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仙人みたいながおじいさんがぱんぱんに腫れたボクの右足首をぐいぐい押してきた【定岡正二連載#8】

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西鹿児島駅に2万人がボクらをお出迎え

 自分で言うのも何だけれど、確かにあの時のボクたち鹿児島実業は「これ、ドラマじゃないよな?」と思うような試合が続いた。1974年の夏の甲子園大会準々決勝で演じた東海大相模(神奈川)との延長15回の死闘、そして準決勝の防府商(山口)戦ではアクシデントで降板し、サヨナラエラーで甲子園を去った。もちろん「ドラマ」が大好きなマスコミが放っておくはずがない。ボクは「悲運のエース」として大々的に取り上げられ、有名人に仕立て上げられた。

 地元の鹿児島も大盛り上がりで、甲子園から帰る特急電車が鹿児島に近づくと、信じられないような光景も目にした。通過するそれぞれの駅のホームに大勢の人たちが集まり「よくやった!」「感動したぞ!」「鹿児島の誇りだ!」などと大歓声がわき上がり、電車に向かって手を振ってくれるのだ。やがて西鹿児島駅に到着すると、そこでは2万人を超える地元の人たちが出迎えてくれた。驚いたボクたちは顔を見合わせて「まるで映画のワンシーンみたいだぞ…」と言い合いながら、懸命に手を振り返した。

 それからのボクたちの生活は明らかに変わった。ボクは鹿実までバスで通学していたんだけれど「サインしてください!」「握手してください!」と女の子たちが寄ってきた。これまで見向きもされなかったのに、キャーキャー言われて有頂天になるなという方が無理だ。ほかの野球部員たちも鼻の下を伸ばしながら、しばらくサインの練習に明け暮れたりもした。

大所帯となった1993年、鹿児島の街並みを背にグラウンドをランニングする鹿児島実業ナイン

 だが、そんな雰囲気が気に入らなかったのだろう。久保克之監督が激怒する事件が起きた。普通ならボクたち3年生は夏の甲子園が終われば引退となるのだが、甲子園でベスト4に残っていたからまだ国体が残されていた。

 国体に向けての練習が行われたある日、ノックを受けていたボクは、簡単なピッチャーゴロをはじいてしまった。これで久保監督が「やる気がないのなら帰れ!」と烈火のごとく怒り出し、グラウンドに練習を見学に来ていたたくさんの女の子たちの前で、ボクはぶっ飛ばされたのだ。

「キャーッ」。女の子たちの悲鳴が上がる中、あの時のボクは「何でこんなことで殴られなきゃいけないんだ!」と納得できなかった。初めて反抗的な目で久保監督をにらんだ。自分ではまじめにやっていたし、緩んでいるつもりもなかった。だが、あとになってよくよく考えてみると…。ボクは「見せしめ」にされたんだと理解した。チームに広がる浮ついたムードを引き締めるため、久保監督なりの“演技”だったのだろう。

東海大相模・原へのリベンジの舞台は国体でやってきた

 その後の国体では東海大相模との「再戦」が注目された。「ようし、今度はあの1年坊主を完璧に抑えてやろう!」。ターゲットは甲子園で3安打された原辰徳だった。

ゴッドハンドで負傷が完治

 国体は、夏の甲子園でいい成績を残せたチームへのご褒美みたいなもの。1974年10月、甲子園でベスト4に残ったボクたち鹿児島実業は、この年の国体が行われる茨城・水戸にやってきた。

 いつもは鬼のように怖い久保克之監督の表情もいつになく穏やかで「観光でもするか」。まるで修学旅行のようなムードで、ボクたちはわいわいやりながら思う存分、羽を伸ばすことができた。

 だが、国体直前の練習でアクシデントが起きた。グラウンドで外野を走っていた際に、つまずいて右足をひねってしまったのだ。右足首はみるみるうちに腫れ上がり、満足に歩くこともできない状況に…。久保監督に連れられ、ボクは都内の接骨院に向かった。

「ここが病院?」。その接骨院は何とも言えない怪しげなムードに包まれていた。日本庭園みたいな広い庭がある立派なお屋敷で、やがて奥から和服を着た仙人みたいなおじいさんが出てきた。

「どれ、足を見せてみろ」。そのおじいさんはぱんぱんに腫れたボクの右足首を手に取ると、ものすごい力で患部をぐいぐい押してきた。「うわっ! い、痛い!」。声を上げてもおかまいなしだ。その後も時折、水を飲みながら呼吸を整え、さらにぐいぐい…。時間にして10分から15分ぐらいの出来事だったろうか。「その場で跳んでみろ」と言われ、恐る恐るジャンプしてみると「あ、あれ? 痛くない!」。自分でも信じられないけれど、これは本当にあったことなのだ。

王貞治(右)を治療する吉田接骨院の吉田院長(1970年4月、後楽園球場)

 過去には複雑骨折を手で治したこともあるとかで、そのおじいさんは「ゴッドハンド」と呼ばれていた。あの王貞治さんもお世話になったことがあるそうだ。とてもじゃないが試合に出られないようなケガをしてしまった巨人の選手が、最後の“駆け込み寺”のような形で利用していた接骨院で「巨人の吉田接骨師」と言えば、知る人ぞ知る名医としてその名をとどろかせていた。久保監督が巨人の知り合いから紹介してもらったという。

 あれほど腫れていた右足首は、うそのように元に戻り、その後の国体でも何事もなく投げることができた。おかげで東海大相模(神奈川)との再戦も3―1で快勝。甲子園で3安打された原辰徳から2つの三振を奪うなど、この試合では完璧に抑えることができた。「甲子園で相模に勝ったのはフロックなんじゃないか?」と言われたこともあったから「どうだ!」という気持ちになった。

 その後の準決勝では夏に全国制覇した銚子商(千葉)に0―1で敗れ、またもベスト4止まりだったけれど、高校時代にあれほどリラックスした気分で野球をできたのは初めてだったから、楽しくて仕方がなかった。それもこれも「仙人様」のおかげ…。ボクにとって初めての“関東遠征”は「東京はすごいところだ!」。そんな強烈な印象が残っている。

茨城国体では銚子商に完封負け。エース・土屋の球はとにかく速かった

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さだおか・しょうじ 1956年11月29日生まれ。鹿児島県出身。鹿児島実業高3年時の74年、ドラフト会議で巨人の1位指名を受け入団。80年にプロ初勝利。その後ローテーションに定着し、江川卓、西本聖らと3本柱を形成するも、85年オフにトレードを拒否して引退を表明。スポーツキャスターに転向後はタレント、野球解説者として幅広く活躍している。184センチ、77キロ、右投げ右打ち。通算成績は215試合51勝42敗3セーブ、防御率3・83。2006年に鹿児島の社会人野球チーム、硬式野球倶楽部「薩摩」の監督に就任。

※この連載は2009年7月7日から10月2日まで全51回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全25回でお届けする予定です。

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