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ジャイアント馬場さんを歴史上の人物に例えるなら西郷隆盛【ターザン後藤連載#1】

 オレの人生、ジャイアント馬場さん抜きには語れない。
 
15歳で上京し、とある新聞広告で全日本プロレスの新弟子募集を見つけた。あこがれの馬場さんに会えるチャンスだ。

 もともと4~5歳の時からBI砲を見ていて、このころからプロレスラーになろうと決めていた。近所の子供たちはキャッチボールしていたが、オレは親父とプロレスごっこに没頭し、十六文キックや水平チョップをよくマネしていた。

ターザンは馬場さんの付け人を務めていた

 すぐに応募して、馬場さん直々の面接を受けることになった。両親同伴だったが、控室は女人禁制。母親は外で待機。親父と2人で扉を開けると、足を組んで葉巻をくわえた馬場さんが座っていた。体の大きさに、ただただ圧倒されてしまった。

 どれくらい時が流れたか…。馬場さんは無言のまま。「何を言われるのか」と身動き一つできないオレの体を上から下までなめ回して、意外な言葉を投げかけてきた。
「学校は卒業したのか。お父さんが『いい』って言うならいいよ」と入門を許可してくれた。

 付け人の手伝いを任されてからは、失敗の連続だった。当然、誰よりも先に会場入りしなければならないのに、ある時、疲れ切っていたオレはバスの中で熟睡。運転手の声で目を覚まし、急いで足元に置いた救急箱を手に飛び起きると、あろうことか、前に座っていた馬場さんの頭にそれを直撃させてしまった。

 ほかにも、馬場さんの頭に手を乗せて立ち上がってしまったり、馬場さんの肩を枕にして寝ちまったこともあった。

 でも馬場さんは若造の不手際を笑って流せる、寡黙で寛大でおおらかな人だった。歴史上の人物に例えるなら西郷隆盛。小さなことじゃ怒らない。

馬場さんとの約束を破って破門されかけた

 そんな優しさを象徴する出来事がある。当時の全日プロは、デビュー戦前にバトルロイヤルに出るのが恒例で、先輩たちがオレの出場を打診してくれたけど、馬場さんは「まだ早い」と一蹴。ショックだった。でも2~3か月して馬場さんが、2足のリングシューズを発注したんだ。1足は馬場さんのもの。もう1足はオレの分だ。言葉に出さない優しさ。たまらなくうれしかった。

 でも、プロレスにかける情熱は凄まじい。2か月に1回ぐらいの割合で事細かに指導された。フォールの仕方ひとつをとっても、徹底的に教え込まれた。

「大技はいくつも必要ない」「大一番では観客のド肝を抜く技を使え」「日常生活の中でも常に試合をイメージしろ」「酒は飲むな」…すべて馬場さんに教わったものだ。

馬場の練習指導を受ける後藤(下)、川田利明(奥)ら(1982年6月、新潟・長岡)

 馬場さんとの約束を破って、未成年なのに越中詩郎さんと名古屋で酒を飲んで破門されかけたこともある。酔ってホテルに戻ったところを馬場さんに見つかって「今度やったら二度と会社に来るな」。

 ところが2度目には「お前もう飲んでもいいよ」。殴られるよりもズキンと心に響いた。結局、成人しても馬場さんの前で堂々と酒は飲めなかった。

 亡くなって7年たった今「王道」と言われるリング(キングスロード)にオレは戻ってきた。里帰りした気分だ。本当の全盛期の馬場さんを知っているオレが「本当の王道」をファンの人に見せつけてやります。それが馬場さんへの恩返しだと思っている。

※この連載は2006年2月3日~3月まで全6回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やしてお届けします。

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