「35歳で殴られたくねぇな」阪神へのトレードを拒否した一因は星野仙一さん【下柳剛連載#15】
先発転向はすんなりいったが、実松と息が合わなかった
2000年のシーズン途中から先発に転向したオレは、代理人交渉や年俸調停を経て迎えた01年のシーズンで開幕から先発ローテーションの一角を担った。登板した試合すべてが先発だったのはこの年が初めてで、成績は21試合で9勝8敗。イニング数が121回にとどまったのは物足りなかったけど、先発投手として1年間を過ごしたことは個人的にも財産となった。
あのまま毎年のように60試合近く投げていたら、引退が早まっていた可能性もある。00年に先発転向を勧めてくれた投手コーチの森繁和さんには、ほんと感謝だ。
実を言うと、体だけじゃなくメンタル面も限界近くに達していた。職業病とでも言うか、試合中に鳴り響くブルペンのインターホンの電子音が、寝ても覚めても頭の中をよぎるようになってね。それこそ友達と食事をしたり酒を飲んでいたりしていても、お店のインターホンがプルルルって鳴った瞬間に、心拍数が上がっちゃったりしてさ。
先発転向もすんなりといって、01年オフの契約更改交渉も前年に比べればスムーズに進んで、いい方向に歯車が回り始めた…と思っていたら、落とし穴が待っていた。02年のことだ。
体の調子も良くて、開幕2戦目の先発を託されたほどだったのに、春先に黒星が先行してね。あえて言い訳するなら「若手捕手を育てる」っていうチームの方針でバッテリーを組むことになった4年目の実松一成(現巨人)と息が合わなかったっていうか…。本当は、ダイエー時代の工藤公康さんが城島健司を育てたように、先輩のオレが引っ張ってやれれば良かったんだろうけどね。
そうこうしているうちに二軍での再調整を命じられて、しまいには左ヒジまで痛みだした。それも「手術した方がええんちゃうか」って真剣に悩むぐらいに。でも、病院で検査してもらった結果は「異常なし」。いま考えても、あの左ヒジ痛は謎のままだ。実際に、翌年は阪神で2桁勝利を挙げているんだからね。ストレス性ヒジ痛? そんなのないか。
結果的に、オレの成績不振は球団にとって「渡りに船」だったのかもしれない。オフになると真っ先にトレードの話を打診されたぐらいだから。行き先として「阪神」の名前を挙げた球団側の言い分は「どのみち契約更改では限度額を超えるダウン提示になる。キミは功労者だし、自分で選んでくれ」。オレの答えはNO。「行き先は自分で探します」と言って突っぱねた。
トレード前夜に高田延彦さんとしこたま飲んだ
2002年オフに降って湧いた阪神へのトレード話は、オレが「拒否」の姿勢を示したことで難航した。もともとは阪神の坪井智哉、山田勝彦、伊達昌司と日本ハムのオレ、野口寿浩、中村豊の3対3の交換トレードだったんだけど、オレが首を縦に振らなかったことで、ひとまず野口と坪井の1対1の交換トレードだけが先に発表された。
オレが「はい、分かりました」と言わなかったのには、いくつか理由がある。その一つが、星野仙一監督の存在だ。プロ入りのときに「中日にだけは行きたくないなあ」と思っていたのと理由は同じ。オレの中では「星野さん=怖い人」というイメージしかなくて「来年には35歳になるってのに、いまさら殴られたくねえな」って本気で心配していた。この時点では、引退するまでお世話になるなんて思ってもみなかったし。もう一つが愛犬・ラガーの存在。オレの相棒でもある黒いラブラドルレトリバーを、身寄りのない関西に連れては行けないからだ。正直、このことの方が悩みの種だった。
そうは言っても最初から日本ハム残留という選択肢はなかったし、球団側に「移籍先は自分で探します」と大見え切った以上、自分で何とかしなきゃいけなかった。そこで、前年に日本ハムを退団して、当時は横浜(現DeNA)の投手コーチをされていた森繁和さんに相談したんだけど、自由契約になったわけじゃないから、すぐにどうこうなるわけでもない。しかも、自宅マンションの玄関付近には張り込み中の刑事よろしく球団職員が立っていて、毎日のように「阪神へのトレードをOKしてもらえませんか」とせっついてくる。
そんなときに背中を押してくれたのが友人たちだった。ある人から「シモちゃんが伝統の巨人―阪神戦で投げてるのを見てみたいな」と言われてグラッ。別の友達は「ラガーなら、オレが預かってあげるよ」とまで言ってくれて、グラグラッと揺れた。
幸いなことに、1年頑張ればFA権を取得できることが分かっていた。ひとまずラガーは友達の厚意に甘えて預かってもらうことにして、シーズンが終わったらFA権を行使して関東に戻ろう。最大の懸案事項に答えが見つかったことで気持ちも楽になり、阪神へのトレードを受け入れる決意もできた。それは同時に1億4300万円の年俸が7000万円まで減額されることも意味していたんだけど、そんなものは移籍先で頑張って取り返せばいいんだから。
心のモヤモヤが一気に晴れたオレは、トレード前日の夜にしこたま飲んだ。その日は何かとお世話になった格闘家の高田延彦さんが「PRIDE23」で田村潔司を相手に引退試合をした日でもあり、もう朝までコース。まさか翌日に猛省することになるとも知らず、ハイペースで酒を体内に流し込んでいった。
※この連載は2014年4月1日から7月4日まで全53回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全26回でお届けする予定です。