オーランドで知ったプロレスの怖さ!白人ファンがナイフで私を…【坂口征二連載#10】
デビュー1か月半でゴッチさんと一騎打ち
1967(昭和42)年9月。米国・ロサンゼルスでプロレス修行を続けていた私に最大の試練が訪れる。それは何と師匠であるカール・ゴッチさんとの一騎打ちだった。
なぜ、このタイミングで指導者であるゴッチさんと戦わなければならないのか? やや合点がいかないが、プロモーターの決定には逆らえない。
そして迎えた9月20日(現地時間)。私はデビューからわずか1か月半で、世界中から“プロレスの神様”と恐れられるゴッチさんと一騎打ちをする。会場はプロレスの殿堂オリンピックオーデトリアムだった。
普段はセコンドとしてリング下から「サカ、行けっ!」と叫んでいるゴッチさんと対峙するのは不思議な感覚だが、ちゅうちょしている余裕はない。モタモタしていたら、それこそゴッチさんの厳しい攻撃の餌食とされる。
リング中央でガッチリと組み合い、リストロックの攻防で早くも不利な体勢へと持ち込まれる。私の嫌いな寝技に入ると、ゴッチさんの両腕、両足がヘビのように全身に絡みつき、リバースネルソン→クラッチホールドと、次から次へと丸め込まれ、反撃の糸口すら見いだすことができない。
強引に脱出した私は、ボディーシザースで反撃するも、ゴッチさんは瞬時に体をひねってロープに脱出。一拍の間も空けずにスライディング・レッグシザースからデスロックで固められてしまう。何とかロープに逃げるも、立ち上がった瞬間に一本背負いでスポーンとマットに叩きつけられてしまった…。
柔道時代ですらも、ここまでキレイに投げられたことはない。まして道着のないプロレスでだ。ゴッチさんは普段から柔道の動きを研究されてはいたが、完全に柔道技をプロレス流にアレンジした上で、逆に私に仕掛けてきたのだった。
ならば私も、自分の得意技を徹底的に仕掛けるしかない。吹っ切れた私はゴッチさんを正面から蹴り上げると払い腰、一本背負い、さらに2発目の払い腰を見舞った。
ゴッチさんは腰を落として防御したが、私は遠心力を使って強引に巻き込む“払い巻き”でゴッチさんを叩きつける。
この一撃で、肩をマットに強打したゴッチさんは、動きがピタリと止まった。攻撃し続けることによるスタミナ切れを予感した私は、ケサ固めでゴッチさんを押さえ込みつつ呼吸を整える。
ゴッチさんが脱出しようとしたスキを突いて裸絞めに移行。1分が過ぎたが、ゴッチさんは微妙にポイントをずらして防御しているため、絞め落とすには至らない。
結局、私がゴッチさんの首を絞め続けている間に、時間切れのゴングが打ち鳴らされ、30分フルタイムの引き分けに終わった。
デビューから、わずか1か月半でゴッチさんと引き分けたと言えば聞こえは良いが、コーチであるゴッチさんに実戦における攻撃と防御の心得を叩き込まれているような30分でもあった。言うなれば手のひらで遊ばれている感じか…。
試合後、ゴッチさんは「サカ、OKだ。これでロスは卒業だ」と言う。この瞬間、私は年末からフロリダマットに転戦することが決まったのだった。師匠・ゴッチさんとの一騎打ちは最初から、ロスマットの“卒業試験”として組まれたモノだった。
ロス修行時代は60戦無敗12分け
1967(昭和42)年9月。コーチであるカール・ゴッチさんとの一騎打ちに挑んだ私は、30分時間切れで引き分けた。師匠であるゴッチさんと引き分けたことでロサンゼルスマットの“卒業試験”に合格したことになった。
そのまま年末までロスで戦い続け、12月17日のサンディエゴ大会におけるペッパー・ゴメス戦(引き分け)をもって、ロスマットの全日程を終了。60戦して48勝0敗12引き分けという戦績を残し、次なる修行地・フロリダ行きを命じられた。
その頃、ロスでの生活に慣れ始めていた私は、ロス在住の日本の商社マンの人たちと仲良くなり、試合のない日はゴルフやマージャンをしたり、自宅に食事に招かれたりしていたものだ。
またサンバディーノなどで試合が終わると、仲間のレスラーたちと、もらったばかりのファイトマネーを手に、車で3時間かけてラスベガスに遠征し、スッテンテンとなりロスまで朝帰りしたこともあった。
プロレス修行は厳しい。だが練習と試合以外は、細かい制約なしに自由を満喫できる米国での生活は私の肌に合っていた。今考えても、実に楽しい毎日でもあった。
それだけに、ようやく住み慣れてきたロスを離れることに抵抗もあったが、こちらはプロレス修行のため渡米している身。そのためにはプロレスの本場・米国で毛色の違う様々なテリトリーを渡り歩き、戦い、経験を積む必要があった。
12月のクリスマス前。日本からやって来たマティ鈴木さんとロス空港で合流した私は一路、フロリダを目指す。タンパ空港にはヒロ・マツダさんとデューク・ケオムカさんが迎えに来てくれていた。
この時、初対面の鈴木さんは日本プロレスに入門後、国際プロレスに参加し、ヒロ・マツダさんを頼って渡米した先輩。ここから約3か月間にわたって一緒に暮らし、ともに戦うことになったのだが、不思議と日本国内のリングでは何の接点もないまま、お互いに現役生活を終えてしまった。
鈴木さんは米国の永住権を獲得し、今もポートランドに在住。ビジネスマンとして大成功を収められている。今年の5月に帰国された際、坂口道場(東京・狛江)を訪ねて来られ、約40年ぶりに再会を果たした。一緒に食事をして米国修行時代の思い出話に花を咲かせたものだった。
フロリダは現役選手のエディ・グラハムがプロモーターを務め、サム・スティムボートらが人気を集めていた。ロスと比較すると、体格的には小柄だが、気の強いテクニシャンタイプのレスラーが揃っており、正統派ファイトが好まれていた。南部気質とでもいうのか?活気にあふれ、お客さんもよく入っていた。
このエリアの特徴は、実に活動範囲が広いところだ。マイアミビーチやオーランド、タンパ付近だけでなく、時にはバハマ、プエルトリコなど他国にまで遠征する。私はケオムカさんが紹介してくれたタンパの事務所近くのアパートに住居を構え、フロリダ生活をスタートさせた。
旭化成柔道部のある延岡(宮崎)から上京し、芳の里さん(日本プロレス社長)からプロレス転向を打診されてから、ちょうど1年が過ぎようとしていた。
フロリダ湾の広く青い海、そしてでっかい夕日を眺めつつ「思えば遠くへ来たもんだ」と実感していた。
ケオムカさんの豪邸からそのままボートでナマズ釣り
1967(昭和42)年の暮れ。ロサンゼルスからフロリダに修行場所を移した私は、フロリダ入りした先輩・マティ鈴木さんとともに、さっそく練習を開始した。
フロリダでの練習は団体事務所に隣接した道場で行われる。コーチはデューク・ケオムカさんと、当時すでに米国でトップ選手として大活躍されていたヒロ・マツダさんだ。
噂には聞いていたが、マツダさんはいつもニコニコと笑みを絶やさず、決して先輩風を吹かすことのないアメリカナイズされた感覚の持ち主。それでいて米国で成功者となった風格に満ちあふれていた。
小柄でテクニシャンタイプの揃ったフロリダマットでの戦いに備えて、ケオムカさん、マツダさんの厳しい指導は続く。連日、全身から青アザが消えることがなかった。
たまの休日には、ケオムカさんの自宅に招かれて、食事をごちそうになったり、ケオムカさんの子供たちと遊んだりして過ごした。ケオムカさんの自宅は、日本ではとても考えられぬほどの豪邸。何しろ裏庭がタンパ湾の入り江に面しており、自宅からそのままボートで魚釣りに出かけられるほど。ケオムカ邸の裏庭で子供たちと一緒になってキャットフィッシュ(ナマズ)を釣って遊んだのも懐かしい思い出だ。
また当時、まだ4~5歳だったケオムカさんの三男が大変なヤンチャ坊主で手を焼いた。このヤンチャ坊主が、後に練習生として新日本プロレスにやって来たパトリック・タナカだ。まあ彼の場合はオトナになってからも大変なヤンチャぶりは変わらず、特に女性関係では大いに手を焼いたモノだ…。
フロリダマットでは、いきなりエース格のサム・ステイムボートと引き分けたことで評価が高まり、すぐにプエルトリコ遠征が決定した。シングルマッチも多かったが、何と言っても鈴木さんとのタッグが多く、2人でジョニー・バレンタイン、ロッキー・ハミルトン、ワフー・マクダニエルらトップ選手を相手に、オーランド、タンパ、セントオーガスティン、ジャクソンビルなど各都市で戦い続けた。
そして1968(昭和43)年2月10日。オーランド大会で、いよいよ鈴木さんとのタッグでポール・デマルコ、ロレンゾ・バレンティエ組の保持するフロリダ州タッグ選手権に挑戦が決定。鈴木さんとのタッグでノリに乗っていた私は、初の王座奪取に燃えていた。
結果的には3本勝負を1―2で敗退し、王座奪取に失敗するのだが、ここで私はまた違った意味での「プロレスの怖さ」を体験することになる。
私の暴れっぷりに興奮した白人ファンに、ナイフを突き付けられてしまったのだ。すぐに会場警備の警官が駆けつけ、ナイフを持ったファンを取り押さえてくれたため、私は難を逃れた。今思い出しても危機一髪の場面だった。
そのまま鈴木さんとのタッグを継続させ、フロリダ王座を目指すつもりだったが、鈴木さんは当初から3月にオクラホマへと転戦し、同地で修行中の上田馬之助さんとタッグ結成することが決まっていた。そのため、私とのタッグは3か月で解消されることになった。
鈴木さんと別れた私はフロリダに残り、ケオムカさん、マツダさんが掲げる「大きな目標」に向かってまい進することになる。その大きな目標とは――。
デビュー半年で見えた!NWA王座初挑戦
1968(昭和43)年3月。私はマティ鈴木さんとのタッグでフロリダマットを荒らし回っていたが、鈴木さんがオクラホマに転戦することとなりタッグは3か月で解散。その後は一匹狼としてフロリダマットで戦い続けることになった。
デビュー戦以来、レスリングシューズを着用して戦っていたが、パートナーの鈴木さんがはだしだったことに合わせてはだしで戦うようになる。柔道時代からはだしに慣れていた私は、鈴木さんがフロリダから去った後もはだしのまま戦い続けていた。
それまでは鈴木さんとのタッグで南部&世界タッグ王座を目標としていたが、一匹狼としてのフロリダでの目標は見えてこない。そんな私を見かねたのか?デューク・ケオムカさんとヒロ・マツダさんは、私に大きな目標を掲げて、ハッパをかけてくる。
その目標とは当時の世界最高峰、NWA世界ヘビー級王者ジン・キニスキーへの挑戦だ。
デビュー戦から、わずか半年ちょっとの私にとって、あまりに高い目標ではあったが、ケオムカさんは数か月に一度、フロリダに転戦してくるキニスキーを見るにつけ「サカ、ユーには十分挑戦する資格があるよ」とハッパをかけてくる。
3月4日にフロリダ入りしたキニスキーと初対面を果たした私は、何とか挑戦を表明してみたものの、笑顔で握手を返されるのみだった。
全米、いや世界を股にかけて遠征、防衛戦を行うNWA世界王者に挑戦するには、まず、そのテリトリーのトップに立つことが不可欠。そこに至るまでにはリング内外でものすごい競争を勝ち抜かねばならないのが現実だ。幸い、フロリダに転戦した直後、現地のトップ選手と目されていたサム・スティムボートと引き分けていた私は、ケオムカさんやマツダさんの後押しもあり、トップの一角と認識されていた。
そして5月22日のタンパ大会で再び、スティムボートとの一騎打ちが決定した。この一戦の勝者がキニスキーへの挑戦権を手にするというムードが出来上がっていた。
45分3本勝負の1本目。空手チョップの連打で先制したが、2本目はスティムボートの片足タックルでひっくり返され、そのままバナナスプレッドで左足を決められギブアップ。決勝の3本目は、わずか2分でドロップキックをまともに食らい、倒れて後頭部を痛打したところを押さえ込まれてフォール負け。
ケオムカさんとマツダさんが掲げてくれた「キニスキーへ挑戦」が消えただけでなく、このスティムボート戦こそが、私のプロレス初黒星となったのだった。
敗れはしたが、落ち込んでいるヒマなどない。翌日からまた、荒っぽいフロリダマットで一匹狼として戦い続ける。
そんなある日、ケオムカさんから「大事な話がある」とタンパの事務所に呼びつけられた。
ケオムカさんは私に「サカ、ダラス(テキサス州)に行きなさい」と言う。フロリダマットで戦い続けて半年。ようやく南部気質の荒っぽいレスラーたちとの戦い方に慣れつつあった時期だ。
驚きと困惑を隠せない私に対して、ケオムカさんは「ダラスのビッグボスが、ユーを欲しがっているのヨ」と笑う。
私をダラスへと誘ったビッグボスとは――。
※この連載は2008年4月9日から09年まで全84回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全21回でお届けする予定です。