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あこがれの巨人入団、僕はマスコミに「ビッグマウス」というイメージを植え付けられた【仁志敏久連載#3】

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アトランタ五輪まであと1年…悩んだ末に巨人を逆指名した

第18回アジア野球選手権決勝戦、日本×韓国、仁志敏久(左端、95年9月)

アトランタ五輪アジア地区予選で優勝し、日の丸を掲げる仁志氏

 野球漬けだった社会人時代。毎日、朝から暗くなるまで練習をしていました。シーズン中、会社に行くのは1か月に1度くらい。大会終了後、あいさつに行く程度です。日本生命はそれくらい会社を挙げて野球部を応援してくれていたのです。

 大阪・吹田市のグラウンドで毎日午前9時半頃から練習は始まり、午前は守備練習。午後はバッティング、ランニング、トレーニングと体の隅々まで鍛え上げます。その内容も非常に理にかなっており、プロに入った時、社会人の方が練習方法は進んでいると感じられるくらいでした。

 社会人1年目はバットが大学時代の木製から金属に変わったこともあって面白いように打てました。「取れる賞は全部取ってやる」。そんな意気込みでプレーしていたことも記憶にあります。

 そしてこの秋に結婚。早い決断ではありましたが、大阪と東京の遠距離ということを考えてのこと。しかしながら金銭的にも大阪の慣れない暮らしにも妻には苦労をかけてしまっていました。

 2年目の春、心境に変化が出てきました。アトランタ五輪へ行こうと決意していたものの、翌年まで待つことに疑問が湧いてきたのです。

 五輪の2週間のためにもう1年。しかし…。その思いを抱きながら9月の五輪アジア地区予選に臨み、日本は優勝で1位通過。

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優勝に大きく貢献した仁志氏

 悩んだ末、決勝戦後の夜、進路についての面談で、ドラフト凍結選手の解除を申し入れたのです。この時、プロ入り表明が遅かったこともあり、各球団の上位指名の選手は決まっていました。

 複数の球団があいさつに訪れてくれましたが、「もうウチは上位が決まっていまして」がほとんどで、「くじで外れたら」とか「3位以下でよければ」というものばかりでした。

 そんな中で、巨人オリックスは熱心に足を運んでくれていました。特にオリックスは大学時代から熱望してくれており、イチロー選手を中心に勢いのあるチームは魅力的でした。

 しかし、子供の頃からの憧れが捨てきれず、悩み抜いた結果、巨人を逆指名したのです。
 それまで足しげく通ってくれたオリックスのスカウト陣に断りを入れたときのことが今でも忘れられません。

「すみません」。そう言ったとき、「今日、部屋に入ってきたときの顔ですぐ分かったよ。そう決めたのなら仕方ない。でも、今度は俺たちの目に狂いはなかったということを証明してくれよ」。長いこと追いかけてくれた期待に応えられない申し訳なさでいっぱいでした。でもチャンスは一度。選ぶなら、やはり夢を選びたかったのです。

福留孝介

史上最多7球団が1位指名したPL学園の福留孝介

 巨人も1位はPL学園の福留孝介君と決まっていたため、2位での指名ということでした。しかし、上位での指名であればそんなことは問題ではありませんでした。

 結果的にずいぶん遠回りしたような気もしますが、積み上げてきた自信がようやく満期になったのです。

「ど~もぉ~」聞き覚えのある甲高い声は突然に…

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