残念ながらタイシンの体調は戻っておらず、厳しいのは間違いない。そうなると当然、構図は2強だが、ダービーの時と同様、気性的な不安を抱えるチケットより、中心はハヤヒデ――という見方です。単勝オッズはタイシン11・1倍に対し、チケットが2・8倍、ハヤヒデ2・4倍。ついに三冠最後にして初めてハヤヒデが1番人気になるのですが、ハヤヒデ推しの人々には少しだけ心に引っかかることがありました。

「2着タイプなのかも」

「もしかして善戦マンなんじゃ…」

 そうです。ハヤヒデのような〝勝ち切れない優等生〟は過去にたくさんいました。この手の馬は、どんな時でも必ず上位争いはするのですが、1着だけが極端に少ないのです。

「違うよな…」

「ハヤヒデは大丈夫だよな…」

 普段、真面目ばかりで損をしている人、どうやっても主人公になれず、脇役ばかりの人生を送ってきた人こそ、ハヤヒデに惹かれていました。自分はそうだけど、ハヤヒデには1番を取ってほしい。一矢報いてほしい。

「がんばれ!」

 そんな思いに背中を押されたハヤヒデは、好スタートを切ると、1周目のスタンド前で早くも3番手をキープしました。実況の杉本アナウンサーは「ビワの方がかかっているんでしょうか」と言っていましたが、まったくそんなことはなく、スローペースなので位置取りが前になっただけ。完璧なポジションで1コーナーを回っていきます。ハヤヒデの後ろにはチケット。さすがです。折り合っていました。3番手のビワに対し、6~7番手の内で虎視眈々。ふと目をやるとタイシンは後方2番手を走っています。

「〝らしい〟ポジションじゃん」

「なんだかんだいっても3強だな」

 レース中盤の、あのBNW的な位置取りは今見ても、感動的。そして、3~4コーナーにさしかかる頃、残念ながらタイシンはどんどん苦しくなってしまうのですが、ハヤヒデは強気に動きます。たまらず前をとらえにいき、真後ろでチケットが狙ってきているのも何のその、4コーナーを回りながら先頭に立って、一気にスパートをかけるのです。

「いけるのか…」

「突き放せるのか…」

 ファンの不安。そう、善戦マンはここから突き放せず、最後に差されてしまうことが多いのです。

「頼む…」

「最後の1冠ぐらい…」

「取らせてやってくれ!」

 ファンの祈り以上に、勝ちたかったのはハヤヒデ自身だったでしょう。そのために2頭よりもたくさん練習してきたのです。休みも取らず、必死に坂路を登り続けたのです。ライバルに負けないために、タイシンやチケットに勝つために。

「いっけーーー!」

 アッと言う間でした。瞬く間に後続に差をつけるハヤヒデ。その姿は、今までのジワジワ伸びるハヤヒデではありませんでした。鋭い反応とキレる脚。ライバルに勝つために、ライバルがいたからこそ、彼の能力は飛躍的にアップしていたのです。

 1馬身…

 2馬身…

 見る見る広がる後続との差。後方のまま、無理をしないようにしていた武豊ジョッキーを見て、タイシンのファンも声援を送りました。

「タイシンがダメならハヤヒデに勝ってほしい」

「タイシンのぶんまでハヤヒデに勝ってほしい」

 3馬身…

 4馬身…

画像35

 追いかけても追いかけても縮まらない差に、チケットのファンも心の中でエールを送りはじめます。

「そんなに強いんじゃ仕方ない」

「ハヤヒデなら仕方ない」

 5馬身…

 5馬身です!

 ぶっちぎりでした。前年の勝ち馬ライスシャワーが持つ芝3000メートルのレコードタイムを更新し、上がりタイムも菊花賞史上最速。下手したら善戦マンにすらなりそうだったハヤヒデは、ライバルと鎬を削ることで自らを高めに高め、既に名馬の域に達していたのでした。

画像36

「おめでとう!」

 ゴールの瞬間から湧き上がるハヤヒデへの祝福の声、声、声。そして、次第にそれはこんな声に変わりました。

「ありがとう!」

 ハヤヒデへ、チケットへ、タイシンへ。3頭がいたからこその3冠戦。3強だったからこそ、これほど熱狂できたことを、ファンはみんな分かっていたのです。そして、心の奥底で望んではいたものの、そううまくはいかないと思っていたからこそ、美しき結末に心を震わせたのでした。

 まさかの皐月賞

 感動のダービー

 雪辱の菊花賞

 そのゴール前がまざまざと脳裏に浮かびます。

 タイシン

最後のタイシン

 チケット

最後のチケット

 ハヤヒデ

最後のハヤヒデ

 BNWのクラシック物語は3頭が綺麗に3冠を分け合った大団円で、第2章に続きます。それはまた別の機会に。


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