過熱する人気、プロ入り後に初めて味わったスランプ。2年目の球宴は悲しくて苦しくて切なくて…【太田幸司連載#9】
ドラフト会議、意外だった近鉄の指名に僕は迷った
東京六大学で通算18本塁打を記録した早大・谷沢健一、同じく19本塁打の早大・荒川尭、そして三沢高の超高校級右腕・太田幸司――。昭和44年(1969年)のドラフトで、ボクはこの年のビッグ3として高く評価された。スカウトとは直接会うことはできなかったが、窓口となった野球部長の元には西鉄以外の11球団がやってきた。注目の会議は11月20日、東京・日比谷の日生会館で行われた。
母・タマラさんと奈良を訪れた太田氏
希望球団がないわけではなかった。阪神だ。テレビ中継の影響もあってボクは巨人のファンだったが、プレーヤーとしては阪神の大エース・村山実さんにあこがれていた。本拠地はボクを育ててくれた甲子園だし、プロ入りするとすれば阪神が一番いいと思っていた。
当時の抽選方法はまず12球団が予備抽選をして指名順位を決め、1番目の球団から指名して12番目で折り返す方式だった。ボクは高校の教室で授業を受けていた。誰に聞いたのか、隣の席の友達がひそひそ声で教えてくれた。「おい、幸司。阪神は2番目だぞ。1番目は中日だ」。胸が高鳴り、目の前がパーッと明るくなった。直前のマスコミ報道などでは中日は打者補強、阪神は投手補強とされていた。スカウトのあいさつも阪神は実に熱心だったし、指名は確実だと思った。学校側の配慮もあり、ボクは教室を出て結果を待った。
<中日、谷沢健一。外野手、早大>
よし、予定通りだ。さあ、阪神。
<上田二朗(現次朗)。投手、東海大>
「あいた~。大学日本一の即戦力ピッチャーを指名したかぁ」と体中の力が抜けたが、指名はその後も滞りなく進む。<大洋、荒川尭。内野手、早大><南海、佐藤道郎。投手、日大><西鉄、泉沢彰。投手、盛岡鉄道管理局>。そして…。<近鉄、太田幸司。投手、三沢高>。6番目にボクの名前がコールされた。
ン!? 近鉄? 失礼ながら、すぐにはピンとこなかった。この年のパ・リーグで阪急と最後まで優勝争いを演じ、10月の最後の直接対決4連戦で引導を渡された試合をNHKで見た記憶はあった。しかし、本社が何をやっている会社かも知らない。電鉄会社だと教えられても、阪神電鉄の方が数段大きな会社だと思っていた。
そんなこともあって、すぐにプロ入りを決断できなかった。ボクの元には東大を除く東京六大学から推薦入学の誘いが来ていた。プロ入りか、進学か。家に張り付く新聞記者たちは「太田、まだ五分五分」という記事を書く。結論を出すまでに3週間かかった。決め手となったのは、やはり両親の存在だった。
入団発表で佐伯オーナー(右)と三原脩監督(左)に囲まれる太田氏。期待の新人だった
「苦労をかけたおやじとおふくろを早く楽にさせてあげたい」。契約金1000万円、年俸180万円。当時の最高額でボクは近鉄バファローズの一員となった。
過熱する人気、なんと寮の部屋に侵入する女の子まで現る!!
左に佐伯勇オーナー、右に三原脩監督。昭和44年(1969年)暮れの入団発表は、その年のドラフトで指名された9人全員ではなく、まずは1位のボク1人で行われた。背番号はエースナンバーの「18」。近鉄グループの総帥で「天皇」とも言われた佐伯オーナーが、新人の入団発表に駆けつけることは異例中の異例だったので、ボクは期待の大きさと注目度の高さをヒシヒシと感じた。
異例の入団発表が行われた
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