ガンガン叱り、何気なく褒めるのが百田光雄さん【ターザン後藤連載#5】
鬼教官。プロレスを教えてくれた百田光雄さんは、とてつもなく怖い人だった。
全日本プロレスに入門当初のこと。千葉にいる10歳離れた姉さんに、移動バスの待ち合わせ場所・品川に送ってもらった時の出来事だ。オレは当時まだ15歳。自分で言うのも何だが、今と違って顔も良くて「ジャニーズ系」と周囲にもてはやされ、姉さんにも我が子のようにかわいがってもらっていた。
だが、姉さんはプロレス界がどういう世界かは理解していなかった。百田さんは、心配してその場を離れようとしない姉さんに「もう帰っていただいて結構です」と冷たくあしらった。ついには「女の子じゃないんだから」と怒鳴り散らして泣かせてしまった。
とっくの昔から「プロレスラーになる」と決めていたオレでも「何て恐ろしい世界なの」「本当に大丈夫なの」と泣き崩れる姉さんの姿を目の前にして、いささか不安になっちまった。
その日の試合後、百田さんはバスの一番前の席で恐縮しているオレのところへやってきて「お前は気が強いか」と尋ねてきた。出発前の一件もあって、本心を隠して「弱いです」と答えると「そんなことではやっていけないぞ」と一喝。こってりと絞られてしまった。
正直に「強い」と言えばよかったとつくづく後悔したが、後の祭り。ますます百田さんへの恐怖心が募っていった。
練習や試合にも厳しかった。百田さんの怒鳴り声に新弟子一同、ビビりまくりながら数え切れないほどの受け身をとっていた。キツすぎて仲間が次々に辞めていき、残ったのはオレだけ。もはや逃げ場もなくなり、すべての雑用をひとりで抱えつつ、ハードな練習に耐えた。心身ともに休まることなど夢のまた夢だった。
苦しい日々のおかげで芽生えた向上心
加えて、試合については勝負タイムよりもはるかに長いお説教が待っている。これが毎日のことだから、さすがに周りも気の毒そうにしていた。
しかし、苦しい日々のおかげで向上心が芽生えた。「一度でいいから、百田さんに怒られない試合がしたい」。オレはその一心でガムシャラに頑張った。努力のかいあって2~3年がたったころ、ようやくその時を迎えることができた。
いつものように試合を終えて控室へあいさつに行くと、その日の百田さんは「オウ、ありがとな」としか言わない。それどころか「このシューズ欲しいか」と。涙が出るほどうれしかったなあ。
百田さんは本当の師匠、親父と思えたうちの1人。常に大きい存在だった。
オレがFMWでコーチをした時もそうだが、今でも「すごく百田さんの影響を受けたな」と実感している。悪いことをしたら人前でもガンガン叱り、良いことをすれば何げなく褒める。これが百田流なんだ。
百田さんが引退する前に戦いたいな。何十回と戦って、まともに勝ったことは一度もない。引退試合の相手にでも指名されたら非常に光栄。前座試合しか戦わないのに、練習を欠かさなかった百田さんには頭が下がる。
世界ジュニアヘビー級のベルトを取った時(1989年4月20日)は、自分のことのようにうれしかった。努力すれば報われることを百田さんは教えてくれた。