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涙の引退、大日本、愛弟子成長篇!!【グレート小鹿連載#6・最終回+担当記者の取材後記】

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〈編集部よりお知らせ〉現役最高齢プロレスラー・グレート小鹿連載も遂に最終回。ここまですべて無料でお届けしてきましたが、最後だけ100円で販売させてください。というのも、本編につなげて読めるよう担当記者が新たに取材して「記者から見たグレート小鹿」(2800字!)を書いてくれたから。笑える裏話満載なのでココだけはお買い上げいただいた方限定のお楽しみ有料コンテンツとしたいのです。もちろん小鹿会長の本編は最後まで無料でお読みいただけますので、どうぞお楽しみください。

「もう試合に出なくてもいい」と馬場さんから〝解雇通達〟

 首を負傷した俺に馬場さんはこう告げた。「帰っていいよ」。あまりにそっけない言葉だ。後日、レントゲンを撮ると、医者から「あと1ミリずれていたら下半身不随になっていた」と診断されるほどの大ケガだった。それなのに――泣きたくなるほど冷たい対応だった。

小鹿引退興行は8200人満員(88年7月、北海道・函館市)

小鹿引退興行は8200人満員(88年7月、函館市)

 3週間ほど休んだ8月下旬、ようやく体が動かせるようになったので当時の自宅から近かった神奈川・相模原大会に顔を出し、馬場さんに病状を報告した。しかし返ってきたのは予想外の言葉だった。

「試合には出なくてもいい。もう(辞めても)いいから」

 事実上の解雇通達だ。数日後には追い打ちをかけるように、契約解除の連絡が入ってきた。馬場さんの話では、日本テレビから出向している役員が俺の解雇を決めたという。すぐに六本木の事務所に行き、その役員と直談判した。

 それで分かった。馬場さんはもう俺を必要としていない。新しい陣営も整い、もはや厄介者のような扱いだ。事実が分かれば決断は早い。俺は現役生活を続けることを諦めた。というか嫌気が差したんだ。

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函館で引退興行を行った小鹿。左はジャイアント馬場(88年7月31日)

 今になって何を…と思う人も多いだろう。今年の2月4日には馬場さんの「23回忌追善興行」(後楽園)にも出場した。一時期は誰よりも馬場さんに奉公したという自負もある。愛憎は表裏一体であり、時として深い確執を生む場合がある。その感覚は馬場さんのごく近くにいた人間にしか分からないだろう。遺言を残すと決めた以上、キレイ事ばかり残しても意味がない。だからこそ本音を語ろうと思う。

 思い当たる節はいくつかある。馬場さんは「イエス・サー」と答える人間しか周囲に置かなくなっていた。強い口調で意見を言う人間は、排除するという傾向が強くなった。俺はケガをする数年前までは運転手も務めるようになっていたが、ちょっと言葉が多過ぎるタイプだった。

 1980年代前半には不動産バブルがはじけ始め、怪しい人間が業界に現れだす。東スポにも掲載されたが、この時期に「練馬の不動産王」を名乗る人物が「馬場対猪木戦の勝者に賞金1億円」みたいなあおりをブチ上げた。エキサイトした俺は、栃木県の会場まで馬場さんを乗せた車内で「社長、絶対に勝てますよ。なぜ黙っているんですか」と迫った。答えは簡単だった。「俺は猪木と同じように見られたくない。それだけだよ」と答えるのみで黙ってしまった。この一件が心が離れる決め手になったのかなと今になって思う。

グレート小鹿引退記念パーティー(87年12月、品川のHパシフィック)

引退記念パーティーで胴上げされる小鹿(87年12月、品川のホテルパシフィック)

 引退を決めた俺はプロモーター業に専念した。1988年7月31日、地元の函館市千代台陸上競技場大会で全日本の大会をプロモートして自分の引退記念セレモニーとした。メインは鶴田、谷津組対ハンセン、ゴディ組の世界タッグ戦。満員8200人(主催者発表)は決して大げさな数字じゃない。俺は函館市内でパチンコ業でも成功していたから、チケットは売れに売れた。

 これは初めて話すことだが、俺が繁盛していると聞くや馬場さんは「俺もパチンコ屋をやろうかな」と言いだした。仕方ないから函館市内に馬場さん用に土地を探したよ、実現しなかったけどな(笑い)。そうして馬場さんとプロレス界とは一度、別れを告げた。

ジャイアント馬場が亡くなった日をドキュメントで伝えるこちらの記事もとんでもないボリュームでおすすめです!

 2018年4月には奥さんの元子さんも亡くなってしまった。あの人こそいい意味で女帝だった。元子さんがいたからこそ、馬場さんが批判されずに済んだ部分も多かった。馬場さんの葬儀(99年4月、日本武道館)では関係者として入場させてもらえないこともあったけど、もう全部水に流していいだろう。これまでは馬場さんについてネガティブな言葉しか吐かなかったが、今後は日本プロレス界のためにも馬場さんの功績を後世に伝えるように尽力したいと思う。
 
 遺言も次回で最終回だ。俺は最低でも1年は続けたかったが、担当者がもう限界ですと泣きを入れてきたから仕方ない。最後は大日本プロレスの未来と、俺自身のこれからについて話したい。

大日本プロレス旗揚げ!借金まみれの団体を変えた男は…

 1988年7月31日に故郷の函館で引退興行を行ったのを最後にプロレス界から一度身を引いた俺は、92年7月に天龍源一郎がWARを旗揚げすると、営業部長として呼ばれてプロレス界に戻った。そして95年3月には大日本プロレスを旗揚げする。

小鹿、ケンドー・ナガサキ、谷口裕一、大日本プロレス道場開き(94年12月、横浜市)

大日本プロレスの道場開きでケンドー・ナガサキと握手。右は谷口裕一(94年12月、横浜市内)

 横浜・鴨居に道場を構え、7人の選手とスタッフでスタート。年間90試合をこなしていたが、翌年からは赤字が重なり毎日何十万、やがて何百万という支払いに追われるようになった。

 いくら育ちが貧乏とはいえ、生まれて初めて背負う大きな借金には心底参った。2年目から深刻な経営危機に陥ると、俺は96年11月に現役復帰して坂本龍馬やゴルゴ13に扮して「コスプレ社長」と呼ばれるようになった。昔のネームバリューは健在で、後楽園ホールは満員になったし、97年1月4日新日本プロレスの東京ドーム大会に殴り込んでマサ斎藤と戦ったりと俺自身も楽しかった。

 しかしそんな時期は長くは続かない。2002年になると経営はさらに悪化して弁護士から「本日をもって会社をたたんでください」と言われた。だが20人にもおよぶ所属する選手やスタッフを捨てるわけにもいかない。あの手この手で会社を存続させた。そんな時期に一人の男の出現が団体を大きく変えてしまった。

 関本大介だ。

 それ以前の所属選手とは練習量と熱心さが桁外れに違った。99年3月に明徳義塾高校野球部から入門。基礎体力があったとはいえ、デビュー前から会場の片隅で果てしなくスクワットを続けている姿は感動的ですらあった。受け答えにしても「ハイッ!」という声が違った。道場全体の空気を関本が一変させ、レベルを向上させたんだ。

関本大介両国国技館19年11月4日

雄叫びを上げる関本大介(19年11月、両国国技館)

 関本は07年東京スポーツ新聞社制定「プロレス大賞」技能賞に選ばれた。この俺ですらもらったことがない栄誉ある賞だ。まさか受賞選手を出せるなんて、旗揚げ当時は思いもよらなかった。関本のデビュー戦の相手・伊東竜二は、茨城大工学部中退の長髪で暗そうなアンちゃんだった。何が得意かと聞くと「ジャンプです」と答えたので、デビュー戦まではリングの角でマットからエプロンを跳びはねる練習を続けさせた。伊東は09年に年間最高試合賞をいただいた。

伊東竜二(13年4月、後楽園)

伊東竜二(13年4月、後楽園ホール)

 関本にあこがれて自衛隊から入門したのが岡林裕二だ。彼は大日本から初の新人賞(10年)となった。翌11年には関本と岡林が最優秀タッグ賞に輝いた。身長規定があれば入門できなかったはずのアブドーラ小林まで敢闘賞(12年)をいただいた。来年には25周年を迎えるが、ここまで多くの選手が育ってくれたことは感無量というしかない。俺自身もまだまだ現役で負けてられんという気持ちになる。

アジアタッグを防衛した岡林裕二と関本大介(右)をねぎらう小鹿(11年4月、後楽園)

上がアジアタッグを防衛した岡林と関本(右)をねぎらう小鹿(11年4月、後楽園ホール)。下がプロレス大賞授賞式での吉田沙保里とアブドーラ小林(13年1月、八重洲富士屋ホテル)

プロレス大賞授賞式、吉田沙保里とアブドーラ小林(13年1月、八重洲富士屋H)



 残り短い人生の話をしよう。チャリティー活動は現役時代から続けていたが、11年3月の東日本大震災を機に本腰を入れることにした。14年6月には復興の祈りを込めて岩手・山田町に1万本のひまわりの種を植えた。6年前にNPO法人「資源を増やす木を植えましょう」(本部・札幌)を立ち上げ、利尻・礼文島での植樹から活動をスタートさせた。


 そして今年、運命的な発見があった。自宅のトランクから馬場さんが日プロ時代に吉村道明さんとインターナショナルタッグ戦専用に着ていたガウンが、約半世紀ぶりに出てきたんだ(1月22日発行本紙既報)。腰を抜かしたよ。

 ただ生地の痛みがかなりひどくて、修繕するまでは人様の前には出せないんだ。修復が終われば、馬場さんの功績を称えるため、故郷の新潟・三条市に何かしらの施設ができないかと考えている。馬場さんだけでなく、芳の里さんや吉村さんら、亡くなった日プロの諸先輩たちの功績を後世に伝える役割を担えればと思う。

馬場ガウン

幻のガウン発見を1面で報じた21年1月23日付紙面

 俺自身は6月に新型コロナウイルスにかかりながらも、無事に完治。ワクチンも打ったから、これで不老不死の身となったに違いない(注・そんな効果はない)。7月24日には20分を超える激闘を制して、新潟プロレスタッグ王座(パートナーはシマ重野)3度目の防衛に成功したばかりだ。現役選手として堂々たる姿を披露できたと思う。

 数年前から公言しているがギネスに(史上最年長現役記録を)認定されるまでは絶対に辞められん。80歳を過ぎても現役を続けるつもりだ。それが応援してくれたファンの皆さんに対する何よりの恩返しだと思う。いつ朽ち果てるとも分からん身を最後までプロレスにささげることをここに誓い、俺の遺言としたい。これからも応援よろしくお願いいたします。(終わり)

令和3年9月1日
グレート小鹿

小鹿とひまわり

14年6月に岩手・山田町にまいたひまわりの種は8月に大輪の花を咲かせた

【記者から見たグレート小鹿】何だか悪口を並べているだけの気もするが、小鹿会長への深い尊敬の念と愛情だと解釈していただきたい

 初対面は1990年代前半だった。小鹿会長は88年に引退セレモニーを行った後、プロレス界から離れていたが、ミスタープロレスこと天龍源一郎が92年にWARを旗揚げすると営業部長に就任。会場であいさつしたのが初めてだった。

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