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風呂場に鬼が…国松さんの手がボクの顔面に飛んできた【駒田徳広 連載#6】

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とにかく厳しかった武宮寮長と国松二軍監督!

 ボクがレギュラーをつかむまでの5年間、自分を支えていたのはハングリー精神だったと思う。

 ボクだけじゃない。みんな二軍から這い上がろうと必死でやっていたし「巨人のユニホームを着ることができただけで満足」なんて思う選手は一人もいなかった。給料だって手取り20万円でグラブ、スパイクなどを買ったら10万円程度しか残らない。寮での生活からも抜け出したかった。

原辰徳(左)の入寮で握手する武宮敏明寮長(81年1月、巨人軍寮)

 寮長の武宮敏明さんは厳しい人で、極端な例で言えば風呂場のせっけんの置き方ひとつで寮生は連帯責任を取らされた。またある日、洗濯機の中にある選手が洗濯物を入れっ放しにしているのを武宮さんが発見した時などはもう大変。大音量の館内放送で「洗濯を途中でほっぽり出しているヤツは誰だ!」と烈火のごとく怒りまくり、その選手は1か月半の外出禁止を食らったほどだ。

 ちなみに寮でのペナルティーは電話番。朝9時から夜の10時まで電話の前に座っていなければならないというのは精神的にかなり苦痛だった。しかも当時は携帯電話などないので、寮に3台ある電話は1日中ジャンジャン鳴りっ放し。いったい誰が番号を教えるのか、そのほとんどがファンからの電話…。だからみんなペナルティーを恐れ、寮ではキビキビ、というよりいつもビクビクしていた。

寮生に向けた武宮寮長の張り紙(79年3月)

 そんな武宮さんだけど、ボクが横浜に移籍してからもボクのことを気にかけてくれて、巨人相手に打っても「よく打った。いいバッティングだったぞ」といつも真っ先に電話してくれた。そして武宮さんの口グセが「国松に感謝しろよ」。そう、国松二軍監督も「どうしてそこまで厳しくできるのか」という意味ではすごい人だった。

ウオーミングアップから少しでも手を抜こうものなら「野球というものはラインの内か外か、ほんのわずかの差で人生が変わる。そこをタラタラ抜くようなヤツは絶対に成功しないんだ!」とすぐに手が飛んでくるから全く気が抜けない。

背番号75の国松氏は81年から5年間、二軍監督を務めてG戦士を育てた

 当時と比べると今は効率よく練習をやっているのかもしれないけれども、あのころの効率の悪い練習もよかったんじゃないかな。何だかワケが分からないけれども、とにかくむちゃくちゃにやっていたという感じだった。

 背番号75。ボクが楽天の打撃コーチをやらせてもらった時、空いている番号から選んだ番号だ。これまで照れくさいから何も言わなかったけど、これは国松さんの番号だから選ばせてもらった。今の巨人でいえば岡崎さんが75。きっと岡崎さんも同じ気持ちで選んだんじゃないかと思っている。

一死満塁で凡退したボクを風呂場で待っていた国松さんの怪しく光る目

 4年目のシーズンとなった1986年、ボクの野球人生の中でひとつの転機となったある事件が起きた。

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