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角中勝也の活躍こそ独立リーグ構想の理想形!【石毛宏典連載#19】

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私をリーグ運営から遠ざけようとする動きが目立ってきた

 四国アイランドリーグの3年目シーズンが開幕する直前の2007年3月10日、リーグの運営会社「IBLJ」が私、石毛の代表取締役社長退任を発表した。新経営陣は「思い描いた業績に届かず、十分な報酬を得られないため、石毛氏本人が辞任を申し入れた」と理由を説明した。

 確かに前年、06年の11月に私は辞表を提出した。しかし「十分な報酬が得られないから」という理由は全く違う。そもそも私財を投じて独立リーグを創設しようとした目的は金儲けではない。プロ野球を志す若者をはじめ多くの人が幸せになると考えたからだ。報酬が少ないという理由で、中村洋一郎と四国中を奔走して必死の思いで立ち上げたリーグを見捨てることができるだろうか。

 実際に私は3年目以降のリーグ運営について様々なことを考えていた。でも、それも思うようにできなくなってしまった。いや“させてもらえなくなった”という方が正しいかもしれない。

高知ファイティングドッグスに入団した、元ヤンキースの伊良部秀輝(2009年8月、高知市営球場)

 1年目は約3億円、2年目も約1億5000万円の赤字と苦しい経営が続いた。1年目の開幕直後には予定していたスポンサー料が入らないため運営資金が底をつくという“資金ショート”を引き起こし、私を除く経営陣が退陣することになってしまった。本来なら社長である私が責任を取って真っ先に退任するべきなのだが、スポンサーの方々や増資に協力してくれた新しい役員からリーグの広告塔としての役割があるという理由で私だけ残った。

 この後は新しい経営陣と意見が食い違うことが多くなった。例えば、新経営陣は試合に出場しない選手を球場のスタンドで売り子として働かせることを決めた。選手が売り子をすると売り上げが伸びるというのだ。出場しない選手もベンチで試合を見て考えることで勉強になることがたくさんある。リーグの本来の目的は選手をレベルアップさせてNPB球団に送り込むことだ。私は試合中は野球に集中させるべきと主張したが、押し切られてしまった。

 この件をはじめ、私をリーグ運営から遠ざけようとする動きが目立ってきた。一部の役員が「石毛の意見にはすべて反対しろ」と言っているという話も耳に入った。リーグのために苦労するならともかく、こうした経営陣との人間関係で頭を悩ませるのは心身ともに非常につらかった。本意ではないものの、リーグが存続するなら身を引いてもいいと考えた。私がリーグと無関係になってしまうと立ち上げから協力してくれた大口スポンサーも撤退してしまう危険があったため、社長退任後も1年間はコミッショナーとして活動した。

 経営に関しては見通しが甘く、多くの方に迷惑をかけてしまった。反省すべきところもたくさんあると思う。ただ、独立リーグ創設という国内で初めてのチャレンジに挑んで、若者たちに夢を与える場を提供できるということを証明できた。私が社長を退任するころには他の地域でも独立リーグを立ち上げたいという動きが生まれていた。

ロッテ躍進の大原動力・角中は四国アイランドリーグ・高知ファイティングドッグズ出身だ

四国ILに続いてBCリーグ、関西独立リーグが発足した

 ロッテの角中勝也が2012年の交流戦の首位打者(打率3割4分9厘)となるなど、ロッテ躍進の原動力となっている。彼は石川県の日本航空二高を卒業後、四国アイランドリーグ(IL)の高知ファイティングドッグスでプレーした。もともと打撃の評価は高く、守備でも右翼で補殺を記録するなど強肩をアピール。四国ILの試合を視察していたロッテのスカウトの目に留まり2006年の大学・社会人スカウトの7位指名で入団した。独立リーグでチャンスをつかみ、NPBで活躍するという独立リーグ構想の理想モデルとなる“出世コース”を歩んでいる。彼の野球に対する情熱と努力の成果だろう。

独立リーグ発足に尽力した村山哲二氏(右から2人目)

 06年5月には四国ILに続いて新潟県を中心に独立リーグを発足させようとする構想が発表された。現在もBCリーグの代表を務めている村山哲二を中心に準備を進めた。私は、駒沢大の後輩でもある村山からプロ野球選手、独立リーグ創設者としての知名度を活用して出資を考えている人々などにリーグの理念、意義などを説明してほしいと依頼された。全国各地に独立リーグを設立することは私の将来構想に含まれていた。四国の経験を踏まえてよりよいリーグ運営をしてほしいという思いもあり、喜んで協力した。

 07年4月に新潟、石川、富山、長野を本拠地とする4球団による「北信越ベースボール・チャレンジリーグ」が開幕。08年には福井、群馬の2球団も加わり、リーグ名を「BCリーグ」と改称し、今年は6年目のシーズンを迎えている。

 そして、08年3月には3番目の独立リーグ構想が発表された。大阪、神戸、兵庫、和歌山の4球団が加盟する「関西独立リーグ」だ。私は運営会社の代表からの要請で「最高顧問」に就任。各地の行政や有力者にリーグの理念や意義を説明するという形で立ち上げに協力することになった。あくまでも「広告塔」や「アドバイザー」といった立場で経営には参画しないことになっていた。

 ところが、開幕直後の09年5月に運営会社が各球団への分配金を支払うことができなくなり、リーグから撤退という最悪の事態に陥った。各球団の代表からは「最高顧問なのに石毛さんは何もしてくれなかった」と痛烈に批判された。できる限りのアドバイスやPR活動をしたつもりだ。運営会社の代表に経営状態を聞いても「大丈夫」の繰り返しで実情を知らされていなかった。そもそも最初から経営には関わらないという約束だったのだが…。残念な形で関西独立リーグとは決別することになってしまった。

関西独立リーグでも最高顧問を務めた石毛氏(左=2008年3月、大阪市内のホテル)

 この3つの独立リーグからNPB球団に入団したのは47人。角中のようにチームの中心で活躍する選手も出てきた。独立リーグは野球界にとっても重要な位置づけになっている。ただ、各リーグの苦しい経営状態を考えれば、現状が理想の形ではない。NPBも含めた球界組織を大幅に変える必要があるし、変革の時期を迎えていると思う。私も頭の中で“船中八策”を描いている。

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いしげ・ひろみち 1956年9月22日、千葉県旭市生まれ。市立銚子から駒大、プリンスホテルを経て81年に西武ライオンズにドラフト1位で入団。8回の日本一、11回のリーグ優勝に貢献。新人王(81年)、シーズンMVP(86年)、日本シリーズMVP(88年)、ベストナイン8回、ゴールデングラブ10回、14年連続球宴出場と輝かしい成績を残す。94年オフ、ダイエー(現ソフトバンク)にFA移籍。96年に引退。ダイエー二軍監督、オリックス監督を歴任。その後、四国アイランドリーグを創設するなど各地の独立リーグ設立に尽力。現在は野球教室「石毛野球塾」の塾長を務める。著書は「石毛宏典の『独立リーグ』奮闘記」(アトラス出版)。

※この連載は2012年5月8日から7月13日まで全40回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全20回でお届けする予定です。


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