1967~69のGSブームは「最高やったよ」【ダイアモンド✡ユカイ×鮎川誠 対談・中編】
「レッド・ウォーリアーズ」のボーカル、ダイアモンド✡ユカイが、ゲストを招いて昭和時代に巻き起こった日本のロックムーブメントをひもとく。今回からは「シーナ&ロケッツ」のギタリスト、鮎川誠が登場。日本のロック草創期から活躍する鮎川が語るロック・ヒストリーとは?(企画構成=アラフィフ記者F)
一触即発だった…ショーケンとのファーストコンタクト
ユカイ 高校時代のビートルズ武道館公演を見た後に加わったバンドはどんな曲をやったんですか?
鮎川 「ベイビーズ・イン・ブラック」「イエスタデイ」「アイム・ダウン」…ビートルズが武道館でやった曲が中心やった。あとストーンズの「一人ぼっちの世界」、ヤードバーズの「フォー・ユア・ラヴ」も入れてくれて。あの武道館公演は僕にものすごい影響を与えてくれた。
ユカイ 鮎川さんが歌ったんですか?
鮎川 中園君ちゅう、ジョン・レノンの生まれ変わりかっちゅうぐらいうまいボーカルがおって、後で聞いたら1歳下やった。みんなよその高校やったけど、自己紹介はいらんやったんよ。「この曲知ってる?」でよかったけんね。
ユカイ ロックによって、いとも簡単に学校の壁を越えてつながったんですね。
鮎川 そのバンドでプールサイドのステージに立って、みんなが俺を見よるってドキドキしよったけど、実際は誰も見とらんよね。子供はプールに飛び込んどるし、ステージ上がってきて「わー」とかやりおるし(笑い)。それが俺の初めてのバンド体験やった。で、次に秋の学園祭に出ることになって。
ユカイ 大学受験は大丈夫だったんですか?
鮎川 全然歯がたたんで、浪人することになった。浪人中もね、窓に“コツン”ち石が当たって、窓を開けると「3人いるから、まこちゃん来んね。神社の境内にアンプ置いてあるけ」ちゅうて、マージャンのノリで誘われて(笑い)。浪人中もバンドしよったよ。
ユカイ バンドマンとしては環境がいいけど、受験生としては…(笑い)。
鮎川 その浪人時代に、「ミリタリーブーツに細いタータンチェックのズボンの5人組が、街の目抜き通りに立っとる」ちゅうて友達が血相変えて報告に来てね。当時の久留米はそんなヤツがおるって考えられんやった。で、俺はピンときたんよ。それはバンドや。GSの流れや。出るならキングに決まっとると。久留米には「キング」ちダンスホールがあって、その5人は「アタック」ちゅうバンドやった。
ユカイ そのバンドは…。
鮎川 キングに見に行ったことがきっかけで、大学に入ってからそのバンドに加入したんやね。
ユカイ アタックのもう一人のギター、篠山哲雄さんとは後に「サンハウス」を結成しますね。浪人時代にも音楽を捨てなかったことで、鮎川さんの“現在”に向けて歯車がかみ合いだしてます。
鮎川 そういや、久留米の大きな体育館にテンプターズが来て、アタックが前座をやったことがあった。えらいことがあったけど。
ユカイ テンプターズのボーカルはショーケンこと萩原健一さん。えらいことって?
鮎川 もうひとつバンドが前座におってね。そのボーカルがショーケンそっくりやった。ステージの横から顔を出すたびに、満員のお客さんが「ギャー」ち歓声を上げるもんやから、味占めて何度もやりおった。それでテンプターズがものすごい怒って、なぜかそいつらじゃなく、俺らに「いい加減にしろ!」ち言うてきた。アタックはテンプターズが好きやったけど、血の気が多いメンバーが、その言葉が終わらんうちに椅子持ってわーちなって、一触即発。
ユカイ それはすごい話! 鮎川さんとショーケンさんのファーストコンタクトがそんな形だったとは!
日本音楽の音色を変えた「GSは僕らにものすごい刺激を与えてくれた」
ユカイ ショーケンこと萩原健一さんが怒鳴り込んできて、どうなったんですか?
鮎川 アタックのメンバーは九州のもんやから、東京の言葉も気に入らん。「東京から来た連中が東京弁で偉そうなこと言いやがって」ち余計に腹が立ちよった。
ユカイ 当時は今よりも東京への対抗心が強かったかもしれないですね。ちなみに萩原さんは東京じゃなく、埼玉出身です。俺の実家の近く。
鮎川 そのショーケンが一番荒れとった。真っ先に文句言いに来て、口火を切ったのもショーケンやった。一触即発状態になって、俺はケンカとか好かんけん、どうしたもんかと見よったら、さすがに興行主が仲介に入った。あのころはまだ、ヤクザが仕切っとる時代でね。テンプターズは松崎由治さん、こっちは篠山哲雄さんと、ジェントルマンなリーダー同士が話して仲直りして。
ユカイ 萩原さんは納得したんですか?
鮎川 ずっとふてくされてたかもしれんね。
ユカイ 野性的ですね。相手がそういう人でも、自分の感情を収めない。そういうところが萩原さんらしくてかっこいいけど、険悪な空気が残ったんじゃないですか。
鮎川 まぁ、でもね、俺はうれしいんよね。ショーケンとのこういう思い出があるのが。テンプターズは血が通った生身のバンドやったね。
ユカイ 確かに、忘れられない特別な出来事ですね。それに“飼い慣らされない”ロックなバンドだったんですね。その後、萩原さんとその話は。
鮎川 内田裕也さんや菊池武夫さんと一緒に何度か会ったし、お酒も飲んだけど、この時の話はとうとうせずやった。いつかそういう話もしようと思っとるうちに、ね…。
ユカイ 亡くなって半年たつんですね。テンプターズは「GSブーム」(67~69年)の担い手のひとつでした。当時、鮎川さんはGSをどう見てましたか?
鮎川 最高やったよ。スパイダースもタイガースもテンプターズもゴールデンカップスも好きやった。松崎さんと井上堯之さん(スパイダース)みたいなギターヒーローがおったからね。テレビにかじりついて見よった。GSは僕らにものすごい刺激を与えてくれた。
ユカイ GS以前のヒット曲を見ると、演歌と歌謡曲ばかりです。GSの登場は、日本の音楽のビートや音色を変え、年齢が近い鮎川さん世代にも影響を与えたんですね。ところで以前にこのコーナーで、森重樹一と「萩原さんと沢田研二さんこそ、昭和の歌謡界にいたロックスターだ」という話をしたことがありました。
鮎川 俺もその2人は憧れやったけど、シーナにとってはジュリーとショーケンは特別。神様みたいな存在やったよ。
ユカイ 沢田さんと接したことは?
鮎川 これはだいぶ後、「シーナ&ザ・ロケッツ」の3枚目のシングル「ベイビー・メイビー」(80年10月発売)でジュリーとテレビに出してもらった時があってね。ジュリーのバンドが生演奏するのは決まっとって、「生演奏は1組しかできません。シナロケはカラオケでやってください」ちなってね。
ユカイ 沢田さんはバンドの生演奏にこだわってましたからね。
鮎川 シーナは口パクもカラオケも全部おもしろがってやるし、俺らは気にせんから、「いいですよ」ちゅうてカラオケでやったんやけど、終わった後にジュリーが…。
突然、内田裕也さんが博多に現れ「いいね。なんかあったらヨロシク!」
ユカイ 終わった後、沢田さんに何か言われたんですね?
鮎川 ジュリーがシーナに「君たち、演奏しないのか。幻滅した」っち言うてね。シーナは「何言ってるのよ! あなたたちが生でやるから私たちがカラオケになったんじゃない!」と。
ユカイ 言い返したんですか!?
鮎川 心の中で思ったみたい(笑い)。
ユカイ 言えなかったんですね。沢田さんにこの話が届いて、40年越しに誤解が解けないかな(笑い)。
鮎川 これもまた特別な思い出やね。
ユカイ 実はある時期からテレビの音楽番組は、「ロックバンドは1組」という縛りがありました。
鮎川 そうやったね~。ロックバンドは文句ばかり言うし、メンバーが1人来ないこともあるし、問題が多いからね(笑い)。
ユカイ レッズが「夜のヒットスタジオ」に初めて出た時、俺、骨折してました(笑い)。話を鮎川さんの大学時代に戻します。アタックの知り合いだった柴山俊之さんと1970年にサンハウスを結成した時、プロになろうと考えてたんですか?
鮎川 いや、ただ好きな音楽をやりたいだけで、プロなんて夢の夢のその果ての果てやと思っとったよ。レッド・ツェッペリンみたいにブルースをやりたいとか、そういう思いで作ったのがサンハウス。僕らは門前の小僧のようなもんやけ、「次はエルモア・ジェームスの曲です」とアーティストの名前出して演奏するのが喜びやった。レコードにしようとか、デビューしようなんち誰一人考えんやった。
ユカイ 演奏はどのようなところで?
鮎川 ダンスホールやね。1か月25万とか30万円で契約して、楽屋で分けとる時、こんな好きなことして金が入るなんて最高だ!っち思とった。
ユカイ ディスコやキャバレーではなく?
鮎川 キャバレーはジャズ系で、ロックバンドはダンスホールやった。
ユカイ 70年ごろの福岡には「ハニー・ビー」「赤と黒」「美松」といったダンスホールや、有名な喫茶店「照和」がありました。そういう受け皿があるから、福岡から数々のミュージシャンが誕生したんですね。ところでサンハウスは74年に内田裕也さんがプロデュースした「ワンステップフェスティバル」(福島・郡山)に出演しました。どういう経緯でしたか?
鮎川 73年、結成して3年たったころやね。チューリップや甲斐バンドやらの同じ福岡のバンドが上手な曲作っていい詞を書いて、高田渡や吉田拓郎や友部正人、友部はいま「3KINGS」を一緒にやりよるけど、フォークの人たちが日本語で歌いよるの見とってね。僕らもブルースを深くまでかじって、これを生かして日本語のオリジナル曲を作ろうち、シフトチェンジが始まって、そしたら裕也さんが博多まで見に来た。
ユカイ 情報が早い!
鮎川「Youたち、演奏してみろよ」って言うけ、作りたての「レモンティー」とか何曲か披露したら、「いいね。なんかあったらヨロシク!」って帰っていった。俺たちは「何しに来たんやろ?」ち、頭の中「?」がいっぱいやった(笑い)。
※この連載は2019年8月9日から12月13日まで全10回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真やアーティスト公式のYouTube動画を加えて3回にわけてお届けする予定です。