「ウマ娘」では勝負師!ナカヤマフェスタの凱旋門賞を「東スポ」で振り返る
ナカヤマフェスタは「ウマ娘」にも登場しますが、実装はされておらず、まだそれほど目立つ活躍も見せていません。実馬も、他の名馬に比べて、それほど目立つ存在ではありません。しかし、あの2010年の秋、超ド級のインパクトで我々を奮い立たせてくれました。舞台は、今年も間もなくやってくるあのレース。日本馬が一度も勝ったことがない凱旋門賞です。当時の状況を、一ファンとして見ていた私の記憶と「東スポ」で振り返りましょう。今回は短めです。(文化部資料室・山崎正義)
熱量
2010年10月3日深夜――
凱旋門賞のゲートが開きました。
地上波の生中継はなく、パブリックビューイングもない。有料のグリーンチャンネルやCSの契約をしている人だけが見られるような状況の中、ライトな競馬ファンは翌日からの仕事に備え、既に眠りについていたでしょう。コアなファンはテレビの前。でも…
〝かじりつくように〟
ではありませんでした。
ドキドキ
ワクワク
全くそうではなかったかと言えばウソになりますが、〝手に汗握って〟というわけではなく、テレビから聞こえてくる凱旋門賞特有のあの蹄音のように淡々と、私たちもどこか淡々とレースを眺めていました。
「ダメだろうな」
「そう簡単じゃないもんな」
出走していた2頭の日本馬は中団に控えています。
「あっ…」
レースが後半に入ったころ、前にいる先輩の馬の周囲がゴチャつきました。
「あぁ…」
勝負所です。ここでポジションを下げたら勝負にならないと思ったのでしょう。騎手が促し、その馬が前に進んでいこうとしたとき、外から別の馬がかぶせてきました。
「あっ!」
騎手が腰を落とすような不利。
「ダメだ…」
「ダメか…」
ほとんどのファンが絶望したでしょう。だから、直線でその馬が先頭に躍り出ようとしたときの声はこうでした。
「え?」
「え?」
残り200。
抜け出します。
内から上がってきた馬との一騎打ちになります。
叩き合い。
前に出た。
出たように見えた。
「えっ」
「えっ」
戸惑いと驚きの中、誰もが腰を上げました。
「えっ!」
「えええ!」
前に出たはずが抜けない。
でも、食い下がる。
もう一度前へ
前へ
その踏ん張りに
気合に
口からは馬名も騎手名も出ませんでした。
「んっ」
「んんっ…」
唸りながら
呻きながら
息が止まった20秒
ナカヤマフェスタ
2着
差はわずかに
アタマ
よく言われます。
「日本馬が凱旋門賞に最も近づいた瞬間」
確かに勝ち馬との差は最も僅差です。
エルコンドルパサー 半馬身
ディープインパクト クビ+半馬身
オルフェーヴル クビ
でも、ファンにとってあのレースはちょっと意味合いが違いました。
「夢がかえってきた瞬間」
「凱旋門賞制覇への思いをもう一度甦らせてくれた瞬間」
あきらめるな――
そう、ナカヤマフェスタは僕らをもう一度立ち上がらせてくれた馬でした。
衝撃の反動
あの日、なぜファンの熱は低かったのか。なぜ、あきらめ半分だったのか。最大の理由は4年前にありました。
ディープインパクトの敗戦です。
無敗の三冠馬
史上最強馬
近代競馬の結晶
古馬になった秋、満を持して向かった凱旋門賞に日本中が熱狂しました。
「勝てる…」
「勝てるぞ!」
凱旋門賞観戦ツアーはキャンセル待ち。各地で行われたパブリックビューイングは深夜なのに人であふれ、パリ・ロンシャン競馬場には6000人の日本人ファンが詰めかけました。
「ついに…」
「凱旋門賞を勝つ日が来た!」
誰もがそう思ったでしょう。
直線、先頭に立ったとき、誰もが確信したでしょう。
でも、届かなかった。
ファンの心が折れました。
「ディープでも勝てないのか…」
「ディープで勝てないなら…」
「無理だよ」
「凱旋門賞を勝つなんて日本馬には無理なんだ」
2年後のメイショウサムソンも歯が立たず、10着。
「ダメなんだよ」
「無理なんだ…」
そんな空気ができていたから、あの日、我々は冷めていたのです。
そして、もうひとつの理由はほかならぬ馬自身。
ナカヤマフェスタ
この馬、過去に挑戦したどの馬より、実績がなかったのです。
プロフィール
2歳の秋にデビューしたナカヤマフェスタは新馬戦を3番人気で勝ち、既に出世レースとなっていた東スポ杯2歳ステークスに向かいます。
デビュー戦の勝ち方も地味でしたし、印はやはりこの程度でしょう。フェスタの父ステイゴールドも、この時点でドリームジャーニーが朝日杯フューチュリティステークスを勝っていたものの、「なかなかやるじゃん」「サンデーサイレンスの後継まではいかないけど意外といい馬を出すね」ぐらいの評価でしたから、良血扱いもされていません。9番目という人気も妥当なところだったのですが…。
粒ぞろいのメンバー相手に勝ち切ったのですからビックリ。一躍、クラシック候補となります。しかし、3歳になってのフェスタは歯車がかみ合いません。年明け初戦の京成杯を、他馬の落馬のあおりを受けて2着に取りこぼすと、皐月賞は8着。ダービーでは4着に入ったものの、新聞での評価はこんなものでした。
ただ、秋になり、セントライト記念を快勝すると、評価が変わってきます。ダービー馬のロジユヴァースが戦線離脱し、皐月賞馬アンライバルドやリーチザクラウンが秋初戦で勝ち切れず、距離に不安を抱えていたため、菊花賞の有力馬に数えられるようになるのです。本紙ではこんなに◎がつきました。
8・4倍の4番人気。が、結果は見せ場なく12着。鞍上の蛯名正義ジョッキーはレース後、こう話しました。
そう、実はフェスタはちょっぴり困った気性の持ち主で、このころ、かなり難しい面を見せるようになっていたのです。勝ったセントライト記念でもゲート入りをゴネたうえ、3コーナーで騎手の指示に反抗するようなしぐさも見せていました。父ステイゴールド譲りの激しい気性が悪い方向に出始めていたのです。調教でも言うことをきかなくなっており、菊花賞後、3番人気で挑んだ中日新聞杯というGⅢでも13着と大敗してしまいます。だからその後、4か月休んで出てきたメトロポリタンステークスという、重賞ではないオープン競走でも微妙な印の付き具合。
サラブレッドが本格化する4歳で、既に重賞を2勝している馬ですから普通に考えれば1番人気です。でも、気性難のことも知られつつあったので、誰もが半信半疑。結局、3番人気という微妙な立場でレースを迎えます。で、サクッと勝つんです。勝つんですが、地味でした。宝塚記念に向かうものの、正直、目立ちません。
本紙では結構印がついていますが、単勝は8番人気。10倍台、20代倍ならまだしも、オッズは37・8倍ですから、上位とはかなり差のある立場で、中団に控えたフェスタには鞍上の柴田善臣ジョッキーからムチが入っていました。絶好の手ごたえではなく、促されて上がっていくような状況。直線に入ってしぶとく伸びてきたときは「誰?」ぐらいのものでしたから、先行抜け出しを図っていた3番人気のアーネストリー、その内から抜け出そうとする1番人気のブエナビスタに届くとは思いませんでした。それが…
「へ?」
「ナカヤマフェスタ?」
「えー!」
というわけで、ファンの声を代弁した翌日の本紙の見出し。
はい、何があったんだ?という激走でした。記事では気性面が成長しつつあることも書かれており、それが大きかったのは間違いないのですが、陣営からは「とにかく気分屋なんだ」というコメントも出ており、漂ったのはフロック感。稍重の馬場も向いたようにも見えたため、本当に強いのかどうか、ぶっちゃけ分かりませんでした。こういったとき、競馬ファンは結論を先送りします。
「次だな」
「次を見て本当に強いかどうか判断しよう」
で、困ったことに、次がどこだったかというと…
フランス!
だったのです。
果敢か無謀か
「え?」
「海外?」
「凱旋門賞挑戦?」
「大丈夫なの?」
ファンの本音としてはこうでした。このnoteの最後にある馬主さんの思いを知っていれば別ですが、当時はそこまで知られていませんでしたから、当然の心配と不安です。で、その「大丈夫なの?」という気持ちになった理由こそ、先ほど言った実績のなさ。1999年のエルコンドルパサー以降、凱旋門賞にチャレンジした馬のその時点の獲得タイトルを列挙してみましょう。
フェスタとは比べ物になりません。しかも、どの馬も複数のGⅠを勝っていただけではなく、〝国内ナンバーワン〟もしくは誰もが認める〝国内トップクラスの実力〟を証明してから海を渡っていました。なのに、フェスタはたった1つGⅠを勝っただけ。しかも、伏兵での勝利で、実力が本物なのか証明されていないのです。
3歳にしてジャパンカップ優勝、既に欧州のGⅠを勝ち、前哨戦も勝っていたエルコンドルパサーでも、無敗の三冠馬で史上最強馬と呼ばれたディープインパクトでも勝てなかった。
なのに…
これがあの凱旋門賞でファンの熱が低かった最大の理由です。フェスタは前哨戦のフォア賞というGⅡで2着に入り、フランスの馬場への適性は見せていました。鞍上に戻ってきた蛯名ジョッキーは我々に夢を見させてくれた1999年の2着・エルコンドルパサーの主戦です。厩舎もエルコンドルと同じです。メンバーも例年より弱い。それでも、
「さすがに…」
が本音でした。蛯名ジョッキーが連載を持っていた本紙は、他紙よりも多く、大きく、その挑戦を取り上げました。前哨戦が終わった時点でこう。
凱旋門賞ウイークだって
金曜の新聞でも
土曜の新聞でも
ディープのときには遠く及びませんが、まだ凱旋門賞が身近に感じられなかったエルコンドルのときとは同じぐらいの扱いです。それでも、そんな本紙を社員として熟読していた私でも
「さすがに…」
だった。それぐらい、4年前の衝撃が大きすぎたのです。そう、もう一度、そして何度も、これに戻ります。
「あのディープでも勝てなかった」
やはり、折れていました。
競馬ファンの心は折れていた。
凱旋門賞制覇は遠い夢になっていた。
熱は失せていた。
あきらめていた。
目は死んでいた。
そんな目に飛び込んできた叩き合い
勝てるかと思ったゴール前
折れた心を癒やし
その心に火をつけた
日本の競馬ファンをもう一度立ち上がらせた
夢を見ることを思い出させてくれた
それがナカヤマフェスタです。
名馬ランキングのような企画をやっても、この馬はなかなか上位には入りません。大健闘の2着の後、ジャパンカップも負けました。翌年、凱旋門賞に再びチャレンジするも大敗しました。でも、日本の競馬ファンと凱旋門賞の関係を考えれば、その功績はとてつもないです。着順はもちろん、大きな不利を受けた後に見せたド根性。冷静に分析すると、ヨーロッパの馬場に高い適性を持っていたことも大きいのですが、宝塚記念を8番人気で勝った馬が勝負になったという事実は、適性さえあれば最強馬じゃなくても勝負になることも証明しました。ファンはもちろん、当時、積極的に海外遠征をするようになっていた競馬関係者も勇気づけられたに違いありません。フェスタによって、日本人はもう一度、前を向いたのです。
「あきらめなければ」
「挑戦し続ければ」
「いつか勝てる!」
「日本馬が凱旋門賞を勝つ日が来る!」
それは、今年かもしれません。
想い
凱旋門賞の直前、本紙はナカヤマフェスタのオーナー・和泉信一さんをインタビューしています。実はフェスタは前年まで信一さんのご息女・信子さんの所有馬。信子さんが亡くなったことで信一さんが名義を引き継いだそうで、次のように話してくださいました。
そんな思いが込められた馬が宝塚記念を勝ったわけです。さらに…
だからこそ、宝塚記念の前、メトロポリタンステークスを勝った後に、まだGⅠも勝っていないのに、凱旋門賞の1次登録をしていました。
信子さんに導かれて立った凱旋門の舞台。信一さんは「勝っても負けてもナカヤマフェスタで〝フェスタ〟。お祭りしてこようと思います」と笑っていたそうですが、そのお祭りが、そして和泉家の思いが、我々をあれだけ勇気づけてくれたわけです。感謝しかありません。
凱旋門賞2022 血と人
今年、凱旋門賞に挑戦するステイフーリッシュはフェスタと同じ、ステイゴールドの子供です。また、ドウデュースの武豊ジョッキーは、フェスタの2着を後ろから見ています。あの凱旋門賞に、ヴィクトワールピサで参戦していたのです(7着)。日本馬の、そしてレジェンドの悲願なるか…「東スポ競馬」では、この秋、弊社に加わった三嶋まりえ記者が現地から徹底リポート。武豊ジョッキーの〝生声〟も届けてくれるそうなので、お見逃しなく。