川淵三郎が振り返る「サッカー日本代表監督の系譜」(後編/1997~2010年)
サッカー日本代表はいかにしてW杯常連国となったのか。1993年にプロサッカーのJリーグが発足。日本代表は急速なレベルアップを果たしたものの、W杯はまだ遠い存在だった。そんな時代に代表の強化に長く携わった日本サッカー協会元会長の川淵三郎氏が振り返る短期連載「代表監督の系譜」。後編ではW杯で躍進するまでに成長を遂げた日本代表の舞台裏が明かされます。(運動三部・三浦憲太郎)
(この連載は2009年6月2~12日まで全8回で紙面に掲載されました。東スポnoteでは写真を追加し、2回に分けてお届けします)
W杯初出場を目指す加茂ジャパンの雰囲気を一変させた中田英寿
1997年9月、監督交代騒動を乗り越えた加茂ジャパンは、運命のフランスW杯アジア最終予選に臨んだ。W杯初出場を目指す加茂監督は同予選に向けて19歳ながらJリーグで絶大な存在感を放っていたMF中田英寿を招集。すると、チームの雰囲気は一変した。
しかし、強化委員会からJリーグチェマンであり、協会副会長として代表を担当する川淵氏に入った報告は芳しくなかった。「ヒデ(中田英寿)が入ってチームは変わったが(加茂監督が)対応できていない。監督を代えないとW杯出場は難しいと…」。すでに日本が2002年W杯の開催地に決定している中、さすがに川淵氏も心配になった。
ヒデの代表デビュー戦、右はカズ(97年5月21日・国立競技場)
不安は的中する。初戦(9月7日)のウズベキスタンには5―1で大勝も、アウェーのUAE戦(9月19日)に0―0で引き分けた後、ホームで迎えた3戦目の大一番の韓国戦(9月28日)に敗戦。日本はMF山口素弘のゴールで先制しながらも起用法の失敗で1―2と逆転負けを喫した。強化委員会からは川淵氏に「監督を代えないと」と念押しの報告が入った。その夜、川淵氏は岡野俊一郎副会長に電話し「最悪の場合に備え、監督交代について長沼会長と話し合ってほしい」と頼んだ。
山口素弘がループシュートを決めるも日韓戦で敗れ窮地に…
2002年日韓W杯を盛り上げるためにもフランスW杯出場権は絶対に獲得しなければなならない。ただ、すでに予選は始まっており、時間をかけて議論している時間はない。日本はカザフスタン戦(10月4日、アルマトイ)、同11日のウズベキスタン戦(10月11日、タシケント)とアウェー2連戦が控えていたからだ。
当時の切羽詰まった状況について、川淵氏は「(入国)ビザの問題もあり、別の監督候補をわざわざ連れて行くわけにもいかない。(強化委員長の)大仁(邦弥)に〝後任監督はどうするのか〟と聞いたら『(コーチの)岡田武史でいく。承知してください』と。そこで即答はしなかったけどね」という。
カザフスタン戦は1点リードで勝利を目前にしながら、終了間際に同点とされ、まさかのドロー。日本は予選突破に向けて窮地に追い込まれた。試合後、アルマトイ市内のホテルで緊急会議を開き、最終的に長沼会長が加茂監督の更迭と岡田コーチの昇格を決断。すぐ選手たちに通達された。
並んで座る加茂監督と岡田武史コーチ(97年6月・長居)
問題は、加茂ジャパンのコーチとして連帯責任を感じていた岡田が引き受けるか、ということだった。川淵氏はこう明かす。
「何とか説得した。代行ではなく、最後まで任せる意向だったが、岡田は『ウズベキスタン戦に勝ったら、監督を代えてください』と訴えた。勝てばW杯出場の可能性が残るから、帰国後は、別の監督を呼んでほしいと。反対に引き分ければW杯出場が厳しくなるから最後までやる、という考えだった」
岡田新監督率いる日本はウズベキスタン戦でも1―1の引き分けに終わった。ただし、0―1とリードされながら、ロスタイムに追いつく展開に周囲は奇跡の予感を抱いた。ホームで迎えた第6戦でUAE(10月26日)に1―1と引き分けて一時は自力での出場権獲得は絶望的となったが、その後、アウェー韓国戦(11月1日)に2―0、ホームのカザフスタン戦(11月8日)で5―1と連勝。なんとか勝ち上がったアジア第3代表決定戦(11月16日)でイランに延長戦の末に3―2と勝利し、ついに悲願のW杯初出場権を勝ち取った。
「もう監督を代えようという話はなかった。(協会内では)当然、本大会も岡田でいくということになったんだ」
W杯初出場を決め喜ぶカズとフラビオコーチ
思わせぶりなベンゲルに振り回される中で、トルシエジャパンが誕生
1998年6月、岡田武史監督率いる日本代表は紆余曲折を経て98年のフランスW杯に初出場。エースのカズことFW三浦知良のメンバー落選を乗り越えて、世界のひのき舞台に立ったものの、1次リーグでアルゼンチン(0―1)、クロアチア(0―1)、ジャマイカ(1―2)と3戦全敗に終わった。
日本中が驚いたカズと北沢豪のメンバー落選
そして日本サッカー界は初のアジア開催となる2002年日韓W杯に向けて再スタートする。日本協会側は岡田監督に続投を依頼したものの、3戦全敗で1次リーグを敗退した「責任は取るべき」として固辞。後任監督の選定は大仁邦弥技術委員長に一任されて、水面下で人選が進められていた。
アーセン・ベンゲル監督(1998年)
第1候補は元名古屋の監督でイングランド・プレミアリーグのアーセナルを指揮していたフランス人指導者アーセン・ベンゲル氏だった。すぐにベンゲル氏とコンタクトを取り、監督就任を打診するも、やんわりと断られたという。この当時の経緯について、協会副会長だった川淵氏はこう説明する。
「詳しい経緯は知らないんだけどね…。ベンゲルは『私なら2年あれば大丈夫だから』と断ったらしいんだ」
つまり、ベンゲル氏は、自分なら2年で代表を強くできるから〝00年まで待て〟というわけだ。協会は2年後に監督を受諾すると解釈。しかし、この思わせぶりな態度に日本は振り回されることになる。
その後、フランスサッカー協会から推薦された監督リストの中に、南アフリカ代表を率いていたフィリップ・トルシエ氏の名前があった。今後に日本を託す予定のベンゲル氏が勧めたこともあって、後任指揮官はトルシエ氏に決定。98年9月、トルシエジャパンが発足した。だが、トルシエ氏は協会やJリーグ、マスコミ批判を繰り返すなど周囲とのトラブルが絶えなかった。代表の成績も芳しくなく、解任を求める声も出始めた。そんな中、協会は「第1候補」のベンゲル氏に再び接触した。川淵氏が語る。
「99年にもベンゲルに打診したんだ。でも『2年』と言っていたのが『1年あれば十分だ』と言い出したんだ」
この発言に協会は困惑した。しかもベンゲル氏はアーセナルを指揮し、連戦連勝で、その名声を高めており、すでに10億円近い年俸を取るようになっていた。代表指揮官を受諾したとしても、協会の予算で雇うのは不可能だった。
周囲とのトラブルが絶えなかったトルシエ監督
トルシエはアンダー世代のユース代表や五輪代表では結果を出していたが、肝心のA代表はパッとしなかった。
「西野(朗=当時G大阪監督)を擁立しようと裏でコソコソやっていた人もいたなあ。でも岡野会長は『トルシエ交代は断固認めない』と強化本部(釜本邦茂本部長)に通達を出していた」
それでもトルシエ政権は結果が出ない上、指揮官の傍若無人な振る舞いへの反発も多く、体制は盤石ではなかった。その後、何度も解任論が浮上したほどだ。
「結局、アジアカップ(00年レバノン)でベスト4に入れなければ、トルシエをクビにすることを決めていたんだ。それが優勝するんだからね…。悪運が強い」
アジアカップで優勝トロフィーを掲げるトルシエ監督(2000年10月)
日本は01年のコンフェデレーションズカップで準優勝。02年のW杯本大会でもベスト16入りを果たした。日本は史上まれに見る嫌われ者の下で結果を出した。
コンフェデ杯で準優勝するなど、日本代表は成長曲線を描いた
W杯トルコ戦の敗戦がなければ、ジーコジャパンは誕生しなかった
2002年5月31日に開幕した日韓W杯、トルシエ監督率いる日本は1次リーグをベルギー(2―2)、ロシア(1―0)、チュニジア(2―0)と対戦し、2勝1分けの1位で突破。決勝トーナメント1回戦でトルコに0―1で敗れたものの、初のベスト16入りを果たし、さらなる飛躍への期待が高まっていた。
W杯のトルコ戦で懸命に守備するヒデと松田直樹さん
任期満了となったフィリップ・トルシエ監督の退任後、川淵氏は日本サッカー協会の会長に就任。さっそく06年ドイツW杯に向けた新体制づくりに着手。大仁邦弥技術委員長から次期監督候補として3人の名前が挙がった。02年W杯でセネガルを率いたブルーノ・メツと元フランス代表監督のエメ・ジャケ、当時イングランド・プレミアリーグのアーセナルを率いていたアーセン・ベンゲルと世界的名将ばかりだった。全員フランス人指導者だったのは大仁委員長とフランスサッカー協会に強いコネクションがあったからという。
しかし、技術委員会からは、ベンゲルの招聘のためには総額で10億円もの資金が必要で、ジャケも以前に断らていることから就任は難しいという見解。メツは少なからず可能性があるとの報告が上がっていた。ただ川淵氏は後任候補の中にジーコの名前がないのが気になった。受けるはずはない、と思いながらも大仁に「一応はジーコをリストに入れておけよ」と話したという。「だって〝代表監督にしたい人〟というファン投票でジーコはいつも1位だったからね」
川淵氏とジーコ日本代表監督就任会見(2002年7月)
ジーコは鹿島時代から監督に就くことに消極的だった。ところが、技術委員会が調査すると、意外にもジーコは日本代表には強い関心を示していることがわかった。大仁委員長が直接ジーコ氏と会い、その意向を確認した。
「大歓迎だったね。ジーコが何で引き受ける気になったのかといえば(W杯決勝T1回戦)トルコ戦で日本が負けたのが悔しかったらしい。トルシエの采配に相当の不満を持ったそうだ。ジーコは『自分だったらもっとうまくやれたのに…』と言っていた。トルコ戦であんな負け方をしなければ、ジーコが代表監督を引き受けることはなかったかもしれないね」
ジーコジャパンは日韓戦で初勝利を飾った(03年4月・ソウル)
02年7月にジーコジャパンが発足した。ジーコの指導法はトルシエとは対照的に、選手の個性を重んじた。希代のスター監督の下、MF中田英寿、MF中村俊輔、MF小野伸二、MF稲本潤一の「日本版・黄金のカルテット」を中心とした日本は快進撃を見せ、04年には反日感情が高まる中国で開催されたアジアカップで優勝。05年6月にはW杯出場権を世界最速で獲得した。劇的な戦いぶりに、日本代表人気は過熱した。
〝黄金のカルテット〟は機能しなかった(左から小野、中田、中村、稲本)
しかし期待された06年ドイツW杯は1次リーグでオーストラリア(1―3)、クロアチア(1―1)、ブラジル(1―5)と対戦し、1分け2敗で敗退。ジーコ監督は激しい批判の中、退任した。自主性の尊重というスタイルは結果的には大失敗に終わった。
ジーコジャパンはブラジル代表に完膚なきまでに叩きのめされた
オシムジャパンが発足も、オシム監督が脳梗塞で倒れて再びあの人に白羽の矢が立った
2006年6月、ジーコ監督が率いる日本代表はスター軍団として大きな期待を集めたドイツW杯で1分け2敗と惨敗した。日本サッカー界には大きな失望感が漂う中、ジーコ監督の後任候補はすでに絞られていた。
ドイツW杯が始まる直前の4月、日本サッカー協会会長の川淵氏は田嶋幸三技術委員長に「次の代表監督を考えておくように」と指示を出していた。この時、技術委員会は、すぐにイビチャ・オシムの名前を出したという。田嶋委員長は10年南アフリカW杯に向けて動き始めていたのだ。
イタリアW杯で元ユーゴスラビア代表を率いたオシム監督は弱小チームだった千葉をリーグ優勝争いを繰り広げるまでに強化した。世界的にも知名度は高く、ドイツW杯の大会組織委員長で同国代表の〝レジェンド〟として知られるフランツ・ベッケンバウアーも「オシムは素晴らしい指導者だ」と褒めたたえたほどの大物だ。
オシムを認めていたベッケンバウアー、左はFIFAのブラッター会長(2003年12月)
協会が水面下で交渉を進めている中、ドイツW杯からの代表帰国会見で事件が起きた。今後の代表監督について聞かれた川淵氏は「オシムで…」とつい口を滑らせてしまったのだ。
「失言して申し訳なかった。淀川(千葉社長)には了解を得ていたんだが…。でも交渉が決裂したら元も子もない、そんな心境だった。当初シーズン中は千葉と代表の兼任監督で、という方針でいたんだ。でもオシムは『代表監督専任でなければやらない』と拒否してね」
結局、オシムは代表監督に就任するため、シーズン途中で千葉監督を退任し、サポーターが猛反発。「ポロリ」してしまった川淵氏にも批判が集中する中、06年7月にオシムジャパンが誕生した。
オシム監督、反町康治U-21監督と握手をする川淵氏
「オファーした時から『やりがいがある』という前向きな報告を田嶋(技術委員長)から受けていた。ボクとしてもオシムにはすごく期待していた」
オシム監督は斬新な練習方法で既成概念を打ち破るとともに、イレブンに走ることと、献身を求めた。チームは急成長を見せ、07年のアジアカップ(東南アジア4か国共催)でベスト4。欧州での4か国対抗でも優勝するなどチームづくりは順調だった。ところが、いよいよW杯アジア予選を迎えるという07年11月、オシムは急性脳梗塞に倒れたのだ。
生命の危機こそ脱したものの、監督続行は不可能という非常事態。しかし、協会幹部の話し合いでは、意外にも結論はすぐに出た。「岡田武史しかいない」。苦渋の選択ながらもベストの選択だった。川淵氏は明かす。
「選手とのコミュニケーション面とか、実績面とかでね。あの状況ではほかに選択肢はなかったね。それで岡田に任せることになったんだ」
中村俊輔と本田圭佑の交代を命じる岡田監督(2009年9月・ユトレヒト)
07年12月にスタートした第2次岡田ジャパンは期待に応え、見事W杯出場権を獲得。川淵氏は会長退任後、代表とのかかわりは減ったものの、岡田ジャパンは本大会1次リーグでカメルーン、オランダ、デンマークに2勝1敗で決勝トーナメントに進出。同1回戦でパラグアイにPK戦の末に敗退したものの、日本を沸かせた。
またもや岡田ジャパンに歓喜した(W杯・デンマーク戦の横断幕)
おわりに
これまで代表に深くかかわってきた川淵氏は監督について「W杯で優勝すると約束してくれるならいくらでも出すよ。(アレックス)ファーガソンでも(フース)ヒディンクでもいい。5億でも10億でも出すよ」と笑っていたが、日本代表をW杯常連国に押し上げた功績は誰もが認めるところだ。(終わり)
かわぶち・さぶろう 1936年12月3日生まれ。大阪府出身。早稲田大学在学中の58年に日本代表に初選出。64年東京五輪にも出場した。Aマッチ24試合6得点。72年から古河監督を務めた後、80年に日本サッカー協会・強化部長。在任中の81年に日本代表監督に就任した。一時は退くも91年からは強化委員長となり、再び代表強化を担った。94年末に同委員長を退くも、その後は協会副会長、会長として日本代表に深くかかわってきた。08年に任期満了となり名誉会長を経て12年6月より最高顧問。