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「ねちっこいやつらめ…」体力は限界なのに不思議と疲れを感じなかった【定岡正二連載#6】

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9回ツーアウトの土壇場で浴びた同点打

 長い長い戦いはまだ、始まったばかりだった。1974年の夏の甲子園・準々決勝第4試合は、後攻の東海大相模(神奈川)が初回に2点を先制。ボクたち鹿児島実業は、優勝候補相手にいきなり大きなハンディを背負ってしまった。

 何しろ鹿実打線がこの甲子園大会の2試合で取った点はたったの2点。貧打を少しでも克服しようとバントの構えで相手を揺さぶり、バスターでコツコツ当てていく戦法を取っていたほどだったから、とてもじゃないが一発なんて期待できるわけがない。「ああ、これで終わりか…」。スコアボードの2点がとてつもなく大きく見えた。

 それでもあの日のボクたちはどこか違った。東海大相模の先発は下手投げ投手の伊東義喜。鹿児島県大会決勝の鹿児島商業戦で同じ下手投げの怪物投手・堂園喜義を攻略した自信があったのかもしれない。

 すぐさま2回、この回先頭の6番・柳田が左前打で出塁すると、続く中村光がきっちり送る。一死二塁から中村孝がヒットで出て一、三塁とチャンスを広げ、ここで打席に立ったのは9番のボク。「今日のオレたちはこれまでとは違うぞ!」。がぜん元気になって思い切りバットを振ると、快音を残した打球は同点二塁打となり、慌てた相模の原貢監督は伊東を右翼に下げ、2番手の村中秀人をマウンドに送った。

後に東海大相模の監督になった村中秀人(1992年3月)

 だが、鹿実の勢いはそう簡単には止まらない。村中から溝田が右中間へ二塁打を放ってあっという間に逆転だ。こうなると現金なもので、2回からは直球がいくようになり、カーブもブレーキよく低めに決まるようになった。すっかり立ち直ったボクは、3回から8回までをほぼ完璧に抑えてみせた。その間、打たれたヒットは原辰徳の二塁打だけだった。

「おっしゃ、勝てるぞ!」。試合は3―2のまま、とうとう最終回を迎えた。だが、ボクたちの前に立ちふさがったのは、またしても相模が誇る1年生スラッガーだった。この回先頭の原辰徳にこの試合3本目のヒットとなる中前打で出塁され、送りバントで得点圏へ。

 それでも何とか二死までこぎつけたのだが…。迎えた打者は2回途中でKOされ、その後は右翼に下がっていた伊東。もちろん自分が3失点し、しかも最後の打者にまでなってはたまらない。今にして思えば向こうの気合が上回っていたんだと思う。きれいにセンター前へとはじき返され、きっちり“お返し”をされてしまった。

東海大相模の1年生スラッガー・原には大事な場面でことごとく痛打を浴びた

 9回二死の土壇場から同点――。「ねちっこいやつらめ」。そう嘆いてみても仕方がない。だが、何とか後続を断ち「まだ負けたわけじゃない」と気を取り直して延長戦に突入したボクたち鹿実は、この後も東海大相模の「粘りの野球」を嫌というほど見せつけられることになるのだった。

14回裏、またも「あと1人」になったのに…

 まばゆいばかりのカクテル光線がきらめいていた。第56回全国高校野球選手権大会準々決勝・第4試合は、8回から照明が入りナイターになった。ボクたち鹿児島実業は、勝利まで「あと1人」というところまで行きながら、9回二死から粘る東海大相模(神奈川)に同点に追いつかれ、試合は3―3のまま延長戦へと突入した。

ナイター照明が入った甲子園球場

「くそっ、ねちっこいやつらめ…」。そう吐き捨てたボクは9回を投げ切り、体力は限界に達しているはずだった。だが、不思議と疲れは感じなかったし、このまま永遠に投げ続けられるような感覚にも陥った。おそらくすごい集中力が肉体の疲れを忘れさせてくれたのだろう。自分の体があんな状態になったのは初めてのことだった。

 異常なまでの集中力を発揮したのはボクだけじゃない。高校野球史に残る奇跡的な“背面キャッチ”も飛び出した。延長12回二死二塁という一打サヨナラの大ピンチで、相模の2番・原雅巳が放ったヒット性の当たりが二塁後方へと飛んだ。「やられた!」「サヨナラだ!」。誰もがそう思った瞬間、懸命に背走した二塁の中村孝が後ろ向きにダイビング。そのまま倒れ込んだグラブの先にはボールがしっかりと収まっていた。「すげえぞ!」。誇らしげに甲子園の夜空にグラブを掲げる中村孝の姿に、鳥肌が立ったのを覚えている。

 迎えた14回、ボクたち鹿実に待望の勝ち越し点が入った。相模のマウンドには10回から再び伊東義喜が上がっていたのだが、エラーとヒットでつかんだ二死一、三塁のチャンスで、6番・柳田が放った打球はフラフラとレフトとショートの間へ。これがポテンヒットとなり、三走・井上が手を叩いてホームインだ。

「おっしゃ、あとアウト3つだ!」。そう気合を入れたボクだけど、野球の神様はまだ、試合を終わらせてはくれなかった。その裏の相模の攻撃は一死からエラーで出した走者に三塁まで進まれたものの、すでに二死。再び「あと1人」という状況までこぎつけた。

勝ち越せば追いつかれ…。原を中心とした東海大相模打線の執念もまた、素晴らしかった

「タイム!」。ここで久保克之監督はボクと捕手の尾堂をベンチに呼び寄せ、直接ゲキを飛ばしてくれたけど…。続く原雅巳が打ち上げた打球は猛然と突っ込む右翼手・溝田のグラブの数センチ先をかすめ、右翼線ぎりぎりに落ちる同点タイムリー三塁打となってしまった。

「おまえら、しつこすぎるぞ!」。またも「あと1人」で同点に追いつかれたボクたちは、相模の執念に恐ろしいものを感じた。「野球はツーアウトから」とはよく言うが、あの時の相模には「野球はあと1人から」という言葉の方が似合った。

 だが、ここまで来たら引き下がれない。「こうなったらどこまでも投げてやる。20回でも25回でも行きやがれ!」。相模の執念を目の当たりにしたボクは気力を振り絞るかのようにほえていた。

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さだおか・しょうじ 1956年11月29日生まれ。鹿児島県出身。鹿児島実業高3年時の74年、ドラフト会議で巨人の1位指名を受け入団。80年にプロ初勝利。その後ローテーションに定着し、江川卓、西本聖らと3本柱を形成するも、85年オフにトレードを拒否して引退を表明。スポーツキャスターに転向後はタレント、野球解説者として幅広く活躍している。184センチ、77キロ、右投げ右打ち。通算成績は215試合51勝42敗3セーブ、防御率3・83。2006年に鹿児島の社会人野球チーム、硬式野球倶楽部「薩摩」の監督に就任。

※この連載は2009年7月7日から10月2日まで全51回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全25回でお届けする予定です。

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