2年目のジンクス、苦しかったシーズン後には元木大介君と罰ゲームを受けた【仁志敏久連載#5】
KKコンビの優しさに感謝感激!!
日本シリーズ敗戦後に血行障害の手術を受け、山あり谷ありの1年目はやっと終わりました。ところが、検査や手術を受けている間にチームは大きな局面を迎えていたのです。
あこがれの存在だった清原が同じチームに(後列右が仁志、左が松井)
一つは西武からFA宣言をしていた清原和博さんの獲得。
桑田真澄さんとともに清原さんは我々にとってはONのような存在です。PL学園ではKKコンビと称され1年目から大活躍。当時、高校野球のみならず野球界そのものに大きな衝撃を与えた人です。
桑田さんは右ヒジを手術し、リハビリをしていたため、この年一緒にプレーすることはありませんでしたが、翌年からKKコンビが一緒にフィールドに立ち、そこで自分も一緒にプレーするのです。ワクワクしないわけがありません。
翌年1月の自主トレではグラウンドで清原さんを一度だけ見かけるも、ずいぶん遠くにいたためあいさつができず、なかなか間近でお会いすることはできませんでした。これは練習の時間帯が違っていたこともあります。当時、清原さんは多くのマスコミに追いかけられていたため、他の選手に迷惑をかけないようにと、大半の選手が帰った午後から練習に訪れていたのです。
後年、番長などと言われるようになりましたが、もともとは非常に優しく、このように仲間への気遣いをする人なのです。そしてやんちゃで豪快なところがとても頼もしく思える人でもあります。こわもてのイメージというのは、マスコミが勝手に強調して作り上げたキャラクター。周りの人間に追い詰められ、でもその逆境に屈しない強さを表現するのには、自らもそれに乗るしかなかったというのが印象です。
清原さんと初めて言葉を交わしたときのことは今でも鮮明に覚えています。毎年1月に行われる巨人のファンイベント「GO!GO!ジャイアンツ」での舞台袖。
出番を待つ幕の裏側で、ちょうど向こう正面にいた清原さんが、遠くから握手をするようなしぐさで右手を出し、「よろしくな!」。そう声をかけてくれたのです。本当ならこちらから声をかけなければいけないのに、大変失礼なことをしたと反省していました。
KKコンビと同じチームで戦える喜びは大きかった(写真は05年)
そういえば1年目のシーズン序盤、不振にあえいでいた時に桑田さんが手紙をくれたことがありました。「頑張れ。ケガが治ったときに一緒にプレーするのを楽しみにしているよ」。会ったこともないのに手紙をくれるなんてと感激しました。今でもKKコンビには感謝の念が尽きません。
清原さん加入の一方で残念なことも。手術の麻酔が解けて目を覚ますと、テレビでは落合博満さんの退団会見が報じられていました。偉大な選手と1年でも一緒にプレーできたことは財産の一つです。もっと教えてもらえばよかったと今更ながらに後悔しています。
いよいよ2年目のキャンプ。まだまだ試練が待ち構えていました。
何度も思った「セカンドなんてできねぇ!」
2年目となる1997年はセ・リーグ優勝旗の下で始まりました。
前年11月に受けた血行障害の手術痕もほぼ完治し、元気にキャンプイン。「2年目のジンクスなど吹き飛ばしてやるから見てろよ」。そう思っていましたが、話題の中心はKKコンビ。清原和博さん、桑田真澄さんが行くところ行くところにファンやマスコミが集まり、まるでお祭りのにぎわい。それについてコメントを求めるマスコミはさらに長嶋茂雄監督、松井秀喜君にも押し寄せ、あちらこちらで人の波ができていました。
そんな光景を横目にこちらは猛練習。前年、サードで大半の試合に出場しましたが、この年からセカンドへ。さらに新人王を取ったとはいえ、納得のいかない打撃も改造と練習が必要で、ヘトヘトな毎日でした。
セカンドへのコンバートは守備コーチだった土井正三さんの「サードでは大砲や外国人が来たらすぐどかされる。だからセカンドをやるんだ」という言葉がきっかけでした。
熱心に指導してくれた土井コーチは恩人だ
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