ボボ・ブラジルは頭突きだけで、どうやって試合を組み立てていたのだろう【坂口征二連載#13】
凱旋マッチで武者震い止まらず
1969(昭和44)年3月。「第11回ワールドリーグ戦」参加のため帰国した私は、翌日の公開練習でコーチのカール・ゴッチさんから、厳しい言葉でクギを刺された。
そこで翌朝から、体を大きくした分、失われたスタミナ、スピードを戻すため、エムパイヤ・ジム(旧リキパレス)での合同練習前にロードワークを徹底した。
朝7時30分に起床し、宿泊先のホテルニュージャパンを出発。弁慶橋から紀尾井坂を駆け上り若葉町(現・港区元赤坂付近)から権田原(交差点)へ。最後は神宮外苑へと走り抜けるコースだ。
春の祭典開幕を控え、ついに凱旋マッチの対戦カードが決定した。4月5日の開幕戦(蔵前国技館)。私は吉村道明さんとタッグを組み、白覆面コンビのメディコ2号&3号とタッグ対決することになった。
現在の「凱旋帰国マッチ」と比べれば、随分と地味な印象を受けるかも知れない。だが当時の日本プロレスには「少しばかり背伸びしても、派手に売り出そう」といった感覚はなかった。
一騎打ちでなく、大ベテランの吉村さんがタッグパートナーとしてサポートしてくれたあたり、当時の私は蔵前国技館の大舞台でいきなり戦わせるには、かなり危なっかしい存在だったのかも知れない…。
開幕まであと10日となった3月26日。今度は伊豆・今井浜で合同キャンプがスタートする。
メンバーはゴッチさん、大坪清隆さんの両コーチを筆頭に、吉村さん、猪木さん、星野勘太郎さん、山本小鉄さん、大熊元司さん、北沢さん、高千穂(明久=後のカブキ)さん、永源(遙)といった面々だ。エースの馬場さんはハワイキャンプ中で不在だった。
ゴッチさんの指導とあって、基礎練習が中心となる。この時、私の練習相手を徹底的に買って出てくれたのが猪木さんだった。私はデビューを控え、猪木さんもWリーグ戦初制覇に向け、燃えに燃えていた時期だ。
メディコ2号&3号とのデビュー戦に向けて緊張の日々だが、私もWリーグ戦の参加メンバーの一人だ。馬場さん、猪木さんだけでなく全員がライバルとなる。
この年のWリーグ参加メンバーは、日本勢が馬場、猪木、吉村、大木、星野、山本、大熊、坂口。外国勢がボボ・ブラジル、ゴリラ・モンスーン、クリス・マルコフ、ペッパー・ゴメス、メディコ2号&3号、ボビー・ダンカン、トム・アンドリュースという豪華版。対戦経験のある選手はダンカンのみだった。
4月4日の前夜祭(後楽園ホール)の開会式でいよいよリングに上がる。デカデカと名前が書かれたタスキをかけ、リングに上がると武者震いが止まらない。
米国で350試合も経験してきたにもかかわらず、緊張のあまりノドがカラカラ…というありさまだった。
思わず足をギュッと踏みしめたが、今度は右足小指のウオの目が痛む。米国では、ほとんどはだしで戦っていたため、シューズを履いてのリングイン自体が久しぶりとなることを実感した。
リーグ戦本番でぶつかる大物選手たちの対策を練る余裕はない。華やかな開会式が終わると、会場の片隅からヤマハブラザーズ(星野&山本)と戦うメディコ2号&3号の試合を観察していた。
反則も巧みで、何とも怪しい2人組。この時点で、どちらが2号で、どちらが3号かの判別もつかない。
このシリーズ中は、公式戦以外にも連日にわたってメディコスから標的にされ続けることになる。メディコ2号とは数年後、悲しくも変わったお別れをすることになるのだが、それはまた後述させていただこう。
いよいよ明日は、私がこの怪しい白覆面と戦うのだ。もう後には戻れない。やっちゃるけん!
初のメーンで馬場さんとタッグ!なぜか「ヒマラヤコンビ」と新聞に
1969(昭和44)年4月5日。ついに日本デビューの日が来た。
吉村道明さんとのタッグで、白覆面のメディコ2号&3号と対戦。会場の蔵前国技館は、春の祭典・ワールドリーグ戦の開幕とあって、超満員(1万2000人)の大観衆であふれ返っていた。
黄色いタイツに黒いシューズ。そして後援者の方に20万円もの費用をかけて作ってもらった、黄金のラメ地に銀色の帯の派手なガウンを身にまとい出陣を待つ。
メディコスは反則やラフをも巧みに操る百戦錬磨のタッグ屋。いったんペースを握られると、経験の浅い私などは、たちまちのみ込まれてしまう怖さがある。
思い切ってぶつかるしかない。あとはコーナーに控える吉村さんの指示に従っていれば間違いないと信じた。
はやる私を心配したのか?先発は吉村さんが買って出てくれた。すぐさまメディコスは2人がかりで吉村さんをコーナーに拉致。私はとっさにリングに飛び込み、2号と3号を蹴散らした後、4分すぎにタッチを受け、リングに飛び込んだ。正直、あとはよく覚えていない。ただ必死に吉村さんの指示通りに暴れただけだ。
水平チョップ、裸絞め、首4の字、フルネルソン。知る限りの技を駆使して攻めまくり、2号をアトミックドロップで叩きつけて3カウントを奪った。3号の乱入は、キッチリと吉村さんがカットしてくれていた。
試合後の記者会見。吉村さんは「坂口が一人でやってくれたよ」と大笑いし、私を持ち上げてくれていた。だが実際は“タッグの達人”吉村さんが、キャリアの浅い私の勝利をおぜん立てしてくれたようなモノだった。
緻密な技の組み立て、ペース配分など、とても意識する余裕はない。だが、日プロの諸先輩方は私の荒々しさを高く買ってくれていたようだ。
デビュー戦を勝利で飾り、万々歳といきたいところだったが、この日は馬場さんがゴリラ・モンスーンに圧殺され、猪木さんもボボ・ブラジルの頭突きに沈み、両エースが痛恨の黒星スタート。とても日本デビュー戦勝利に浮かれるようなムードではなかった。
そして翌日(4月6日)の新潟大会。私もトム・アンドリュースを相手にWリーグ戦公式戦の初陣を飾る。目潰し、パンチのラッシュにやや面食らったが、アトミックドロップで快勝。リーグ戦初白星を手にした。
現在のように公式戦のみが凝縮された日程と違い、全部で40戦近い長丁場の巡業が続くWリーグ戦の中で、公式戦出場はわずか。あとはタッグマッチや、公式戦で戦ったばかりの選手とまた、普通のシングル戦でぶつかるケースも多い。
4月6日に公式戦の第1戦を終えると、次の公式戦が4月24日(出雲)までないなんて、現在のプロレス界では考えられぬことだろう。
それでも選手としては初めての国内巡業は、見るもの聞くもの珍しいモノばかり。宇野(岡山県)から高松(香川県)に移動するフェリーの中、晴れた青空と潮風に吹かれつつ猪木さんから生ビールをおごってもらい、ジョッキ3杯を飲み干したのも懐かしい思い出だ。
高松大会(4月19日)では馬場さんとタッグを結成し、ボボ・ブラジルとメディコ2号組と対戦。馬場さんとはロスで1回だけタッグを組んだ経験があるが、国内では初めて。また、この試合が私の初のメーンイベント出場試合となった。
試合は1本目が反則勝ちで、2本目が馬場さんが16文キックで2号を下してストレート勝ち。馬場さんと私のタッグは後に「東京タワーズ」と呼ばれるが、次の日の新聞では、なぜか「ヒマラヤコンビ」と称されていた。
馬場さんも私も、特にヒマラヤと縁があるわけではない…。
凶器頭突きを食らい大流血する私の姿にオフクロは涙
早いもので、当連載をスタートして1年が過ぎた。少年時代の話から始まり、ようやく国内デビュー戦までたどり着きましたが、まだまだ本番はこれからです。
今後、3度目、4度目の米国遠征。帰国後、黄金時代を迎える日本プロレスを襲った猪木さん、馬場さんの離脱劇、プライベートな話題では結婚したのもこの頃。そして新日本プロレス移籍の真相、新日プロを襲ったリング内外の事件など、東スポさんの紙面と連載期間が許す限り、書きつづっていきたいと思います。どうぞお楽しみに!
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さて、話を40年前の1969(昭和44)年4月に戻そう。米国修行から凱旋帰国した私は日本デビュー戦を終え「第11回ワールドリーグ戦」の公式戦を迎えた。
第1戦はトム・アンドリュース(4月6日、新潟)に快勝。2戦目もペッパー・ゴメス(4月24日、島根・出雲)に快勝。続いて連日、因縁の深まるメディコ2号(4月30日、熊本)、メディコ3号(5月5日、福岡)にも連勝して4連勝。上々の滑り出しだ。
メディコ3号と戦った福岡スポーツセンターは高校時代から柔道の大会で何度も利用させていただいた愛着のある会場だ。
当日は超満員の札止め。地元とあってオフクロ(勝子さん)をはじめ、家族や親せき、友人たちが多数かけつけてくれた。
だが柔道時代とは大違いで、マイクのコードで首を絞められ、さらに覆面の中に仕込んだ凶器頭突きを食らい大流血する私の姿にオフクロは涙を浮かべていた。
その夜は永源(遙)を伴って、約2年ぶりに久留米市内の実家に里帰り。家族全員と親せき一同に囲まれ、久々に「オフクロの味」を堪能させてもらった。
5月8日の姫路大会では、猪木さんと初タッグを結成し、ボボ・ブラジル、アンドリュース組と対戦。私は序盤戦から公式戦4連勝と好調だったが、やはりリーグ戦最大の難敵はブラジルとゴリラ・モンスーン、そしてクリス・マルコフだ。ブラジルは大きい体から、ゴツンゴツンと、まるで鉄球のような頭突きを打ち込んでくる。
得意技は頭突きのみ。例えば“鉄の爪”フリッツ・フォン・エリックならば、必殺技のアイアンクローの前に繰り出してくる、重たく内臓までズシンと響くストンピングの印象も強いが、ブラジルに関しては頭突き以外の印象が全くない。
一体、ブラジルは頭突きオンリーで、どうやって20分、30分を超えるような試合を組み立てていたのだろうか?
もしビデオでも残っていたなら、見てみたい。当時とは比較できぬほどプロレス技術が複雑化した現在にこそ貴重なはず。そこに現在のプロレスから失われた「シンプル・イズ・ベスト」が隠されている気がする。
5月9日の福井大会では、ついにブラジルと公式戦対決を迎えた。裸絞めであと一歩まで追い込んだものの、離れ際に頭突き2発、そしてココバットを叩き込まれて玉砕…。このブラジル戦が国内初黒星となった。
クリス・マルコフとの公式戦も敗れて2敗目。この時点で「初出場、初優勝」の夢は遠ざかる。ガンガンと仕掛けてくるマルコフは私にとって、最も燃える、戦いがいがある外国人でもあった。
ボビー・ダンカンからは白星を奪ったものの、ゴリラ・モンスーンには両者リングアウト。私は5勝2敗1分けの戦績で初出場のWリーグ戦を終える。この年のWリーグ戦は、馬場さんと同点で並んだ猪木さんが決勝でマルコフを卍固めに下して初優勝。日本プロレスに、新時代の波が押し寄せつつあった。
私は猪木さん、馬場さん、吉村道明さん、大木金太郎さんに続く「日本勢5位」という戦績を勲章に、再び米国修行に出発する。
今度の修行先はデトロイトを中心とした五大湖地区。この地区はプロモーターのフランシス・フレーザー氏と選手兼ブッカーの“アラビアの怪人”ザ・シークが牛耳るテリトリー。出発前から「血の戦い」を予感させられた。
馬場さん、猪木さんと初トリオ結成!
1969(昭和44)年5月。猪木さんの初優勝で幕を閉じた「第11回ワールドリーグ戦」だが、それでシリーズが終わったワケではない。
その後も「Wリーグ追撃戦」と称し、リーグ戦参加メンバーとの巡業が続いた。巡業の規模が小さくなる一方の現在では考えられないことだが、あの頃は「興行を打てば、お客さんが満杯」というのが当たり前の時代。当時は「それが当然」と特に意識もしなかった。馬場さん、猪木さんという両エースを擁する日本プロレスは空前の人気に沸いていたのだ。
そんなプロレス人気の恩恵か?私のワガママが通り、3度目の米国修行に出発することが許されたのだった。
5月17日の長野市大会では馬場さん、猪木さんと初トリオを結成し、ボボ・ブラジル、クリス・マルコフ、メディコ2号組と対戦し勝利。5月19日の浜松大会ではボビー・ダンカンと一騎打ちを行いアトミックドロップで勝利。この試合を最後に私は巡業を離れ、渡米の準備に入った。
話は脱線するが、この頃、日本プロレスが仙台で常宿としていたのが「森末旅館」という大きく立派な旅館だった。
とても家庭的な旅館で、夕飯の時間まで我慢しきれぬ、私のような若い選手は、よく台所や座敷に上がりこませてもらい、ご家族とともに、ちゃぶ台でご飯をいただいたりしていたものだ。
森末旅館には、まだ小学生のかわいらしい娘さんがいて、私もよく遊んであげたりしていた。この娘さんが、現在、歌手やタレントとして幅広く活躍されている森公美子さんだ。
よくテレビ番組なんかで、私を「初恋の人」に挙げてくれているそうだ。つい先日も警視庁主催の交通安全イベント(東京・調布市)で、ご一緒したばかり。
その時に「初恋の真相」について聞いてみた。当時、彼女は大木金太郎さんに連れられて旅館から会場(宮城県スポーツセンター)に行ったものの、その大木さんは外国人選手に流血させられて救急車送りに…。
小学生の森さんは全試合終了後にポツンと1人、会場に取り残されてしまったそうだ。そこに彼女を迎えに来て、手をつないで旅館へと連れ帰ったのが、若き日の私だったという。それが彼女の初恋だったんだとか。私自身は全く記憶にないことなんだが、まあ名誉なことだ。
今もテレビ等で活躍されている森さんの、当時とは比べ物にならないほど「大きくなった」姿を見るにつけ、つい当時の仙台巡業のことを思い出してしまう。
さて、次の修行場所はザ・シークがブッカー兼選手として牛耳る、デトロイト(ミシガン州)周辺の五大湖地区。荒っぽさで売るテキサス地区とは、また違った形で「無法地帯」と呼ばれるテリトリーだ。
まずは6月17日にロサンゼルス入りし、しばらく西海岸を転戦した後、7月中旬から五大湖地区入りするというスケジュールだ。
すでに現地で大悪党ぶりを発揮していたグレート小鹿さんからの国際電話でアドバイスを受けていた私は、さっそく両国へと出かけ、15文サイズのゲタを2足、入場コスチューム用に浴衣を数着購入した。
6月17日(現地時間)、ホノルル経由でロスに到着。空港ではミスター・モトさんの奥さんであるヨネコさんが出迎えてくれた。私は翌18日のオリンピック・オーデトリアム定期戦で、1年半ぶりにロスマットに復帰することが決まっていた。
ところが当日になって、リングドクターによる健康証明書が間に合わないことが判明し、試合は不出場。仕方なく、リング上であいさつのみを済ませて控室へと引き揚げた。
その時だ。通路に立っていた覆面の男が「ヘイ、ボーイ」とスパニッシュなまりの英語で、何やら挑発してくる。私が「ユー、ガッデム!」とやり返すと、覆面男は、いきなり私を突き飛ばしてくるではないか。
謎の覆面男とは――。
※この連載は2008年4月9日から09年まで全84回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全21回でお届けする予定です。