出すことのなかった早大退部届と〝胴上げボイコット〟の真相【仁志敏久連載#2】
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早大の練習は木内野球とはまったく異質だった
夢を膨らませて早稲田大学に入学。野球部の練習に入学前から参加していました。
ある意味カルチャーショック。だだっぴろい土のグラウンドに土の室内練習場。そこで行われていた練習は高校時代とは全く違うものでした。
もともと石井連蔵監督は精神的に追い込みながら鍛錬する監督。伝統的な早稲田の文化が染み渡った人です。木内幸男監督とは練習方法から考え方まで全く違います。また、違った野球が始まりました。
当時の練習はレギュラー陣だけのもの。初めにフリーバッティング。これを1時間以上。それが終わると1か所バッティング。これも1~2時間。その後にシートノック。ここでは1年生は試練を味わいます。捕れそうにない所へ打たれ、左右に振り回される。先輩からは「何やってんだ!」「捕れよ!」と罵声が飛んできます。順番が回ってくる度にヨレヨレになりながらこなさなければならないのだから大変です。
しかも、それまでのバッティング練習ではすべて守っているわけですから、一日中守っているわけです。もう、技術がどうこうではなく、とにかく鍛錬、鍛錬。
大学4年間は鍛錬の日々だった
また、当時の早稲田では野球で入学する選手が少なく、一般受験で入る選手のほうが多かったということもあって、野球学校のように勝つことが義務だと感じる選手が少なかったことへの戸惑いもありました。中には野球をやっていなかった者もいましたから、意識の違いは非常に大きかった。
そんな中で同期の大越基君とは気が合いました。彼は1年生の春からマウンドに立ち、優勝の瞬間も輪の真ん中にいました。バット引きをしながらそんな彼がうらやましく、あまりにも大きな差を感じたものです。
残念ながら春のリーグ戦終了後に退部してしまい、イジメだとも報道されましたが、そんなことはありません。先輩も非常に彼には気を使っていましたから。それが運命であり、彼の選んだ道だということです。
リーグ戦が終わってからの練習は本当に修業でした。
フラフラになりながらもバットを振り続けた
午後2時ごろから練習は開始され、ウオーミングアップ。キャッチボールが終わると40~50分の特守。それが終わるとティーバッティング。30球打ってはライトからレフトポールをダッシュで2~3往復。これを2時間ほど繰り返す。たまにプラス1か所バッティング。石井監督は「疲れた時の力の加減で打つ」といったようなことを言っていましたが、こちらはそれどころではありません。ちなみにバッテリーはそれをピッチングでやっていました。
そんな夏が終わり、秋のリーグ戦。春の新人戦で3試合2ホームランを打ったこともあってか、2打席ほど立たせてもらいましたが、いずれも凡退。試合に出るには修業が足りなかったようです。鍛錬の毎日の楽しみといえば…。
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