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2000安打を達成させてくれた日本ハムには感謝の念しかない【田中幸雄連載#16・最終回】

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本塁打を幻にした私に新庄が満面の笑みでひと言

 札幌への本拠地移転の前年にあたる2003年オフ、チームに新風を吹き込む大物選手が加わることになった。新庄剛志である。大リーグのメッツ、ジャイアンツで3年間プレーし、04年シーズンから4年ぶりに日本球界へ復帰。ファイターズを選んだのは意外な気もしたが、今になって思えば、サプライズが好きな彼らしい選択だったと言える。

メッツ時代の新庄剛志(01年4月、アトランタ)

 日本ではセ・リーグの阪神でプレーしていたこともあって、それまで新庄とは面識がなかった。「あの新庄がファイターズに来るらしい」

 オフの合間に顔を合わせたチームメートと、そう言い合っていたことを思い出す。立ち居振る舞いはテレビでしか見たことがなかったので当初は目立ちたがりのキャラクターという印象も持っていたが、それは完全に誤解だった。

 新庄はプロフェッショナルだった。チームの中でも早い時間から球場入りし、試合前に一人黙々とマシン打撃を行う。ジムでは「下半身を太くしたくない」と公言していた通り、足腰部分を鍛えるトレーニングマシンは使っていなかったが、上半身を強化する運動はガンガンやっていた。あまり練習する姿を人には見せたくないようで、彼はなるべく他の選手がいない時間を見つけて誰よりも汗を流していた。

新庄のかぶり物パフォーマンス、左は森本(05年5月、札幌)

 あの「かぶり物」に関しても、新庄は周囲に気を使っていた。球場を沸かせるパフォーマンスを行う際、新庄は抜き打ちのようなマネはせずチーム内では事前に説明し、周囲の了承を得ていた。あくまでもパフォーマンスはファンを盛り上げるためのもので、自分のせいでチーム内がギクシャクしてしまうことだけは避けなければいけない。いつも新庄は、そういう心構えでいた。

ゴレンジャーで登場の新庄(黄)、森本(赤)、坪井(緑)、島田(青)、石本(ピンク=04年9月、札幌)

 実は新庄には迷惑もかけてしまっている。北海道移転1年目の04年。本拠地・札幌ドームで行われた9月20日のダイエー戦でのことだ。同点の9回裏二死満塁の場面で打席に立った新庄が左翼席へ打球を叩き込んだ。劇的な“サヨナラ満塁弾”――となるはずだった。

 一塁走者だった私は二塁へ向かう途中、興奮のあまりクルッと後ろを振り返って新庄に抱きつくと、そのまま互いに横へ一回転。抱きつく瞬間に“こっちに来ちゃ、ダメですよ”と言いたげに目を丸くして驚いていた新庄の顔が、今でも忘れられない。結果、新庄は前の走者を追い越したと見なされてアウト。三塁走者が本塁へ到達していたことでサヨナラ打にはなったが、私のポカによって本塁打は幻になってしまった。

 ロッカールームではサヨナラ勝ちで明るい雰囲気に包まれていたが、私一人だけ猛烈に落ち込んでいた。「本当に申し訳ない」と平謝りする自分に、新庄は満面の笑みでこう言った。

「何言ってるんですか! チームが勝ったんですよ! いいんです! 全然大丈夫ですよ。お願いですからもう気にしないでください」

 能力については言うに及ばず、性格もナイスガイ。新庄はまさしく超一流のプレーヤーだった。そんな彼が最近、47歳にしてNPB復帰を宣言して再び“時の人”となった。私は新庄なら、それも可能だと思っている。

なぜ試合に出られないのか…「衰え」とわかっていても認めたくなかった

 2004年から北の大地がファイターズの本拠地になった。もともと巨人ファンが多い土地柄で移転前は受け入れてもらえるか心配だったが、北海道の人たちは我々を大歓迎してくれた。

 日を追うごとにスタンドも満員に膨れ上がる日が増えていき、記念すべき移転1年目を4年ぶりAクラスとなる3位で終えた。翌05年は5位に沈んだが、06年はレギュラーシーズンを1位通過。プレーオフでは3位から勝ち上がってきたソフトバンクをアドバンテージの1勝を含めた3連勝で退け、25年ぶりのリーグ優勝を成し遂げた。続く中日との日本シリーズも4勝1敗で制し、球団としては東映時代の1962年以来、日本ハムになって初めての日本一に輝いた。

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