タッグで戦いやすかった選手ベスト3!猪木さんは…緊張しっ放し【坂口征二連載#14】
いきなりどついてきた覆面男が、あのマスカラスだった
1969(昭和44)年6月18日(現地時間)。米国・ロサンゼルスのオリンピック・オーデトリアムで3度目となる米国修行のスタートを切った。だが、あいにくリングドクターの健康証明書が間に合わず、この日はあいさつのみでリングを下りる。
この時、通路に待ち構えていた謎の覆面男が、私に対して挑発的な言葉を吐き、突き飛ばしてくるではないか。
その男は当時、US王者としてロスに君臨していたミル・マスカラスだ。後に「仮面貴族」と呼ばれるマスカラスだが、当時は「悪魔仮面」なる異名で呼ばれていた。
私とマスカラスは一触即発となったが、ミスター・モトさんが割って入り「こんなところで喧嘩せず、悔しかったら、サカ(坂口)の挑戦を受けてみろ」と一喝し、マスカラスを控室へと押し返してしまった。
こうしたレスラーの挑発行為には大抵、プロモーター側の意向が入っているものだ。だがその後、私がマスカラスのUS王座に挑戦することはなく、マスカラスとの遺恨も、いつの間にか雲散霧消した。
マスカラス本人が私の挑戦を嫌がったという説もあるが、きっと私とマスカラスの「サイズの違い」(坂口=196センチ130キロ、マスカラス=180センチ100キロ)に、プロモーター側が「好勝負は難しい」と判断しての処置だったのだろう。
翌々日の6月20日、同じくオリンピック・オーデトリアムの定期戦に無事、出場した私は“覆面の山男”オレゴン・ランバージャックを相手に、ロス再デビューを行い、カウンターの水平チョップで勝利した。
リングサイドには、私にワールドリーグ戦で国内初黒星をつけたボボ・ブラジルが陣取り、私に声援を送ってくれていた。ブラジルはこの日のメーンイベントであるUSヘビー級選手権(マスカラスVSブル・ラモス)の特別レフェリーとして、デトロイトから招聘されていたのだ。
Wリーグ戦で対戦したばかりのブラジルは、なぜか私の戦いぶりを気に入り、控室で再会するなり「オー、マイブラザー!」と笑顔で歓待してくれた。試合後には「試合運びもうまくなったぞ」と褒めていただいた。
後に聞いた話だと、ブラジルはWリーグ戦の期間中に、日本からデトロイト地区のプロモーターあてに「サカグチは強い。まだ若いが、トップクラスで使える選手だ」と手紙を書いてくれていたそうだ。
未知のテリトリー・デトロイト地区で、また一から出直す覚悟だったが、現地のトップ中のトップ選手であるブラジルの“推薦状”により、いきなりトップクラスの待遇を得ることができた。
とかく他人の悪口や、醜い足の引っ張り合いが多いプロレス界にあり、ブラジルのような人は貴重だった。リング内で激しく戦うことは当然としても「リングを下りたらブラジルのような紳士でありたい」と肝に銘じたものだ。
デトロイトでは、グレート小鹿さんが待っている。マスカラスへの挑戦が実現したら、すぐにでも飛んでいくつもりだったが、前述した通り挑戦のチャンスはない。
結局、6月29日のサンバナディーノ大会で“アラスカの海豹”マイク・リッカーを逆エビ固めで仕留めた私は、2戦のみを消化して、五大湖地区へと飛んだ。
6月30日にオハイオ州トレドに到着。家族を同伴して修行中だった小鹿さんはアパート住まい。私は近所でホテル暮らしをすることになった。
だが食事はもっぱら小鹿邸(?)を利用させていただいた。奥さんが作ってくれる手料理が最高においしく、ずうずうしくも毎日のようにアパートに押しかけ、お世話になっていたものだ。
小鹿さんとのタッグは息もピッタリ。ブラジルの推薦状の効果も大きかった模様で、7月28日のミシガン州バトルクリーク市大会では、早くもAWA認定USタッグ王座への挑戦を告げられた。
チャンス到来だ――。
プロレス転向から2年半で初戴冠、グレート小鹿さんのおかげだ
1969(昭和44)年7月27日(日本時間28日=バトルクリーク・シティホール)。
ボボ・ブラジルの推薦状という効果もあり、小鹿さんと私のタッグは、デトロイト地区(ミシガン州)入りから、わずか数日でAWA認定のUSタッグ王座への挑戦が決定した。
王者組はロッキー・ジョンソンと白覆面のベン・ジャスティス。ジョンソンとは、つい最近までWWEのトップ選手として活躍し、今は俳優としても活躍するザ・ロックの父親である。
私は上半身が柔道着、下は通常のタイツとシューズ、小鹿さんは田吾作スタイルに裸足というスタイルで出陣した。
試合形式は当時としては珍しい1本勝負。ニタリと笑って挑発してくるジョンソンに、カチンときた私は、怒りとともに突進するが、すぐに2人がかりの反則攻撃を食らい劣勢に…。慌てて飛び出す小鹿さんが、パンチとドロップキックを駆使して試合のペースを取り戻して私にタッチする。
場外乱戦からリングに戻った私は、ジョンソンをネックハンギングで持ち上げて揺さぶり叩きつけ、アトミックドロップで尾てい骨を叩きつけて3カウント。小鹿さんは私がジョンソンを持ち上げた瞬間、リングに飛び込むや、ゲタでジャスティスを一撃。場外へと叩き出していた。
新王者となった小鹿さんと私は、チャンピオンベルトを手に堂々と王座奪取をアピール。プロレス転向から2年6か月、私にとって初のチャンピオンベルトだった。飛躍のきっかけを作ってくれたブラジルも、まるで我がことのように王座奪取を祝福してくれた。
この頃、私が好調だったのは、ほぼ毎晩のように小鹿さんのアパートに立ち寄り、奥さんの手料理で魚、肉、野菜とバランス良く栄養補給させていただいていた効果が大きかった。そのほかにも小鹿さんとの思い出話は尽きない。
王座奪取の8日前の7月19日には、午後3時からのシンシナティでの試合後、すぐに小鹿さんと2人してデトロイトへと向かったのだが、横から飛び出してきた車に激突して車が大破…。
小鹿さんは「まだ買って2か月のニューカーなのにィ…」とボヤくことしきりだったが、幸いにして2人ともカスリ傷ひとつ負わなかった。もっともその晩のデトロイト大会はキャンセルになってしまったが…。
また、小鹿さんは日本プロレスきっての名コーチでもある。ほとんどの先輩は、後輩を厳しくシゴきはしても「実際にリング上で、どのように動くべきか?」「こういった場面でどのように対処すれば、観客席がヒートアップするか?」などと細かいポイントを挙げ、具体的な技術を教えてくれることは皆無。
昔から、よく言われる「技は盗んで覚えろ」が圧倒的に主流の中、小鹿さんだけは違った。試合と直結した実戦的で、細かい技術を懇切丁寧に教えてくれたものだ。
確かに「盗んで覚える」というのも一理あるし、先輩の技術を盗んで覚える能力がない選手は成長もしない。だが入門と同時に海外修行に出てしまった私のような選手にとって、小鹿さんの指導が、どれだけありがたかったことか。今も私は、小鹿さんこそ、日プロきっての名コーチだったと確信している。
小鹿さんとのタッグでUSタッグ王者となった私は、リングネームも正式に「ビッグ・サカ」と改め、小鹿さんと同じく田吾作タイツと裸足という格好で戦い始めた。入場時には柔道着とゲタを着用した。
防衛戦もヘルズ・エンジェルズ(1号、2号)らを相手に勝ち続けた。
この頃、勝利とともに小鹿さんが、まるで阿波踊りのような「勝利のダンス」を舞うのが恒例となっており、隣にいる私は、笑いをこらえるのが大変だった――。
デトロイトでの活躍が認められWWWFから声がかかった
1969(昭和44)年8月。グレート小鹿さんとのタッグでAWA認定USタッグ王者となった私は、順調に防衛戦を重ねていた。
小鹿さんとのタッグは、とても戦いやすい。アイデアマンでもある小鹿さんは毎日、様々な戦法を駆使して、ファンを飽きさせなかった。後に私は吉村(道明)さん、馬場さん、猪木さん、カブキ(高千穂明久)さん、ストロング小林さん、長州力と様々なタイプの選手とタッグを組むことになるが、戦いやすさという点では吉村さん、馬場さん、小鹿さんがトップ3だった。
カブキさんとのタッグも同世代の九州人(カブキは43年、宮崎県延岡市出身)とあって気心は知れていた。
小林さんとのタッグは得意技がベアハッグ、アトミックドロップ、逆エビ固めと、かぶりまくっているため、普通ならばタッグ自体が成立しづらいはずなのに、不思議とうまく回転していた。きっと小林さんが私に気を使ってくれていたのだろう。長州とのタッグは、私が指示する立場だったが、いいチームだったという自負はある。
ただ猪木さんとのタッグだけは、対戦相手だけじゃなく、パートナーの猪木さんの動向にも目を凝らす必要があった。猪木さんは常にひらめきで、思いもよらぬ行動に出ることが多い。従って、パートナーの私も一瞬たりとも気が抜けず、緊張のしっ放し。試合が終わるとドッと疲れたものだ。
さて、8月20日のデトロイト大会でヘルズ・エンジェルス1号、2号を相手に防衛戦を行った小鹿さんと私は快勝で防衛成功。この試合は、私が初めてネックハンギングツリーをフィニッシュに使ったことでも思い出深い。
翌日、小鹿さんと私はセントルイスへと向かった。ちょうど年に1度のNWA総会のため、日本プロレスの芳の里社長と遠藤幸吉さんが現地入りしており、面会しに行くためだ。
当地のクラニッジホテルには小鹿さんと私のほか、ジョージア遠征中の上田馬之助さん、テネシー遠征中の松岡巌鉄さんら在米組が全員集合していた。約2か月ぶりに顔を合わせた芳の里社長は「征二、次はニューヨークに行くか? お前もそろそろマジソン(スクエア・ガーデン=MS・G)に上がってもいいだろう」と言われた。
このNWA総会で全米中のプロモーターと顔を合わせた芳の里社長は、各地区のプロモーターと商談。どうやらニューヨークを本拠地とするWWWF(現WWE)のビンス・マクマホン代表(現WWE・ビンス代表の父親)が、デトロイト地区での私の評判を聞きつけ「ニューヨークに欲しい」と言ったようだ。
WWWFの看板選手でもあるゴリラ・モンスーンと春の「ワールドリーグ戦」で、3度引き分けた実績も大きかった様子だ。まだビデオなどが普及していない時代、日本帰りのモンスーンからの証言に、ビンス代表が心動かされたのだろう。私はWWWF王者ブルーノ・サンマルチノへの挑戦を胸に抱き、心弾ませた。
先のボボ・ブラジルの一件もそうだが、プロレス界の信頼関係とは、つくづく“口コミ”による効果が大きいのだ。
私だけでなく、小鹿さんはカンザス州へ、上田さんはテネシー州へと遠征し、松岡さんとのタッグ結成など、在米組の配置転換が言い渡された。私は、小鹿さんとのタッグをもう少し継続したかったが、小鹿さんは9月に入るとカンザス州へと出発。デトロイト地区に残された私はシングルプレーヤーとして再出発することになる。
この地区でのシングル戦線のトップ選手は、ボボ・ブラジルとザ・シークだ。ブラジルがヘビーフェース(正統派)のトップならば、シークはヒール(悪党)のトップ選手。
私は目標を、シークが保持するUSヘビー級王座に絞った。
小さくても強いやつ…私に冷や水を浴びせてくれたD・ホッジ
1969年9月。グレート小鹿さんがカンザス州へと転戦。一人、デトロイトを中心とした五大湖地区に居残った私は、シングルプレーヤーとして再出発した。
五大湖地区ではザ・シークとボボ・ブラジルを両横綱にビル・ミラー、アーニー・ラッド、ダニー・ホッジ、キラー・カール・コックス、フレッド・カーリーら強豪がシノギを削っていた。
目標は現地の看板・USヘビー級王座(デトロイト版)。大体、シークかブラジルの腰に巻かれていたベルトだ。当時のシークは選手とプロモーターを兼任しており、ビッグイベントにしか出場しない大物だった。
小鹿さんと離れた私にある日、有能なカナダ人マネジャーがつけられることになった。その名はジョージ・カノン。
158キロもある丸っこい肉体で「人間山脈」の異名をとり、レスラーとしても2度の来日経験を持つ。試合中に突然、大声で泣き出すというショーマンシップをウリに「クライベビー」の異名もあったそうだ。
カノンは大変、面倒見のよい好漢で、リング内外を問わずお世話になった。聞けばレスラーになる前は、モントリオールで喜劇役者として鳴らし、何度となくテレビや映画への出演経験もあったそうだ。
「オレは必ず、サカを世界チャンピオンにしてみせる。いつかマネジャーとして、世界チャンピオンを動かしてみたい。これはオレの男としての夢だ」と豪語し、モントリオールから家族を引き連れてデトロイトに来てくれたのだ。
毎日、試合場にはカノンの運転するオールズモビール69年型で移動。会場到着後はカノンの巨体を相手に打ち込みやスパーリング。試合中は言葉の壁を克服するため、リング下から「ピーッ!」と吹かれるカノンの口笛で「突っ込め」「押せ」「引け」「続けろ」「勝負だ」と合図を決めて戦うことにした。
私はカノンの操り人形、いや操縦する戦闘ロボットとして戦うだけ。これは好都合だった。
最高の軍師を味方につけた私は、シングル戦線でもラッドらに連勝を重ね、9月28日のオハイオ州デイトン大会では、ビル・ミラーとのタッグでボボ・ブラジル、フレッド・カーリー組にも快勝。この時、初めて恩人のブラジルからアトミックドロップで3カウントを奪うことに成功した。
連勝記録が17まで伸びた10月13日(現地時間)。オハイオ州コロンバス大会で、時のNWA世界ジュニアヘビー級王者であるダニー・ホッジとの一騎打ちが決まった。
ホッジとは9月20日のデトロイト大会でも対戦しているが、1対1からの引き分けに終わっている。ジュニアヘビー級とはいえ、現役のNWA世界王者を倒せば、大きな勲章となる。
私は野望に燃えていた。だが実は、ホッジのようなタイプは大の苦手。握力が異常に強く、ねちっこいレスリング(メルボルン五輪銀メダリスト)もボクシング(元ゴールデングローブ全米王者)の技術も天下一品。ホッジは、カール・ゴッチさんに輪をかけて、しつこいタイプだった。
私は正面から激しくガンガン殴り合う、クリス・マルコフのようなタイプとの戦いを好む。
1本目こそ空手チョップを乱打し、ネックハンギングで先制したものの、2本目はホッジの殺人パンチを受けてダウンしたところに、揺りイス固めを食らいギブアップ。
もはや後がない。焦る私はホッジのノドに地獄突きを叩き込んだが、この一撃で怒り狂ったホッジのパンチ連打を浴びてダウン。場外戦となったところで、ホッジのレバーブロックパンチを食らい再びダウン。そのスキにリングに転がり込んだホッジがリングアウト勝ちを収めた。
ホッジ戦の黒星で、五大湖地区での連勝記録は17でストップした。
世の中には小さくても強いやつがいる。上ばかり見ていた私に、ピシャリと冷水を浴びせてくれたのがホッジだった。
※この連載は2008年4月9日から09年まで全84回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全21回でお届けする予定です。