川淵三郎が振り返る「サッカー日本代表監督の系譜」(前編/1991~96年)
はじめに
サッカー日本代表はいかに世界の仲間入りを果たしたのか。近年はW杯出場が当たり前となっているが、1990年代前半はまだ夢物語だった。そんな時代に日本代表の強化にかかわってきた日本サッカー協会元会長の川淵三郎氏が、代表監督の系譜を振り返ります。(運動三部・三浦憲太郎)
(この連載は2009年6月2日~12日まで全8回で紙面に掲載されました。東スポnoteでは写真を追加し、2回に分けてお届けします)
日本代表にとって忘れられないドーハの悲劇。崩れ落ちる主将・柱谷哲二に寄り添ったのはオフト監督だった
初の外国人監督就任に起きた予想以上の反発
1991年3月。川淵氏は日本サッカー協会の長沼健副会長(故人)の要請で日本代表を管轄する強化委員長(現技術委員長)に就任した。当時の日本代表は横山謙三監督が率いていたが、結果が出ず、ふがいない内容が続いていたことから各方面から批判が出ていた。しかし、川淵氏は就任当初「今の日本の実力を考えると、やむを得ない」と判断し、解任は考えていなかったという。
川淵氏らを強力にバックアップしJリーグを実現させた長沼健氏
この判断を変えたのは日本代表に選出されていたカズことFW三浦知良とMFラモス瑠偉の言葉がキッカケだった。
「ラモスとカズが『代表手当(日当や勝利給など)を出してほしい』と言い出したんだ。アマチュアだから無理だ、と断ったんだけどね。でもこの言葉で日本代表にもプロフェッショナルの考えが必要なのか…と感じたんだ」
ラモスとカズの言葉が川淵氏の意識を変えた(写真は92年11月のアジアカップ)
日本は90年のイタリアW杯アジア予選に参戦も1次予選で敗退。さらにU―23代表が横山総監督のもとで臨んだ92年バルセロナ五輪アジア予選も早々に敗退した。
「五輪出場権を取っていれば、監督を代えなかっただろう。でも93年に(プロサッカーの)Jリーグもスタートするし、プロ監督の必要性も感じた。ブラジルでプレーしていたカズやラモスらを束ねるには日本人では限界がある。だから、外国人にしようと考えた」
そこで浮上したのがハンス・オフトだった。オフトはヤマハ(現J2磐田)、マツダ(現J1広島)でコーチを務めたこともあるオランダ人指導者。2クラブの関係者からサッカーの基本や決まり事を重視するというオフト流の指導法を聞いた川淵氏は「オフトは日本人に合う」と判断。当時オランダ1部ユトレヒトのGMをしていたオフトに会うため渡欧し、会談すると、オフトは代表監督就任に前向きな回答をしたという。
ところが、初の外国人監督就任には、日本サッカー界から予想以上の反発があった。当時、世界を見ても代表監督に自国の指導者を起用せず、外国人が就任するのは極めて異例だった時代。協会幹部からも「外国人監督では選手とコミュニケーションが取れない」と猛反発されたという。
「どうしようかと悩んだね。でも最後は長沼さんや岡野さん(俊一郎元会長=故人)も『好きなようにしろ』と言ってくれたんだ」
初の外国人代表監督となったハンス・オフト氏。左は清雲栄純コーチ(写真は93年3月のW杯予選)
サッカー協会に金がない!オフト監督の年俸は3000万以下
川淵氏は反対の声を押し切って、オフトとの契約を進め、初の外国人代表監督が誕生。契約は92年12月までとし、日本代表は再スタートしたが、新体制はトラブル続きだった。チームの規律を重視するオフト監督のやり方にブラジル出身の司令塔、ラモスが猛反発したのだ。日本代表の空中分解も伝えられた。
「ただオフトはプロ監督らしく、ラモスを呼び出し『自分に従わないのなら代表に来なくていい』と突き放したんだ。実に毅然とした態度だったなあ。日本人監督ならナアナアになっていたかも…。ラモスも代表に呼ばれないと困ると思ったのか、少しはおとなしくなったね」
アジアカップ決勝のイラン戦で躍動するFW高木琢也とMF北沢豪
その後、日本代表は結束し、92年に自国開催となったアジアカップに初優勝。日本はオフト監督の下でアジアの強豪の仲間入りを果たした。93年のJリーグ発足と94年米国W杯に向けて国内のムードも一気に高まっていった。
「92年12月の契約更改で、オフトは相当、年俸が上がると思い込んでいた。倍額はもらえるだろうという勢いだったけれど、当時のサッカー協会に金はなく、年俸は3000万円もいかなかった。もちろん勝利給もプレミア給もない。オフトも文句言っていたよ」
それでも続投したオフト監督のもと、日本代表はカズやラモスらの活躍で93年4月に米国W杯アジア1次予選を突破。同10月に〝ドーハの悲劇〟と呼ばれた同最終予選の最終イラク戦に引き分けて出場権を逃したものの、テレビ東京系で中継されたイラク戦は、テレビ視聴率48・1%(ビデオリサーチ社=関東地区)を記録するなど代表人気は大ブレーク。初の外国人監督で得たものは想像以上に大きかった。
ドーハの悲劇でがっくりと座り込む三浦知良(93年10月28日)
ドーハの悲劇を乗り越えフランスW杯へ!世界の〝名将〟を探すも困難の連続が…
1993年10月。カタール・ドーハで集中開催された米国W杯アジア最終予選で敗退し、出場権を獲得できかった日本代表は、落ち込む暇もなく、98年フランスW杯に向けて動き出した。
当時、強化委員長(現技術委員長)だった川淵氏は、オフト監督を続投させる方針だったが、ほかの委員の意見は違ったという。
「(メンバーの一人)セルジオ(越後氏)が『世界のひのき舞台を目指すならW杯を経験した監督が必要だ』と主張したんだ。まあ、そういう考えもあるなと…。強化委員会として意見をまとめ、それで代表監督を交代することなった」
W杯予選に敗退したこともあって、オフト監督も了承し、潔く退任したが、ここから代表監督探しが始まった。最初に候補として浮上したのは元フランス代表監督のミシェル・イダルゴだった。ただ当時のサッカー協会には海外のクラブやエージェントのコネクションはない。少ないツテを頼ってなんとか、イダルゴ氏との接触に成功。川淵氏は「早速、お願いします、と言ったら『日本なんかにサッカーがあるのか?』とあっさりと断られたんだ」。取り付くしまもなかった。厳し過ぎる現実にがく然としたという。
トヨタカップで来日したテレ・サンターナ監督(サンパウロ)とファビオ・カペッロ監督(ACミラン)、写真は93年12月の国立競技場
次の候補に挙がったのが元ブラジル代表監督のテレ・サンターナだった。世界的な名将として知られており、周囲からも異論はなし。断られるのを覚悟で交渉を進めると、意外にも「日本に行ってもいい」という返事が来た。喜んだのもつかの間、要求してきた総額10億円というギャランティーに仰天する。年俸に加え、サンターナ氏が連れてくるスタッフの人件費なども含まれるというのだ。
「当然、協会にそんなお金はないよ。サンターナは値切り交渉も一切しないということだった。すぐに断念したよ」
続いて浮上したのが現役時代にジーコ氏らとともにブラジル代表で「黄金の中盤」を形成したパウロ・ロベルト・ファルカンだった。イタリア1部ローマにも所属し〝ローマの鷹〟として知られた元スター選手だ。
「そんな有名人が来るのか? と思っていたけど『日本でやる気がある』と。それで頼むことになった。当時の代表監督の年俸予算は最大で1億円だったけど、なんとか予算内に収まった」
日本代表監督に就任するため成田空港に降り立ったファルカン氏(94年3月)
94年4月、フランスW杯に向けてファルカン監督が着任した。元スター選手とあって周囲の期待も高かった。ところが、ファルカン監督は日本サッカーについてあまりに無知だった。日本代表のメンバー選考にも各方面から疑問の声が出ていた。
ファルカン監督とジルベルト・チンコーチ
「試合内容も良くなかった。当初は強化委員のセルジオがポルトガル語ができるから(ファルカン監督の)面倒を見るように指示したのに、その務めはあまり果たせてなかったしね」
選手からも反発の声が出るなど、指導法も疑問視されていた。そこで川淵氏はファルカン監督に広島アジア大会(94年)でベスト4に進出しなければ解任するという条件を突き付けたという。
三浦知良を迎えるファルカン監督(94年5月29日、キリンカップのフランス代表戦)
2代続けての外国人監督からの〝路線変更〟加茂ジャパンが目指したゾーンプレス
1994年10月の広島アジア大会で、ファルカン監督率いる日本代表は準々決勝に進出も宿敵の韓国に敗れて敗退。当時、日本サッカー協会の強化委員長(現技術委員長)だった川淵氏が出した条件の「ベスト4以上」をクリアできなかった。このため強化委員会ではファルカン監督の更迭を決定したわけだが、理由は成績だけではなかったという。
1993年、鹿児島実業時代の城彰二。アトランタ五輪日本代表に選ばれると、代表の常連に成長した
ファルカン監督はMF前園真聖、FW城彰二ら若手選手を代表に抜てきした功績があった一方、川淵氏は、その指導法を苦々しく見ていた。特に審判批判の多さにはうんざりしていた。
「韓国戦でPKを取られた判定に『あんな主審を認めた協会が悪い』と批判していたんだ。代表主将の柱谷(哲二)はそんな監督の姿に『何言ってんだ』と怒鳴っていた。その時にファルカンじゃあダメだな、と見限ったんだ」
柱谷主将と武田修宏(94年9月のオーストラリア戦)
結局、ファルカン監督は就任からわずか7か月で解任となった。この流れの中で川淵氏は、次期代表監督には「日本人がいい」と考えていたという。ファルカン監督の時代には選手とのコミュニケーション面に大きな問題があったからだ。すでに「日本人なら加茂周しかいない」と考えは固まっていた。日産自動車(現横浜M)監督時代に数々のタイトルを獲得し、名将と呼ばれた指揮官でJリーグ発足当時は横浜Fを指導していた。
川淵氏の中では加茂周氏の代表監督就任の腹は固まっていた
「加茂は横浜Fを率いて天皇杯で優勝しており、プロ監督としての資格は十分にあると考えた。委員会も最終的に賛成してくれた」
95年1月、フランスW杯に向けて加茂ジャパンが発足した。このころ、川淵は強化委員長を退任。Jリーグチェアマンの活動をしながらも日本サッカー協会の副会長として、日本代表を担当することになった。委員長の後任は現役Jリーガーながら副委員長を長く務め、94年限りで現役を引退したばかりの加藤久氏が就任した。
左から加茂周監督と加藤久委員長(94年11月)
ところが、華々しくスタートした加茂ジャパンも低迷した。テストマッチでも結果が出ず、加茂監督が採用した〝ゾーンプレス〟もうまく機能しなかった。試合内容もさえなかったことから強化委員会は早々に「加茂監督では世界に行けない」という見解が出されたという。
「(強化委員長の)加藤から協会上層部に『監督を交代させたい』という話が上がってきたんだ。で、後任監督として挙がったのが黄金時代のV川崎(現東京V)を率いたネルシーニョ監督だったんだ」
ネルシーニョ監督(写真は95年)
ブラジル出身のネルシーニョ監督は93、94年のJリーグ連覇に大きく貢献し、個性派集団と言われたV川崎をまとめ上げた手腕が高く評価されていた。強化委員会の提案に協会幹部会も納得し、同年11月、協会の意思決定を受けて、強化委員会はネルシーニョとの契約交渉に入った。ところが、事態は急変。長沼健会長が突然「加茂続投」を打ち出したのだ。
日本代表に定着した前園真聖と武田修宏(94年9月のオーストラリア戦)
幻となった〝ネルシーニョ監督〟続く協会のゴダゴダに川淵氏も「もう関知しないようにしていた」
1995年11月。強化委員会(現技術委員会)から代表指揮官交代の要請を受けた協会幹部は、加茂周監督の退任とV川崎(現東京V)を率いていたネルシーニョを新監督とする方針を固めた。ところが外遊先から帰国した日本サッカー協会の長沼健会長(故人)が突然「加茂続投」を明言したのだ。すでに監督交代に向けて準備を進めていた川淵氏はぼう然とするしかなかったという。
「どうなってんの、と…。でも、長沼会長が言うんだからね」
実はネルシーニョとの契約交渉では年俸など条件面で大きな隔たりがあり、合意するのは困難と判断されたという。ただ一方では、契約交渉をわざと決裂させる〝工作〟が行われていたとの噂も出ていたが…。いずれにしても協会はネルシーニョ氏側との交渉をストップし、退任するはずだった加茂監督の続投を決めた。すでに退任をと通告されていた加茂監督も「長沼会長が言うなら」と続投を受け入れた。
同11月22日、加茂続投に関する記者会見が行われた。Jリーグチェアマンだった川淵氏は協会副会長の立場で出席。
「会見は直前までバタバタしていた。(退任後に加茂氏が監督に就任するはずだった)横浜Fの長谷川社長にボクが電話を入れ、加茂続投の最終的な了承を取った。それで記者会見に出て行ったんだけど、殺伐とした雰囲気だったな。ボクも直前までネルシーニョで行くと思っていたので、記者から質問されても幹部たちの見解はバラバラだったなあ」
会見の席で、監督交代を却下し、加茂続投を指示した長沼会長は「加茂でフランス(W杯)に行けなかったら私が辞める」と宣言。その一方、日本代表監督への就任を求められながらも突然、契約交渉を打ち切られたネルシーニョ氏も同日に記者会見し、協会側の姿勢を徹底糾弾。高額な年俸など、高い条件を吹っ掛けたとの見方に猛反論し「協会幹部は腐ったミカンだ」と激怒した。
日本で会見を開き、JFAを猛批判したネルシーニョ(95年11月)
結局、続投となった加茂監督だったが、肝心の結果が出なかった。ディフェンディングチャンピオンとして臨んだ96年のアジアカップ(UAE)も内容も伴わないまま準々決勝で敗退した。
「アジアカップで負けると強化委員長の大仁(邦弥=後の協会会長)と今西(和男副委員長)がボクのところに来て『今のままでは勝てない』と…。でもボクはもう関知しないようにしていたよ」
強化委員会内ではネルシーニョ監督の擁立論が再燃していたものの、監督交代の本格的な議論にまではならなかった。そんな中、加茂ジャパンは97年3月、フランスW杯アジア1次予選を迎えた。カズことエースFW三浦知良を中心にチームを編成。5勝1分けとし、グループ1位で突破した。同年9月、いよいよ運命のアジア最終予選に突入した。
かわぶち・さぶろう 1936年12月3日生まれ。大阪府出身。早稲田大学在学中の58年に日本代表に初選出。64年東京五輪にも出場した。Aマッチ24試合6得点。72年から古河監督を務めた後、80年に日本サッカー協会・強化部長。在任中の81年に日本代表監督に就任した。一時は退くも91年からは強化委員長となり、再び代表強化を担った。94年末に同委員長を退くも、その後は協会副会長、会長として日本代表に深くかかわってきた。08年に任期満了となり名誉会長を経て12年6月より最高顧問。