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【ダイアモンド✡ユカイ×杏子 対談・前編】高校生のときに2人が通った〝太宰治〟

「レッド・ウォーリアーズ」のボーカル、ダイアモンド✡ユカイが、ゲストを招いて昭和の終わりに巻き起こった日本のロックムーブメントをひもとく当企画。今回からは男女ボーカルで1980年代に人気になり、最近も芸人の歌マネで注目を集めた「バービーボーイズ」の女性ボーカル・杏子を迎えます。(企画構成=アラフィフ記者F)

怖かったユカイ君を見直したある出来事

 ――おふたりが初めて会った日のことを覚えていますか?

 ユカイ う~ん…、記憶にございません。

 杏子 広島だったかで、グループが一緒になったのが最初だと思うけど、怖いから近寄らなかった。ユカイ君たち、夜とか暴れてたでしょ(笑い)。ロック!って感じで、ホテルの窓からテレビを投げるチームとかいたもんね。

 ユカイ 夜、暴れるって人聞きの悪い…。まあでも、確かにあのころはそういうロック的なチームにいたね。

 杏子 だから怖くて話したことなかったの。初めて話したのは「URASUJI」(杏子出演、プロデュースの舞台)に出てもらった時?

 ユカイ その前に西城秀樹さん主演のロックミュージカル「Rock To The Future」(1996年)で共演しているよ。

西城秀樹(96年)

1995年の西城秀樹

 杏子 あー! でもあの時も怖そうだから話さないでおこうって、女子チームはみんな距離を置いていたよ(笑い)。

 ユカイ 俺がまだとんがって生きてた時代だね。みんな腫れ物に触るみたいな感じだった。

 杏子 そう、だから公演期間中は話さなかったんだけど、終わってみんなで伊豆へ打ち上げに行こうという話になって、東京駅で待ち合わせしたでしょ。そしたら一人、集合時間に遅刻した人がいて。私たちは出発の時間までお弁当買いに行ったりしてたんだけど、その間、ユカイ君はその人のことを気にして、駅員さんのところまで行って館内放送をお願いしてたの。

紙面掲載2杏子



 ――96年というと、まだ携帯電話があまり普及していないころですね
 
 杏子 買い物してたら「銀の鈴で田所豊(ユカイの本名)さんがお待ちです」って放送がかかってね(笑い)。そういう対応に時間を取られ、ユカイ君は自分のお弁当を買えず、伊豆へ行く「踊り子号」の中で「腹減った~」「腹減った~」って。で、やっと車内販売が来たんだけど、わさび漬けしか売ってなかった(笑い)。

 ユカイ よく覚えてるね。

 杏子 その時、女子がみんな「ユカイ君って、実はいい人じゃない!」ってびっくりしてたの。緊急事態だから素が出たんじゃないかって。

 ユカイ 俺には普通のことだったんだけどな。

 ――舞台期間中、ユカイさんはとんがっていたという話ですが

 ユカイ 俺、ほとんど舞台の稽古行かなかったんだよ。セリフがあんまりなかったから、これならアドリブでいいや。稽古もしないでいいかって。本番もずっとアドリブでやってた。

 杏子 本当にアドリブだったよね。だから私たちはすごくドキドキしてたの。舞台ってやりとりだから、ちょっとしたセリフでもちゃんとやらないと怖いのに、ユカイ君はだいたいこんなセリフだろう、って感じでずっとやってた。

 ユカイ どんどんセリフが増えたりね(笑い)。あのころの俺は普通じゃない時期だったから、今思うと迷惑かけたよね。秀樹さんも警戒して声をかけてくれなかったんだよ(笑い)。

 杏子 そりゃそうよ(笑い)。

 ユカイ 怒ってる役だから、ずっと怒ってて、それで余計にみんな近づいてこなかった。橋本さとし(俳優、当時は劇団☆新感線所属)だけだったよ、話してくれたの。

紙面掲載3

杏子の記憶力に驚かされるユカイ

 ――そういう流れがあっての東京駅での出来事なんですね

 ユカイ そんなに女子チームの評価が上がったなら、ちゃんといっとけばよかったな。ところで、伊豆に着いてから、みんなでプールに入ったじゃない。あの時、秀樹さんが「杏子って意外にいいボディーしてるな」って話してたんだよ。スタイルいいなって。

 杏子 なーに言ってるの!  

尖っていた男子の中に途中から加入した私は…

 ――ユカイさんのバービー・ボーイズと杏子さんの印象は?

 ユカイ 俺、忘れっぽいところがあって記憶が曖昧だったりするんだけど…。確か、ヒラヒラさせて踊っていたよね?

 杏子 そう、歌っていない時は暇だから(笑い)、スカートはいてヒラヒラしてみようと思ってね。

椿鬼奴(14年、よしもと∞ホール)

杏子のマネが得意な椿鬼奴(14年、よしもと∞ホール)

 ――椿鬼奴が見事にマネしていましたね

 ユカイ レッズはロックンロールのオーソドックスというか、王道のスタイルだったんだけど、今思うと80年代中盤あたりって個性的なバンドがたくさんいて、バービーもその一つだよね。

 ――その当時、レッズとバービーの他にも、レベッカ、TMネットワーク、米米クラブ、プリンセス プリンセス、ザ・ブルーハーツなど、日本の音楽史に名を残すバンドがデビューしています

TMネットワーク左から木根尚登、宇都宮隆、小室哲哉

TMネットワーク(左から木根尚登、宇都宮隆、小室哲哉)

 ユカイ 本当にみんなそれぞれ個性があって、全然違った。まあ、当時の俺たちは「あんなのロックじゃねえ!」とか言ってたんだけどさ(笑い)。

 杏子 言ってそう(笑い)。
 
 ユカイ でもいわゆる“ロック”に縛られず、自由でクリエーティブなことをやっていたバンドがたくさんあった。バービーの男女ツインボーカルもそう。珍しいスタイルだった。しかももう一人のボーカルのコンタさんが、ソプラノサックスだっけ?を吹いて。俺たちは「チャルメラ」って言ってたんだけど(笑い)。

 杏子 言ってそうだよね。ひどい!(笑い)

 ユカイ 今思うとすごい才能だよね。その中で杏子が紅一点で、2人で掛け合いみたいに歌っていた。

 杏子 コンタは声がハスキーで高音が出せてね。歌詞は痴話ゲンカみたいな口語体。あれはイマサ(いまみちともたか、バービーの多くの曲を作詞作曲)の発想がすごい。

 ユカイ そうだ、口語体だった。あれイマサなんだ。チャルメ…いや、コンタさんじゃなく?

 杏子 そう、イマサって言葉の使い方が巧みでね。私とコンタに歌わせるべく、作家的に作ってたの。でもステージ上でコンタと私が見つめ合うようなことはなかった。目を合わせたのも1、2回ぐらいかな。

 ――男女ボーカルだけど見つめ合わない。意図的にそういう世界感にしていたんですね

 杏子 どっちかというと女性が強い感じで、演奏もマニアック。イマサの細かいギターのディレイとか。ベースのエンリケもドラムのコイソ(小沼俊明)もすごくうまかったし。レコーディングでは複雑なことやってて、実は歌のコード進行がめちゃくちゃ複雑で、覚えるのが大変だった(笑い)。

 ユカイ テクニカルだけど、ポップなイメージだったよ。お客さんにちゃんと向いているというか、だから誰でも楽しめた。

紙面掲載2ユカイ

 ――レッズは?

 ユカイ 俺たちはアサッテの方を向いてた(笑い)。

 杏子 バービーもなかなかだったな。取材の時とか、男子はとんがりまくってて。一時、私は私でインタビュアーと目を合わせないようにしていた。聞かれたらそれなりの受け答えができないとダメだと思っていたから、質問されるのが怖くて。

 ユカイ 今の杏子から考えられないね。当時、実はメンバーが厳しくて、大変だったって聞いたけど。

 杏子 みんなプロ志向が強くて、その中に私はポッと途中から入ったから、ミュージシャンの専門用語とか、分からないことがいっぱいあってね。「明日TD(トラックダウン)ね」とか言われても分からないわけ。今考えれば聞けばいいんだけど、当時の私は知らないとも言えず、そういうのキツかったな。

 ユカイ 知らないことあるよね。俺もモニタースピーカーのこと足置きだと思ってた(笑い)。

高校時代に太宰にハマって、暗くなって自分に酔って…

 ユカイ 子供のころってどういう子だったの?

 杏子 普通に歌謡曲とかフォークソングとか聴いてる子だった。フォークは、あの悲しいメロディーがいいなと思って。中学生の時に叔父にギターをもらって、歌本見ながらコードをチャカチャカ弾いてて、弾いてるだけだとつまらないから歌ってみようか、って歌いだした。

 ユカイ 俺も世代が一緒だけど、70年前後はフォークがはやってたからね。

 杏子 高校生になると、プログレ(プログレッシブ・ロック)にハマるようになって、ELP(エマーソン、レイク&パーマー)やキング・クリムゾンを部屋にこもって聴いてた(笑い)。

 ユカイ 女子高生でプログレにいくのは珍しいんじゃない? それは彼氏の影響?

 杏子 いや、違うの。受験勉強で「この世の終わり」みたいな気分で苦しんでいた時、FMラジオから流れてきて、「なんだこれ? いいなぁ」って。それから「こんな勉強が何になるんだ」と思いながら、自分のための受験なのに、勝手に屈折した気持ちで聴いてた(笑い)。はやっていた時代ではあったけど。

 ――確かにドロドロ感があって、先が見えない気持ちとマッチする音ではありますが…。読んでいて気になった方はキンクリの「クリムゾン・キングの宮殿」などを聴いてみてください

 杏子 あと、女子はだいたい太宰治を通るね。プラスちょっと坂口安吾。

 ユカイ 俺も太宰と芥川龍之介は通った。世代的にそこを通るよね。で、暗くなる(笑い)。

 杏子 暗い自分に酔ったりしてね。「生まれて、すみません」みたいな感じで(笑い)。私は太宰の作品の登場人物のように、明るい自分を装って陰では…みたいなのを実行していて、学校では「こんにちは」って普通に振る舞い、心の中ではドロドロドロ…ってのを喜んでやってた(笑い)。実際、あのころはそういう女子も多かったなぁ。

太宰治

文豪・太宰治

 ユカイ そこは同じ“太宰道”でも男と女の違いがあるのかな。俺は暗い自分をやり切って、高校1年から2年までの1年間、学校でひと言も話さなかったよ。のめりこんだ末の“暗黒の時代”だった。そのころ、音楽も捨てたんだよ。勉強するためにはこんなの必要ないって、ギターも処分してさ。

 杏子 え! 捨てちゃったの?

 ユカイ いや、押し入れの高い場所に、布でグルグル巻きにしてしまってただけだけど(笑い)。

 杏子 私はむしろ、フォークギターで暗い曲を書いて歌ってた。マイナーコードで暗~い歌詞の(笑い)。プログレ聴いてフォーク歌ってたって、今考えるとぐちゃぐちゃだね(笑い)。

 ――おふたりともポップスター、ロックスターのイメージからだいぶ遠い高校時代なんですが…。意外過ぎます

 杏子 大学に入ってからも、江古田(東京・練馬区)のライブハウスで暗い曲を弾き語りしてた。

 ユカイ 暗い曲路線はどう変わっていったの?

 杏子 大学を卒業して、商社に就職する時にバンドもやりたいなと思って探してたら、「喝!タルイバンド」の垂井ひろしくんに「歌わない?」と誘われて。垂井くんはその後、イラストレーターとして成功してるの。

 ユカイ 才能がある人だったんだ。どんなバンドだったの?

 杏子「ザ・フー」みたいなモッズ系。ネクタイしてパンツはいて、一見、男だけのバンドに見えたと思う。でもフーは聴いたことがなくて大苦手だったんだけどね。

 ユカイ フーは日本では理解されず、人気にならなかったんだよね。モッズの次は?

 杏子 その「喝!タルイバンド」で対バンしたのが、私が入る前、男だけだった「バービーボーイズ」。イマサがライブに下見に来て。「今度対バンするいまみちです」ってあいさつされた時、「うわ! なんか怖い!」と思った(笑い)。

次週、後編に続く

きょうこ 1960年8月10日生まれ。83年にバービーボーイズとCBSソニーのオーディションを受け、グランプリ獲得。後に正式加入し、84年にデビュー。92年に解散後はソロアーティスト、山崎まさよしらとのユニット「福耳」などで活躍。
ダイアモンド・ユカイ 1962年3月12日生まれ。東京都出身。86年にレッド・ウォーリアーズのボーカルとしてデビュー。89年に解散後、数度再結成。最新ソロアルバム「The Best Respect Respect In Peace…」が発売中。

※この連載は2018年4月3日から5月15日まで全6回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真やアーティスト公式のYouTube動画を加えて2回にわけてお届けします。

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